第10話 40歳、女子校へ
迷宮から戻って数日後。
俺は咲珠県立彩乃宮第一高等学校の校門前で、すでに帰りたくなっていた。
紺色のブレザーを着た女子生徒が、次々と校門を出入りしている。何人かの視線がこちらへ向くたび、場違いな気分が強くなった。
今日は仕事帰りではない。襟のあるシャツにジャケットを羽織り、管理局から渡された書類も持っている。少なくとも、迷宮から出てきたときの濡れた作業着姿よりはまともなはずだ。
管理局で治療を受けたおかげで、あの日痛めた右肩と腰も、日常生活に支障がない程度まで回復している。もっとも、以前からの腰痛まで消えたわけではない。
それでも、平日の午後に女子校の前で立ち尽くす成人男性という事実は変わらない。
「校門の前で挙動不審にならないでください」
背後から声をかけられ、振り返る。
榊原先生が、管理局で会ったときと同じ紺色のジャージ姿で立っていた。
「好きで挙動不審になっているわけじゃありません」
「堂々としていればいいでしょう。学校側には話を通してあります」
「事情を知らない生徒には通ってませんよね」
「そのうち慣れます」
「慣れるほど来ることになるんですか」
「それを決めるための面談です」
正論だった。
管理局で精密検査の日程が決まり、それに先立って、学校側との面談を受けることになった。俺を特例迷宮踏査訓練員として受け入れるかどうか。今日は、そのための最初の手続きだった。
榊原先生に続いて校門をくぐる。
来校者受付で身分証を提示すると、首から下げる入校証を渡された。赤い縁取りの札には、外部来校者と大きく書かれている。
「校内では必ず見える位置に着けてください」
「外したら、すぐ警備員に囲まれそうですね」
「囲まれる前に、あたしが止めます」
「安心していいのか分かりません」
校舎は、外から見た印象よりも古かった。磨かれた廊下や木製の階段には長い年月が刻まれているが、照明や空調、非常設備は新しいものに更新されている。
つい、天井の感知器や誘導灯へ目が向いた。
「施設の点検に来たわけじゃありませんよ」
「分かってます。職業病です」
「異常を見つけても、今日は勝手に工具を出さないでください」
「工具は持ってきてません」
少し迷ってから、鞄の中に小型ライトだけ入っていることは黙っておいた。
案内されたのは、校長室の隣にある応接室だった。
中には、先に2人が待っていた。
上座に座る女性は、彩乃宮第一高校の校長、長谷川佳乃だった。穏やかな目元をしているが、背筋は真っ直ぐに伸びている。その隣では、眼鏡をかけた男性教頭の森岡直樹が、何枚もの書類を揃えていた。
榊原先生が2人の隣へ座り、俺は向かいの椅子を勧められた。
「相良浩司さんですね」
長谷川校長が先に口を開いた。
「はい。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、来校していただきありがとうございます。まずは本校の生徒3名を救ってくださったことに、学校を代表してお礼を申し上げます」
深く頭を下げられ、俺も慌てて頭を下げ返した。
「俺だけの力ではありません。3人が最後まで動いてくれたから、救援まで持ちこたえられました」
「その点も報告書で確認しています。それでも、あなたが現れなければ帰還できなかった可能性が高い。感謝と、今後の受け入れ判断は分けて考えますが、感謝まで差し引くつもりはありません」
柔らかな口調だが、線引きは明確だった。
長谷川校長が視線を向けると、森岡教頭が書類を1枚、机の中央へ置いた。
「では、実務的な確認をさせていただきます」
「お願いします」
「本校は女子校です。成人男性を継続的に校内へ受け入れる以上、相良さんの人柄だけを根拠に運用することはできません」
「当然だと思います」
むしろ、そこを曖昧にされる方が困る。
「管理局から訓練許可が下りた場合も、来校できるのは事前に申請した日時に限ります。校内では外部協力者証を携帯し、立ち入りは管理棟、迷宮踏査部の部室、専用訓練棟など、指定区域だけです」
森岡教頭は、指で項目を追いながら説明を続ける。
「訓練には榊原教諭、または学校が指定した認定指導員が立ち会います。生徒との連絡には、榊原教諭が参加する迷宮踏査部のチャットグループを使用し、個人的な連絡先の交換や、許可のない単独での校外活動は認めません。」
