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第5話 神剣の初陣

 扉をくぐった瞬間、冷気が肺へ刺さった。


 さっきまでいた古書店の暖かさが、背中から一気に遠ざかる。床も壁も白く凍りつき、石造りの通路の端には、薄い氷に覆われた水路が走っていた。天井から垂れ下がる氷柱が、青白い光を受けて鈍く光っている。

 濡れた作業着が冷え、肌へ張りつく。八重垣剣を握っていなければ、その場で身体が縮こまっていたかもしれない。


 足元が滑る。通路は狭い。逃げ道は、左後方に細い横道が一つ。


 そんなことを考えている自分に、少しだけ呆れた。

 巨大な魔物を前にしても、まず床と退路を確認している。設備管理員の癖というのは、どうやら迷宮に放り込まれても抜けないらしい。


「小春、後ろへ下がって!」


 黒髪の少女が叫んだ。


 彼女は細身の片手剣を構え、2人の少女を庇うように前へ出ている。制服の上から防具をつけているが、肩や腕には氷の破片で切れたような傷があった。

 その後ろでは、明るい髪の少女がブレスレットを握りしめ、淡い光の膜を必死に維持している。さらに奥には、小柄な栗色の髪の少女が膝をつき、短弓を抱えたまま足首を押さえていた。


「雫ちゃん、あかん! うちの支援、もう持たへん!」


 関西弁の少女の声が震えている。


「小春、立てる?」


「こ、小春は……まだ……」


 小柄な少女は立とうとして、痛みに顔を歪めた。


 3人を追い詰めている魔物は、俺がさっき《ダンジョンの裏道》で見た犬のような魔物とは比べものにならなかった。

 熊にも狼にも見える巨大な体。肩からは氷の棘が生え、前脚は人間の胴ほども太い。爪が床を掻くたび、氷が削れて白い粉が舞う。口元から吐き出される冷気は、空気そのものを凍らせているように見えた。


 あれが強い魔物なのかどうか、俺には分からない。

 ただ、氷を踏み砕く前脚と、少女たちの身体ほどもある爪を見れば十分だった。


 あんなものに正面から叩かれたら、人間は壊れる。


 その判断だけは、迷宮の知識がなくてもできた。


 助けると決めた。

 だからといって、怖くないわけではない。


 むしろ、怖い。

 胃の底が冷たくなり、喉が乾く。八重垣剣の鞘を握る手が汗ばみ、手の中でわずかに滑った。剣を手に入れたばかりの40歳が、巨大な魔物相手に何をできるのか。自分でも分からない。


