第7話 境界を閉じる
前から聞こえた。
氷の向こう側で響いた低い咆哮に、俺の背筋が冷たくなる。背後から近づいていたはずの魔物が、今度は正面の通路の奥にいる。
同じ魔物なのか、別の魔物なのかは分からない。だが、あの喉の奥を凍らせるような声は、さっき俺たちを追い詰めたものと同じに聞こえた。
「久世さん」
「下がってください」
久世さんは短く答え、剣を構えた。
白瀬さんが雨宮さんを支えたまま、一歩後ろへ下がる。端末からは、管理局の声が途切れ途切れに響いていた。
『標識……番号を……確認……』
「管理局、聞こえますか! こちら久世雫、現在地は管理局誘導標識付近です。前方に大型魔物の反応。背後からも追跡されています」
『標識番号を……確認してください。番号が分かれば、救援班を……』
そこで通信が激しく乱れた。
白瀬さんが端末を両手で握り、歯を食いしばる。
「標識番号がいるんやな……!」
「場所を特定するためだと思います」
久世さんは視線を通路の奥へ向けたまま言った。
誘導標識は、俺たちの少し前方にある。青白く光る小さな板だ。番号らしき刻印も見えるが、この距離と冷気のせいで読み取れない。
そして、そのさらに奥で境界の線が歪んでいる。
そこから白い冷気が流れていた。
通路の先が、別の場所へ無理やり縫いつけられているように見える。
床でも壁でもない。こちらへ続いてはいけない道と、本来の正規ルートが、乱暴に重なっていた。
「相良さん、何が見えますか」
「通路の奥が変です。道が重なっているように見えます」
「道が?」
「説明が難しいんですが、あのままだと前から来ます。たぶん、後ろにいたものが別の道から回り込んでいる」
言いながら、自分でも嫌な汗が出た。
俺は迷宮の専門家ではない。だが、《ダンジョンの裏道》で経験したことがある。後ろにいた魔物が、いつの間にか前へ回っていた。目印が、違う構造の通路に現れた。
ここでも、同じようなことが起きている。
「白瀬さん、通信は維持できますか」
「障壁は無理や。でも、ノイズをちょっと抑えるくらいなら、まだいける」
「雨宮さん、標識を照らせますか」
「できます」
雨宮さんは壁に肩を預けたまま、腰の矢筒から小さな矢を1本取り出した。足は痛むはずなのに、指先の動きは落ち着いている。
久世さんはすぐに判断した。
「標識番号を確認して、管理局に伝えます。私が前を抑えます。白瀬さんは通信。雨宮さんは標識を照らしてください」
「相良さんは?」
白瀬さんがこちらを見る。
「相良さんは、道を見てください。今、見えているのは相良さんだけです」
その言葉に、俺は八重垣剣を握り直した。
俺が隊長になるわけではない。判断するのは久世さんだ。
ただ、彼女たちには見えないものが、俺には見えている。それを言葉にするだけでも、今は意味がある。
「分かりました」
通路の奥で、白い冷気がさらに濃くなる。
氷の向こう側に、巨大な影が揺れた。前脚の爪が床を削り、正規ルートの端に張りついた氷が砕ける。魔物の身体はまだ完全にはこちらへ出てきていない。だが、時間が経てば通路そのものを押し広げてくる。
背後でも氷を砕く音が近づいていた。
前も後ろも塞がれかけている。
俺たちが今いる場所だけが、細い糸のように残っていた。
「行きます」
久世さんが前へ出た。
魔物が咆哮し、冷気を吐く。久世さんは真正面から受けず、横へ滑るように移動した。剣の光が氷の粉を払う。
白瀬さんは端末へ手をかざし、淡い光を重ねた。
「管理局、聞こえる!? こっち、標識番号を確認する!」
『受信……不安定……続けて……』
「小春!」
「うん!」
雨宮さんが矢を放つ。
矢は魔物を狙わなかった。青白い通路を一直線に飛び、誘導標識の上で小さく弾ける。
光が標識を照らした。
刻まれた文字が浮かび上がる。
「H-17!」
久世さんが叫ぶ。
「標識番号H-17! H-17や! 管理局、聞こえてる!?」
白瀬さんが端末へ向かって声を張る。
『H-17……確認。救援班を向かわせます。到着まで……持ちこたえてください』
「簡単に言うなぁ……!」
