第6話 まだ迷宮の中
咆哮が氷の通路を震わせたあと、俺たちは誰からともなく声を止めた。
氷壁に囲まれた小部屋の中で、荒い呼吸だけがやけに大きく聞こえる。遠くで砕けるような音がして、細かな霜が天井から落ちた。
久世さんは剣を構えたまま、小さく手を上げる。
「声を落としてください。音で寄ってきます」
その一言で、俺は反射的に口を閉じた。
さっきまでの俺なら、迷宮で大声を出すことの危険など考えもしなかっただろう。だが、言われれば分かる。ここは商業施設のバックヤードではない。助けを呼べば警備員が来る場所ではなく、別のものまで呼び寄せる場所だ。
俺は小部屋の入口へ視線を向けた。
魔物の巨体は入ってこられない。少なくとも、そのままでは無理だ。だが、氷壁がいつまで保つかは分からない。爪だけなら届くかもしれないし、さっきのように氷を砕きながら道を広げてくる可能性もある。
安全ではない。
ただ、今すぐ死なずに済むだけだ。
「小春、足を見せて」
久世さんが膝をつく。
小柄な少女は壁にもたれたまま、申し訳なさそうに足を差し出した。靴の上からでも、足首のあたりが腫れているのが分かる。
「ごめん、私のせいで……」
「小春のせいじゃない」
久世さんの返事は早かった。
「そやで。あんなん、誰が相手でも事故るわ」
美玲さんも小声で続ける。顔色は悪いが、口調だけはどうにか軽さを保とうとしているようだった。
「応急処置は?」
「少しならできる。でも、障壁を張り直すほどは残ってへん」
美玲さんがブレスレットに触れると、淡い光が小春さんの足首を包んだ。
腫れがわずかに引く。けれど、治ったというほどではない。小春さんが指先を動かすたび、表情が強張っていた。
「歩ける?」
「支えてもらえれば……でも、走るのは無理だと思う」
久世さんが小さく頷く。
俺は工具鞄を下ろした。
中身を確認する。モンキーレンチは、さっき魔物の気を逸らすために投げてしまった。残っているのは、小型ライト、絶縁テープ、養生テープ、結束バンド、作業用手袋、折り畳み式の簡易ナイフ、汚れたタオルが1枚。
迷宮装備として見れば心許ない。だが、応急処置くらいならできる。
「固定するだけなら、これが使えます」
俺が養生テープとタオルを見せると、久世さんが目を瞬かせた。
「それは……迷宮用の装備ですか?」
「設備管理用です」
「本当に作業員さんなんや……」
美玲さんが妙な感心の仕方をした。
俺は苦笑しながら、小春さんの足元へ膝をつく。もちろん、直接触れる前に一度手を止めた。
「足首を固定します。触っても大丈夫ですか?」
「あ、はい。お願いします」
タオルを細く畳み、足首の周りへ当てる。強く締めすぎれば血が止まるし、緩すぎれば意味がない。痛みの反応を見ながら、養生テープで動きを抑えた。
医者ではない。治療ではなく、これ以上ひねらないための応急処置だ。
「痛みは?」
「さっきより、少し楽です」
「走るのは駄目です。歩くときも、できるだけ体重をかけないでください」
「はい」
小春さんが素直に頷く。
久世さんはその様子を確認してから、改めてこちらへ向き直った。
「遅くなりました。私は久世雫です。彩乃宮第一高校、迷宮踏査部所属です」
「白瀬美玲や。支援担当。今は、ほぼ空っぽやけどな」
「雨宮小春です。後衛です……助けてくれて、ありがとうございました」
3人が順に名乗った。
彩乃宮第一高校。名前だけなら知っている。迷宮踏査士の育成で、ニュースや広報映像にも出てくる学校だ。
もっとも、俺にとっては画面の向こうの存在だった。数十分前までは、まさかその生徒たちと迷宮の中で自己紹介をするとは思ってもいなかった。
「相良浩司です。彩乃宮モールで設備管理員をしています」
「彩乃宮モールって、駅前の大きいところですか?」
雨宮さんが小さく首を傾げる。
「そこです。地下2階で漏水警報を確認していたら、床が消えて落ちました」
自分で説明していて、あまりにも意味が分からない。
案の定、3人とも黙った。
「床が、消えた?」
久世さんが眉をひそめる。
「正確には、黒い線が広がって、床そのものがなくなったように見えました。その先で、通路のつながり方が変わる場所に落ちて……魔物に追われて、変な古書店へ逃げ込んで、気づいたらここに」
