第9話 英雄になるな
榊原伊織が管理局へ到着したのは、俺たちの事情聴取が一段落してからだった。
待機室の扉が開き、背の高い女性が入ってくる。暗い赤茶色の髪を低い位置でまとめ、紺色のジャージを着ていた。鍛えられた体格と迷いのない足取りは、学校の教師というより現役の踏査士に見える。
ただ、左脚を踏み出す瞬間だけ、歩幅がわずかに狭くなった。
室内にいた管理局員が、自然に道を空ける。
「榊原先生」
久世さんが立ち上がろうとした。
「座ってなさい」
低く、よく通る声だった。
榊原先生は久世さんの前まで来ると、腕や肩の傷を目で確かめる。次に白瀬さんの顔色を見て、最後に固定された雨宮さんの足首へ視線を落とした。
「雫、美玲、小春。痛むところは、医療班に全部伝えた?」
「はい」
「隠してない?」
「隠してません」
「うちはもう、すっからかんやけどな」
「魔力の話だけじゃない。吐き気、頭痛、耳鳴りも含めてよ」
白瀬さんが小さく背筋を伸ばす。
「……今のところ、ないです」
「ならいい。報告と反省は、検査が全部終わってから聞く」
「先生、あの……」
雨宮さんが申し訳なさそうに口を開いたが、榊原先生は先に首を振った。
「謝るのも後。まず、自分が無事か確かめなさい」
叱っているのに、声を荒らげてはいない。それでも3人が素直に従うあたり、普段から信頼されている相手なのだろう。
生徒たちの状態を確かめ終えると、榊原先生はようやく俺へ向き直った。
「あなたが、相良浩司さん?」
「はい」
「榊原伊織です。彩乃宮第一高校で、迷宮踏査部の顧問をしています」
差し出された手を握る。手のひらは硬く、指の付け根には古いまめが残っていた。
榊原先生は手を離すと、その場で深く頭を下げた。
「うちの生徒を助けていただき、ありがとうございました」
「頭を上げてください。俺1人で助けたわけじゃありません」
「それでも、あなたが最初に割って入らなければ、3人ともここへ戻れなかった。顧問として、礼を言わせてください」
第一世代と呼ばれた人に頭を下げられ、居心地が悪くなる。俺が慌てて立とうとすると、腰に痛みが走った。
「ぐっ……」
「そのままで」
榊原先生に即座に止められた。
「医療班から、右肩と腰に強い負荷が出ていると聞いています。格好をつけて立つ場面じゃありません」
「すみません」
「謝る場面でもない」
厳しいのか優しいのか、判断に困る人だった。
榊原先生は調査官から端末を受け取り、記録を読み進めていく。俺が魔物と3人の間へ割り込んだこと。床や氷壁の境目を断ち、逃げ道を作ったこと。歪んだ通路を閉じ、救援班が来るまで障壁を維持したこと。
《ダンジョンの裏道》の項目を表示したところで、その指が一度止まった。
だが、榊原先生は何も言わず、最後まで記録へ目を通した。
「相良さん。1つ、聞かせてください」
「はい」
「剣の扱いも、自分の能力も分からない状態で、どうして魔物の前へ出たんですか」
感謝とは別の問いだった。
俺は少し考え、正直に答える。
「扉の向こうから、助けを求める声が聞こえたからです」
「それだけ?」
「それだけです。勝てると思っていたわけでも、格好いいことをしようと思ったわけでもありません。ただ、聞いてしまった以上、店の中に残れなかった」
榊原先生は、俺の顔を黙って見ていた。
「自分が死ぬ可能性は?」
「考えました」
「それでも出た」
「はい」
「それであなたが死んだら、助けられた生徒たちは、あなたの死を背負うことになります」
胸に真っ直ぐ刺さる言葉だった。
誰かを助けることしか考えていなかったわけではない。あのときの俺は、ただ安全な場所へ残る自分を許せなかった。そこに、自分の死後まで見通す余裕はなかった。
「うちの部では、英雄になろうとするなと教えています」
榊原先生は3人にも聞かせるように言った。
「生きて帰って、明日も学校へ来い。それが最優先です。怖がることも、逃げることも恥じゃない。死んだ人間だけが立派になるような教え方を、あたしはするつもりがない」