白瀬さんが泣きそうな声で返す。
救援は来る。
だが、今すぐではない。
魔物が前脚を押し出した。
通路の奥で氷が砕ける。異常に歪んだ境界が脈打ち、白い冷気がさらにこちらへ流れ込んだ。
このままでは、あいつが来る。
倒すのは無理だ。
俺に剣術はない。八重垣剣が身体を支えてくれていても、巨大な魔物を正面から斬り伏せられるとは思えない。
だが、道なら。
あの歪んだ道なら、何かできるかもしれない。
通路の奥にある線は、壁や床の境目ではなかった。
開いてはいけない場所が、開きっぱなしになっている。閉じかけた扉の隙間から、無理やり魔物がこちらを覗いているように見えた。
斬るだけでは駄目だ。
切り離したあと、閉じなければならない。
「久世さん」
「はい」
「あの歪んでいる線を閉じられれば、前から来る道を塞げるかもしれません」
「できますか」
「分かりません」
正直に答えた。
「でも、近づかないと届かない気がします」
久世さんの表情が険しくなる。
「危険です」
「分かってます」
本当は行きたくない。
足は震えている。腰も痛い。右肩はさっきからずっと熱を持っている。八重垣剣を握っていなければ、とっくに膝をついていたかもしれない。
それでも、あの線が見えているのは俺だけだった。
「私が前を開けます」
久世さんが言った。
「白瀬さん、相良さんの足元を少しだけ支えてください。雨宮さん、魔物の視界を」
「了解や。ほんまに少しだけやで、相良のおっちゃん」
「お願いします」
「おっちゃん、戻ってきてや」
白瀬さんの軽口は震えていた。
怖いのは俺だけではない。それでも、彼女は笑う形を崩さない。
「戻ります」
俺はそう答えた。
久世さんが走る。
魔物の爪が振るわれる直前、彼女の剣が氷の床を叩いた。細かな氷片が舞い上がり、魔物の視界を遮る。
雨宮さんの光の矢が続いた。矢は魔物の顔の横で弾け、白い閃光を散らす。
「今!」
白瀬さんの支援が俺の足元に重なった。
薄い光が靴底を包み、滑りかけた足をほんの少しだけ支えてくれる。
俺は走った。
氷の床を蹴るたび、腰に痛みが響く。濡れて張りつく作業着が重く、肩から下げた工具鞄が鬱陶しい。息が苦しい。魔物の咆哮が近い。
久世さんが魔物の前脚をぎりぎりで避ける。剣で受けるのではなく、軌道を外へ流している。だが、長くは持たない。
俺は歪んだ境界の前へ飛び込んだ。
冷気が顔を叩く。
目の前の通路は、通路ではなかった。こちらの石床と、別の氷の道が重なり、無理やり一本の道にされている。
そこへ八重垣剣を当てた。
斬るのではない。
壊すのでもない。
開きっぱなしになった扉を、押し戻す。
「閉じろ……!」
剣身に力を込めた瞬間、右肩から腰へ痛みが走った。
腕が痺れる。指が震える。視界の端が白く霞む。
境界の線は、重かった。石でも氷でもないものを押している感覚がある。閉まりかけた防火扉を、逆風の中で無理やり押し込んでいるようだった。
魔物の顔が近づく。
青白い目が、こちらを見た。
怖い。
それでも、手は離さなかった。
八重垣剣の剣身が淡く光る。
歪んでいた線が少しずつほどけ、重なっていた通路が剥がれていく。
魔物の巨体は目の前にいるはずなのに、距離が遠くなっていった。空間そのものが、あいつをこちら側から押し返している。
最後に、何かが噛み合うような感覚があった。
白い冷気が途切れる。
前方の通路から、魔物の影が消えた。
「閉じた……?」
声を出した直後、膝が抜けそうになった。
踏みとどまれたのは、八重垣剣がまだ俺の身体を支えてくれていたからだ。
「相良さん、戻って!」
久世さんの声に振り返る。
背後の氷壁が砕けていた。
さっき俺たちが通ってきた隙間が大きく広がり、その向こうから巨大な爪が突き出している。
前方を閉じた代わりに、背後の猶予がなくなった。
「走って!」
白瀬さんが叫ぶ。
俺は走ろうとして、足がもつれた。身体が前へ倒れかける。
久世さんが腕を掴んで引き起こしてくれた。
「まだです!」
「すみません!」
「謝るのは後で!」
久世さんに支えられながら、俺は通路を戻る。