説明を途中で切った。
言葉にすればするほど、怪しさだけが増していく。古書店と栞さんのことまで詳しく話せば、俺自身がますます不審者になる。
久世さんの視線が、俺の右手にある八重垣剣へ向いた。
聞きたいことはあるのだろう。だが、彼女はすぐに視線を通路へ戻した。
「詳しい事情は、ここを出てから確認させてください」
「その方が助かります」
「今は撤退を優先します」
その判断に、俺は内心でほっとした。
剣の由来を聞かれても、まともに説明できる自信がなかったからだ。
「そちらは、どうしてあの魔物に?」
俺が尋ねると、久世さんは手短に答えた。
「私たちは訓練許可を受けて、《氷ノ川迷宮》の上層に入っていました。本来なら、低危険度の訓練ルートです。ですが途中で通路の一部が凍結と崩落を起こし、地図と実際の道が合わなくなりました」
「地図と道が?」
「はい。迂回しようとしたところで、あの大型の魔物と遭遇しました。上層で見る大きさではありません。管理局へ救援信号は出しましたが、通信は不安定です」
地図と実際の道が合わない。
その言葉で、俺は《ダンジョンの裏道》で見た赤い養生テープを思い出した。
自分で貼ったはずの目印が、違う構造の通路に現れていた。距離も方向も信用できない。道の方が、勝手につながり方を変えていた。
ここでも、似たことが起きているのかもしれない。
「相良さんは、先ほど床が割れる位置を言い当てましたよね」
久世さんが声を抑えたまま聞いてくる。
「言い当てたというより、見えたんです」
「見えた?」
「物と物の境目みたいな線が見えます。氷と床、壁と空間、壊れそうな場所。理屈は分かりません」
久世さんはすぐに否定しなかった。
さっきの戦いで、俺の見えているものが実際に役立ったからだろう。
「分かりました。相良さんの見えているものを、撤退判断に組み込みます」
「いいんですか? 俺は踏査士じゃありませんよ」
「だから、判断はこちらでします。相良さんは、見えた違和感を教えてください」
はっきりした言い方だった。
命を預ける相手としては、むしろその方が安心できた。俺がいきなり指揮を取る方が、どう考えても危ない。
「了解です」
「隊列を組みます。私が先頭。白瀬さんは雨宮さんを支えて中央へ。相良さんは最後尾をお願いします」
最後尾。
言葉にすればそれだけだが、後ろから何かが来るかもしれない場所に立つのは、想像以上に胃に悪い。
それでも、俺は頷いた。
「分かりました」
「無理はしないでください。相良さんが倒れたら、さっきの防御も使えなくなります」
「あれは防御なんですかね」
「少なくとも、私たちを生かしてくれました」
短い言葉だったが、不思議と胸に残った。
久世さんが小部屋の外を確認し、手で合図する。白瀬さんが雨宮さんを支え、俺は最後尾についた。
八重垣剣を握る手は、まだ震えている。右肩と腰も痛む。だが、消せば身体を支えている力まで失われる。今は手放せなかった。
小部屋を出ると、冷気がさらに強くなった。
遠くで水の流れる音がする。床には薄い氷が張り、ところどころに白いヒビが入っていた。久世さんは一歩ごとに足元を確かめ、雨宮さんの歩調に合わせて進む。
俺は後ろを気にしながら、通路の線を見た。
壁と氷の境目。床石の継ぎ目。氷の奥に隠れた細い空間。そのいくつかは、普通の壁には見えなかった。
「久世さん」
俺が小声で呼ぶと、彼女が足を止める。
「正面の氷壁、少し変です」
「変、とは?」
「壁に見えますけど、たぶん壁じゃありません。蓋みたいに見えます。向こうに空間があるかもしれません」
久世さんが端末を取り出す。画面には迷宮の簡易地図らしきものが表示されていた。
彼女は現在地と氷壁を見比べ、表情を硬くする。
「この先に、本来なら避難区画へ続く通路があります」
「塞がれているんですか?」
「地図上は通れます。ですが、目の前には氷壁がある」
白瀬さんが小さく舌打ちした。
「また道がずれとるんか……」
「迂回すると?」
「距離が伸びます。雨宮さんの足では厳しい」
久世さんの判断は早かった。
だが、彼女はすぐに俺へ斬れとは言わない。氷壁へ近づき、耳を澄ます。