その言葉を聞く3人の表情は真剣だった。
榊原先生は再び俺を見る。
「相良さんの場合は、生きて帰って、明日も仕事へ行け、ですね」
「この腰だと、明日は休んだ方がよさそうですが」
「そこは医者の判断に従ってください」
「はい」
わずかに空気が緩む。
しかし、榊原先生の確認は、それで終わらなかった。
「もっとも、あなたが何も考えずに突っ込んだわけではないことも、記録を読めば分かります。魔物そのものではなく足場を狙い、雫の判断に従って撤退した。小春の足を固定し、最後尾も引き受けた」
「できることを探しただけです」
「危険な状況で、それを続けられる人は多くありません」
褒められているのだろうが、素直に喜びにくい。先ほどの言葉がまだ胸に残っている。
「無茶はした。でも、考えることをやめてはいない。そこは、ただの無謀とは違います」
榊原先生はそう言うと、端末を調査官へ返した。
事情聴取を担当していた調査官が、机の上で指を組む。
「相良さんについては、後日、本局での精密検査が必要です。それまで《八重垣剣》の使用と、迷宮への立ち入りは控えていただきます」
「分かりました」
「能力が発現している以上、今後も一切使わずに生活できるとは限りません。精密検査の結果によっては、認定指導員の監督下で訓練を受けていただくことになります」
「指導員ですか」
「武装の安全な召喚と解除、身体への負荷、能力の作動条件を確認する必要があります。使用者本人が効果を把握しないまま発動する状態は危険です」
正論だった。
「でも、俺には踏査士の知り合いなんていません」
俺が言うと、久世さんが榊原先生を見た。
「先生」
「何?」
「相良さんの訓練を、私たちの部で受け入れることはできませんか」
予想していなかった言葉に、俺は久世さんを見る。
「久世さん?」
「相良さんの能力を実際に見たのは、私たちです。どのような場面で何が起きたのかも説明できます。榊原先生は認定指導員ですし、学校には簡易測定と訓練の設備もあります」
冷静で、筋の通った提案だった。
白瀬さんもすぐに身を乗り出す。
「うちも賛成や。命助けてもろて、はい、ここでお別れですっていうんは薄情すぎるやろ」
「恩返しで決める話じゃない」
榊原先生が静かに釘を刺す。
「分かってる。でも、相良のおっちゃん、放っといたらまた1人で無茶しそうやし」
「そんなに信用がありませんか」
「初めて持った剣で大型の魔物に割り込んだ人が言う?」
返す言葉がない。
「それに、今度はうちらが支える番やと思う」
白瀬さんは、さっきまでの軽さを少しだけ引っ込めて言った。
雨宮さんも、固定された足を気にしながら身体を起こした。
「小春も……今度は、相良さんを支えられるようになりたいです」
「雨宮さんまで」
「助けてもらうだけで終わりたくないです」
3人に次々と言われ、どう反応すればいいのか分からなくなる。
俺が彼女たちと会ったのは、ほんの数時間前だ。名前を知ったのも迷宮の中だった。それなのに、ずっと得られなかった仲間の輪が、急にこちらへ開かれたような感覚があった。
嬉しい。
そう思った直後、40歳の男が女子高校生3人の部活動に混ざる光景を想像し、急に現実が追いついてきた。
「待ってください。彩乃宮第一高校って、女子校ですよね」
「そうやで」
白瀬さんが当然のように答える。
「余計に俺が入るのはまずいのでは?」
「生徒として転入してくるわけやないんやから、平気やろ」
「それでも、絵面としてどうなんでしょう」
「そこ気にするんや」
白瀬さんが少し笑った。
榊原先生は3人を順番に見た。
「雫、美玲、小春。本当に分かってる? 助けてもらった感情だけで、部の活動に人を迎えることはできない。相良さんの能力が危険だと判断されれば、訓練自体が認められない可能性もある」
「分かっています」
久世さんが即答した。白瀬さんと雨宮さんも、黙って頷く。