雨宮さんは片足を庇いながらも短弓を構え、白瀬さんは端末と支援の両方に意識を割いている。誰も余裕などない。
背後から魔物が迫る。
もう一度だけ。
そう思った。
ここから先へ、入れるな。
八重垣剣を横へ構えた瞬間、薄い光の膜が広がった。
魔物の爪がそこへ叩きつけられる。膜は最初の一撃で大きく歪み、二度目の衝撃でヒビのような光を走らせた。
腕が痺れる。腰が焼ける。膝が震える。
数秒でいい。
その数秒があれば。
「全員、伏せてください!」
知らない男の声が響いた。
通路の奥から、硬い足音が一斉に近づいてくる。
管理局の救援隊だった。濃いグレーの防護服を着た踏査官たちが、魔導具の盾を前へ展開しながら駆け込んでくる。
青い光の壁が俺たちの前へ重なり、魔物の爪を受け止めた。
「負傷者を後方へ! 前衛班、押し返せ!」
救援隊の声が飛ぶ。
俺の光の膜が砕ける寸前、管理局の盾がその前へ入った。衝撃音が通路を揺らす。魔物が咆哮し、氷の粉が舞った。
「こちらへ!」
防護服の女性職員が、雨宮さんと白瀬さんを誘導する。
久世さんは最後まで剣を構えていたが、別の踏査官に肩を押され、ようやく下がった。
俺も下がろうとして、膝が落ちた。
「相良さん!」
久世さんが手を伸ばすより早く、白瀬さんがふらつく足でこちらへ寄ってきた。
救援隊の盾の向こうで魔物が抑え込まれているのを見た瞬間、彼女の顔から張りつめていたものが抜け落ちる。
「……助かった」
小さく呟いたかと思うと、白瀬さんはそのまま俺に抱きついてきた。
「ほんま、死ぬかと思ったぁ……!」
「し、白瀬さん?」
反射的に両手が宙へ浮いた。
支えるべきか、離すべきか。判断に困る。相手は命の危機を越えた直後の高校生で、俺は40歳の、濡れた作業着姿の男だ。ここで対応を間違えるわけにはいかない。
「相良さん、ありがとな。ほんまに、ありがと」
白瀬さんの声は震えていた。
さっきまで軽口を叩いていた彼女が、本気で怖がっていたのだと、そこでようやく分かる。
「……無事でよかったです」
俺は迷った末、彼女の背に触れないよう、宙に浮いたままの手をゆっくり下ろした。
「でも、まだ安全確認が終わってません。白瀬さんも消耗してます」
「分かってる。分かってるけど、今だけや」
白瀬さんはもう一度だけ、俺の作業着をぎゅっと掴んだ。
その指が震えていたので、俺はそれ以上何も言えなかった。
「白瀬さん、相良さんが困っています」
久世さんの静かな声が飛ぶ。
「ちょっとだけやって」
「ちょっとだけでも、後で状況確認です」
「雫ちゃん、真面目すぎるわ……」
そう言いながら、白瀬さんはようやく離れた。
俺は妙に疲れた息を吐く。魔物とは別の意味で、心臓に悪かった。
雨宮さんがこちらを見上げる。
「相良さん、本当にありがとうございました」
「いえ。みなさんが動いてくれたからです」
そう答えたところで、八重垣剣を握る右手から力が抜けた。
剣身が白い光へ変わり、八重垣剣が手の中から消える。身体を支えていた力も弱まり、腰の痛みと疲労が一気に戻ってきた。
「ぐ……」
膝に力が入らなかった。
八重垣剣が支えてくれていても、俺の身体が限界を忘れてくれるわけではないらしい。
「医療班、こちらも負傷者です!」
誰かが叫んだ。
「俺は大丈夫です。少し腰が」
「その状態で大丈夫は信用できません」
久世さんに即座に切られた。
まったくその通りだった。
救援隊のひとりが、俺の前で膝をつく。
ヘルメットの奥から、鋭い視線が向けられた。
「あなたは登録踏査士ですか?」
「いえ」
答えた瞬間、周囲の空気が変わった。
作業着。
ヘルメット。
工具鞄。
そして、さっきまで右手にあった剣。
防護服の職員たちの視線が、まとめて俺に集まる。
「では、今の武装は何ですか」
俺は答えようとして、言葉に詰まった。
助かった。
少なくとも、あの氷の通路で魔物に追われ続ける状況からは抜け出せた。
だが、どうやら面倒なことは、ここから始まるらしい。
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