「すべて従います」
「仕事との両立は可能ですか」
「勤務はシフト制です。毎日というわけにはいきませんが、事前に日程が分かれば調整できます。仕事を辞めるつもりはありません」
森岡教頭のペンが止まり、わずかに表情が和らいだ。
「その点は安心しました。能力を得た直後に退職し、生活基盤を失う人もいますので」
「40歳で無職になる勇気までは、まだ持ってません」
「持たなくて結構です」
真顔で返され、榊原先生の口元が少しだけ緩んだ。
長谷川校長が、机の上で指を組む。
「相良さん。あなたは、迷宮踏査士になることを希望していますか」
「今のところは、考えていません」
「では、なぜ訓練を?」
「《八重垣剣》は、もう俺の中にあります。使わずに済むなら、その方がいいのかもしれません。でも、何も知らないまま持ち続ける方が危険です」
管理局で答えたことと、大きくは変わらない。
「次に誰かの助けを求める声を聞いたとき、また同じように動くかもしれません。そのとき、偶然うまくいくことを期待したくない。自分の力と限界くらいは、知っておきたいんです」
「前へ出ない、という選択を覚えるためにも?」
長谷川校長の問いに、管理局で榊原先生から言われたことを思い出す。
「はい。助けることと、無茶をすることは同じじゃないと教わりました」
「なら、もう1つ覚えてください」
長谷川校長の声は穏やかなままだった。
「大人として生徒を守るとは、必ずしも生徒より前に立つことではありません。規則を守ること、引き返す判断をすること、彼女たちに無謀な背中を見せないことも含まれます」
「分かりました」
「今の返事を、行動でも守ってください」
長谷川校長は森岡教頭と視線を交わし、最後に榊原先生を見る。
「榊原先生。現場責任者として、本当に受け入れられますか」
「はい。相良さんの能力を放置する方が危険です。能力を実際に見た生徒がいて、訓練設備もある。あたしの監督下で基礎から教えるのが最も安全です」
「生徒たちの感情に引っ張られてはいませんね」
「そこは分けています。恩返しだけで受け入れるつもりなら、管理局で止めていました」
長谷川校長は小さく頷いた。
「分かりました。管理局の精密検査と訓練許可を条件に、特例迷宮踏査訓練員としての受け入れを認めます」
詰めていた息を、ようやく吐き出した。
「ありがとうございます」
「まだ仮の承認です。正式な外部協力者証は許可後に発行します。それまでは、今日と同じ来校者扱いです」
森岡教頭が釘を刺す。
「気を抜いたつもりはありません」
「それなら結構です。榊原先生、校内の指定区域と設備を案内してください」
「分かりました」
面談を終えて応接室を出ると、肩から余計な力が抜けた。
「管理局の事情聴取より緊張しました」
「校長と教頭を魔物みたいに言わないでください」
「魔物は倒すか逃げるかできますから」
「聞かれたら受け入れを取り消されますよ」
榊原先生に連れられ、一般校舎から渡り廊下を進む。窓の向こうには、体育館とは別に建てられた灰色の建物が見えた。
「あれが専用訓練棟です」
内部へ入ると、学校の施設とは思えない光景が広がっていた。
床や壁は耐魔素材で補強され、可動式の壁や段差を組み替えることで、狭路や崩れた足場など、さまざまな迷宮環境を再現できるらしい。
非常停止ボタンや区画ごとの換気設備も整っている。少なくとも、安全対策を形だけで済ませている施設ではなかった。
「学校の部活動というより、専門の訓練機関ですね」
「迷宮へ生徒を送り出す以上、竹刀を振らせて終わりにはできません」
俺は無意識に、点検票の貼られた制御盤へ近づいていた。
「相良さん」
「見るだけです」
「まだ何も言ってません」
「工具を出すなと言われる気がしました」
「よく分かってるじゃないですか」
訓練区画の奥には、装備保管庫と簡易医務室があった。
医務室の棚には、透明な液体の入った小瓶が種類ごとに並んでいる。壁際の寝台には、魔力反応を読み取る検査板と、治療術を補助する装置が取り付けられていた。
「回復薬ですか」
「ええ。軽傷用と応急安定用が中心です。本格的な治療は管理局か提携病院で行います」
「雨宮さんの足は?」