「相良さんが正式な部員になれないことも、私たちと同じ資格で活動できないことも承知しています。それでも、訓練する場所が必要なら、私たちの部が一番状況を共有できます」
3人の意思を確認し、榊原先生は小さく息を吐いた。
「ここにいる3人は全員賛成、か」
それから、調査官へ向き直る。
「相良さんの能力を実際に見た生徒が3人いる。うちには訓練設備があり、あたしも指導資格を持っています。特例迷宮踏査訓練員として、外部協力者の扱いで申請します」
「高校の認定制度へ、40歳の成人を組み込む前例はありません」
「生徒として扱えとは言っていません。精密検査を終え、訓練許可が下りるまでは迷宮へ入れない。剣の使用も緊急時を除いて禁止だ。許可後の訓練も、まずは召喚と解除、基礎動作、身体負荷の確認までに限定する。未訓練のまま放置するより、目の届く場所で教える方が安全です」
調査官は端末へ視線を落とし、しばらく考えた。
「現場では決定できません。ただし、申請を上げることは可能です」
「それで構いません」
榊原先生の返答には迷いがなかった。
調査官は今度はこちらを見る。
「相良さん本人の意思も必要です」
全員の視線が集まった。
「俺ですか」
「あなたの能力と身体に関わる話です。周囲だけで決めることはできません」
当然だった。
榊原先生も、俺へ向き直る。
「相良さん。生徒たちはこう言っていますが、どうしますか」
「どう、と言われても……」
俺は設備管理員だ。明日から急に踏査士へ転職するつもりもなければ、生活を投げ出して剣の修行へ明け暮れるつもりもない。
けれど、《八重垣剣》はすでに俺の中にある。
また誰かの声を聞いたとき、何も知らないまま同じ無茶を繰り返すのか。剣が身体を支えるからと限界を越え、次は本当に動けなくなるのか。
知らないままでいる方が、怖かった。
「仕事を辞めて、踏査士になるつもりはありません」
「辞めろとは言ってません」
榊原先生は即答した。
「むしろ教員としては、力を得たからって生活を投げ出すなと言いたいところです。仕事を続けながら、休日や、都合の合う日の放課後に訓練すればいい」
「放課後……」
40歳になってから、自分へ向けられるとは思わなかった言葉だった。
「それに、あなたの剣も測定器も、年齢を理由にあなたを無視してくれなかったでしょう」
胸の奥に、10年前の痛みがよみがえった。
検査すら受けられず、列から外れた日のこと。生まれるのが早かったというだけで、自分の可能性を確かめられなかったこと。
今度は、剣が俺を選んだ。
「……教えてもらえるなら、お願いします」
俺は3人と榊原先生を見た。
「英雄になりたいからではありません。次に同じことが起きたとき、自分が何をしているのか分かった上で動きたいんです」
「それでいい」
榊原先生が頷く。
「許可が下りるまでは迷宮へ入らない。剣も緊急時以外は使わない。それが条件です」
「分かりました」
「返事だけは素直ですね」
「40歳なので、叱られ慣れてはいます」
「年齢は免罪符になりませんよ」
「はい」
榊原先生の口元が、わずかに緩んだ。
「申請の準備が整ったら連絡します。その前に一度、学校へ来てください。訓練設備を見てもらい、学校側とも面談します」
「咲珠県立彩乃宮第一高等学校へ、ですか」
「ほかにどこがあるんです」
女子校へ40歳の男が足を踏み入れる。
管理局より緊張する場所かもしれない。
「相良さん」
雨宮さんが俺を呼んだ。
不安そうだった表情が、今は少しだけ柔らかくなっている。
「今度は、放課後に会いましょう」
久世さんが静かに頷き、白瀬さんが笑う。
「待ってるで、相良のおっちゃん」
40歳になった俺へ、放課後の約束をする高校生が現れるとは思わなかった。
どうやら俺の青春は、20年以上遅れて始まるらしい。
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