「雨宮さん、確認できますか」
「やってみます」
雨宮さんは壁に背を預けたまま、腰の矢筒から小さな矢を1本取り出した。矢じりに触れると、淡い光が灯る。
彼女はそれを氷壁の根元へそっと当てた。光が壁の向こうへ滲むように広がり、しばらくして戻ってくる。
「向こう、空洞があります。大きな反応はないと思います。でも、水の音がします」
「白瀬さん、最低限の支援を」
「ほんまに最低限やで」
白瀬さんが小さく息を吐き、俺と久世さんの前に薄い光を重ねる。
強い障壁ではない。気休めに近いのだろう。それでも、ないよりずっといい。
そのとき、背後の遠くで氷が砕ける音がした。
全員の動きが止まる。
また一つ、さらに一つ。何かが氷を壊しながら、こちらへ近づいている。
「うそやろ……さっき塞いだやん」
白瀬さんの声が震える。
「完全には止められていません。移動します」
久世さんが即座に判断した。
雨宮さんが痛む足を引き寄せ、立ち上がろうとする。
「私、歩けます。置いていかないで」
「置いていく話は誰もしてません」
思わず口にしていた。
雨宮さんが驚いたようにこちらを見る。
「全員で出ましょう。そのために、ここを開けます」
自分で言ってから、ずいぶん大きなことを言ったと思った。
だが、撤回する気はなかった。
俺は氷壁の前へ立つ。
八重垣剣を構え、壁の表面に走る線へ目を凝らした。氷と石。塞がれた通路と、まだ残っている空間。その境目が、淡く揺れている。
力任せに叩き割るのではない。
つながっている部分をほどく。
刃を境界の線へ添える。
冷たい抵抗が腕へ伝わり、次の瞬間、氷壁の一部が白い光を散らして剥がれた。
人一人が屈んで通れるほどの隙間が開く。
「通れます!」
久世さんが先に入り、向こう側を確認する。
「安全確認。白瀬さん、雨宮さんを」
「小春、頭下げて。ゆっくりや」
「うん……!」
白瀬さんに支えられ、雨宮さんが隙間を抜ける。
俺は最後に回った。背後からは、氷を砕く音がさらに近づいている。喉の奥が乾き、八重垣剣を握る手に力が入った。
全員が通ったのを確認してから、俺も身を屈める。
工具鞄が氷の縁に引っかかり、慌てて肩から外して先に押し込んだ。腰を捻った瞬間、痛みで息が詰まる。
「相良さん!」
「大丈夫です」
なんとか隙間を抜けた直後、背後の通路で低い唸り声が響いた。
近い。
久世さんが俺の腕を引き、全員で氷壁から離れる。数秒後、向こう側で巨大なものがぶつかる音がした。開けた隙間の縁が砕け、冷気が吹き込む。
だが、魔物の巨体はまだ通れない。
今のうちに距離を取るしかない。
新しい通路は、さっきまでの場所よりわずかに広かった。
床には水路があり、その脇に金属製の細い杭が打ち込まれている。杭の先には、青白く光る小さな板が取り付けられていた。
「管理局の誘導標識です」
久世さんの声に、雨宮さんの表情が少しだけ明るくなる。
「じゃあ、正規ルートに近いんだ」
「はい。通信も通るかもしれません」
白瀬さんが端末を取り出し、震える指で操作する。
しばらく雑音だけが流れた。俺は後ろを警戒しながら、通路の奥を見る。誘導標識があるせいか、ここは人の手が入っているように感じられた。
それだけで、少しだけ現実に戻れた気がする。
端末から、砂を噛むような音が鳴った。
『――こちら、彩乃宮迷宮管理局。応答――』
「つながった!」
雨宮さんの顔に、初めて安堵の色が浮かぶ。
「こちら彩乃宮第一高校、迷宮踏査部所属、久世雫です。氷ノ川迷宮上層、訓練ルートから逸脱。負傷者1名。大型魔物に追跡されています。救援を要請します」
『――ノイズが……座標を……もう一度――』
「座標は現在確認中。管理局誘導標識を発見。番号は……」
久世さんが標識へ近づこうとした。
その前に、俺は息を呑んだ。
通路の奥。
管理局の非常灯が照らす正規ルートの先で、境界の線が大きく歪んでいる。
そこから、白い冷気が流れてきた。
背後ではない。
前からだ。
「久世さん、止まってください」
俺の声に、久世さんが足を止める。
次の瞬間、氷の向こう側で、あの低い咆哮が響いた。
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