「早い段階で固定され、帰還後すぐ治療を受けたので、もう問題ありません。あの程度の捻挫なら、適切な回復薬と治療術でほぼ元に戻せます」
あのとき大きく腫れていた足首を思い出す。
「便利なものですね」
「便利ですが、万能ではありません」
榊原先生は、わずかに左脚へ重心を移した。
俺の視線に気づいたのだろう。自分の脚を軽く叩く。
「あたしのこれは、救助されるまで時間がかかったうえ、傷口から瘴気が入り込んだ。肉体だけでなく、魔力経路まで壊れた」
「治せなかったんですか」
「傷口は塞がりました。歩けるところまでは戻った。でも、時間が経って身体へ定着した傷や、特殊な侵食まで完全に元へ戻せるわけじゃありません」
榊原先生は、棚の回復薬へ視線を向けた。
「治療は、何でもなかったことにする魔法じゃない。肉体を直せても、消耗した魔力や疲労、恐怖まで消してはくれません」
だから管理局で、3人は治療が終わったあとも休まされていたのだろう。
「覚えておきます」
「特に相良さんは、剣を握っている間だけ無理が利く。治ったと勘違いしないでください」
「俺の腰痛も、回復薬で新品にはなりませんか」
「長年かけて馴染んだ腰痛なら、もう身体の一部でしょうね」
「嫌な馴染み方をしてますね」
医務室を出て、さらに奥の廊下を進む。
突き当たりの扉には、《迷宮踏査部》と書かれた小さな札が掛かっていた。
扉の向こうから、聞き覚えのある声がする。
「絶対、もう来とるって。先生、案内長いねん」
「美玲、座って待って」
「小春、お茶冷めてへん?」
「まだ大丈夫です」
榊原先生が、ため息をつきながら扉を開けた。
「聞こえてるわよ」
室内にいた3人が、揃ってこちらを見る。
窓際の机では久世さんが書類を整理し、雨宮さんは小さな急須の前に座っていた。白瀬さんは立ち上がり、満面の笑みでこちらへ駆け寄ってくる。
「相良のおっちゃん、ほんまに来た!」
その勢いに、俺は反射的に半歩身構えた。
白瀬さんは俺の目の前で急停止する。
「今日は抱きついてへんで」
「褒める基準が低すぎます」
榊原先生が即座に返した。
「俺としては助かります」
「相良のおっちゃんまで!」
白瀬さんが頬を膨らませる。あの氷の通路で震えていた姿はもうなく、迷宮で見せていた軽やかな調子が戻っているように見えた。
雨宮さんが立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。
「相良さん、こんにちは」
「こんにちは。足は、もう大丈夫なんですか」
「はい。もう走れます」
そう言って、その場で爪先を上下させる。足を庇う様子はなかった。
「走る必要はありません」
久世さんが書類を置いて立ち上がった。
「相良さん、来てくださってありがとうございます。面談はどうでしたか」
「条件付きですが、受け入れてもらえることになりました。正式には管理局の許可が下りてからです」
3人の表情が明るくなる。
「ほら、言うたやろ。大丈夫やって」
「白瀬さんは面談に出てないでしょう」
「気持ちの話や」
部室の壁には、迷宮の地図や活動予定表が貼られていた。棚には教本と救命用品が並び、隅には手入れの終わった防具が整然と置かれている。
戦うための準備が詰まっているのに、不思議と空気は柔らかい。
久世さんが、机の端に寄せられた椅子を示した。
「相良さん用に、椅子を1つ増やしました」
「まだ許可も下りてませんよ」
「下りたあとで用意するより、先にあった方がいいでしょう」
「雫ちゃん、昨日から位置めっちゃ悩んどったで」
「美玲」
「言うたらあかんかった?」
久世さんの視線が少しだけ鋭くなり、白瀬さんが笑ってごまかす。
雨宮さんが、その席の前へ紙コップを置いた。
「あの……コーヒーでよかったですか」
「ありがとうございます」
腰を下ろすと、窓の外から運動部の掛け声が聞こえてきた。机の上では湯気が揺れ、目の前では3人が今後の予定を相談し始めている。
場違いだとは思う。
俺は40歳で、彼女たちは高校生だ。正式な部員にもなれず、彼女たちと同じ立場で迷宮へ入れるわけでもない。
正式な許可も、まだ下りていない。
それでも、この部屋にはもう、俺の席があった。
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