 その迷いの間にも、魔物は動いた。


 太い前脚が振り上げられる。

 狙いは、足を痛めている小柄な少女だった。


「小春!」


 黒髪の少女が駆け出そうとしたが、間に合わない。

 支援の光も薄い。受ければ砕ける。


 気づいたときには、俺は走っていた。


 氷の床で足が滑る。腰に痛みが走る。それでも八重垣剣が身体を支え、転ぶ寸前の足を前へ運んでくれた。

 剣を抜く余裕はなかった。俺は鞘に収まったままの八重垣剣を両手で握り、小柄な少女と魔物の間へ割り込んだ。


「ここから先へ、行かせるな……!」


 声にしたのか、心の中で叫んだのかは分からない。


 その瞬間、視界の中で線が光った。

 俺と少女を隔てる、薄い境目。そこへ八重垣剣が触れた感覚があった。


 空間に、透明な膜が張られる。


 魔物の爪がその膜へ叩きつけられた。耳の奥が痛むほどの衝撃音が響き、光の膜が大きく歪む。

 完全には受け止められない。爪の軌道がわずかに逸れただけだ。


 だが、それで十分だった。


 魔物の爪は小柄な少女のすぐ横を通り過ぎ、凍った床を深く抉った。

 衝撃は俺の腕と腰へ突き抜ける。肩から腰まで、骨ごと揺さぶられたような痛みが走った。


「ぐっ……!」


「だ、誰!?」


 黒髪の少女が叫ぶ。


「作業員さん!?」


 小柄な少女が目を丸くする。


「なんで作業員のおっちゃんが剣持ってんの!?」


 関西弁の少女の声が、緊張の隙間を見事に刺してきた。


 おっちゃん。


 分かっている。

 40歳だ。間違ってはいない。

 だが、命を張って割り込んだ直後に聞くと、なかなかの破壊力がある。


「説明はあとで! 下がってください!」


 俺は叫びながら、八重垣剣を握り直した。


 魔物が低く唸る。

 こちらへ向き直った目は、氷の奥で青白く光っていた。さっきの一撃を邪魔されたことで、標的が俺に移ったらしい。


 ありがたい。

 いや、ありがたくはない。


 しかし、少なくとも小柄な少女から注意は逸れた。


「小春、こっち!」


 黒髪の少女が小柄な少女の腕を引く。関西弁の少女は歯を食いしばり、ブレスレットから出る光を2人へ重ねた。

 俺は魔物から目を離さないまま、周囲の線を見た。


 床と氷の境目。

 壁と通路の境目。

 天井から垂れた氷柱と、そこに絡みついた冷気のような線。


 見える。

 だが、どう使えばいいのか分からない。


 剣術の経験などない。剣の構え方も知らない。目の前の魔物へ斬りかかれば、腕ごと持っていかれる未来しか見えなかった。


 正面から斬るな。


 そう自分に言い聞かせる。

 壊すなら、本体じゃない。支えている場所だ。


 魔物が踏み込む。

 前脚が氷の床を掴み、巨体が沈んだ。次の一撃が来る。


「右じゃなくて、左へ! 床が割れます!」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。


 黒髪の少女は一瞬だけこちらを見たが、すぐに小柄な少女を抱えるようにして左へ動いた。

 直後、魔物の爪が床を砕く。右側の氷が大きく割れ、鋭い破片が飛び散った。もし彼女たちがその場に残っていれば、足を取られていたはずだ。


「見えてるんですか……?」


 黒髪の少女が呟く。


「多分!」


「多分!?」


「俺にもよく分かってません!」


「なんやそれ!」


 関西弁の少女が悲鳴まじりに突っ込む。


 もっともだ。

 俺だって同じ気持ちだった。


 魔物が再び突進してくる。

 今度は俺に向かってだ。巨体が氷の上を滑るように迫り、冷気をまとった爪が横から振るわれる。


 受けるな。真正面から受ければ、さっきの膜ごと吹き飛ばされる。


 俺は左手で鞘を押さえ、右手で柄を握った。

 見よう見まねで、幅広の剣身を一気に引き抜く。滑らかでも美しくもない。だが、八重垣剣は抵抗なく鞘を離れ、青白い光の中で白銀の剣身を現した。


 白銀の刃が、床と氷の境目に触れる。


 斬った、という感覚はなかった。

 氷を叩き割ったわけでもない。


 ただ、つながっていたものをほどいた。


 魔物の前脚の下で、氷が床から剥がれる。巨体の重みを支えていた足場が滑り、爪の軌道が大きくずれた。

 俺のすぐ横を、氷の棘をまとった前脚が通り過ぎる。風圧だけで身体が持っていかれそうになった。


「今!」


 黒髪の少女が反応した。


 彼女は氷片を蹴り、魔物の側面へ回り込む。細身の片手剣が淡い光をまとい、魔物の脇腹を裂いた。

 深くはない。だが、魔物が苦しげに身を捩る。


「美玲!」


「分かってる!」


 関西弁の少女がブレスレットを掲げる。

 彼女の足元から柔らかな光が走り、黒髪の少女の身体を包んだ。動きが少しだけ速くなる。


「小春も、やる……!」


 小柄な少女が震える手で短弓を構えた。

 足首が痛むのか、膝はまだ床についたままだ。それでも彼女は矢を番え、魔物の目元へ向けて放つ。

 矢は魔物の目には届かなかった。だが、顔のすぐ横で小さな光を弾けさせる。魔物が一瞬だけ頭を逸らした。


 3人とも、まだ折れていない。


 助けられるだけの子供ではなかった。怖くても、痛くても、自分にできることを探している。

 なら、俺もやるしかない。


「奥の横道へ逃げられますか!?」


 俺が叫ぶと、黒髪の少女が素早く視線を走らせた。


「小春の足では厳しいです!」


「うちの支援も、もう長くは無理やで!」


 横道はある。

 だが、途中に崩れた氷塊が積もり、人一人がやっと通れる程度の隙間しかない。足を痛めた少女を連れて通るには時間がかかる。


 魔物はそれを許さない。


 だったら、時間を作るしかない。


 俺は八重垣剣を握り、通路の壁へ目を向けた。

 氷と石壁の境目。天井から垂れた氷柱の根元。そこに細い線が幾重にも重なって見える。

 あの部分が崩れれば、魔物の進路を塞げるかもしれない。


 もちろん、確証はない。

 俺は建築の専門家ではないし、まして迷宮の構造など分からない。無闇に崩せば、こちらまで巻き込まれる可能性もある。


 それでも、線の太さと重なり方を見れば、壊れそうな場所は分かる。

 建物の劣化を見るときと同じだ。ヒビ、歪み、支え方。危ないものには、危ないなりの顔がある。


「黒髪の子!」


久世(くぜ)雫です!」


「久世さん、あの壁際まで魔物を寄せられますか!」


「やってみます!」


 名乗りながら動けるのは大したものだと思った。


 久世さんは魔物の前に出すぎず、細かく位置を変えながら注意を引く。真正面から受けず、爪の外側へ逃げる。華麗というより、ぎりぎりで生き残るための動きだった。

 美玲と呼ばれた少女が支援の光を重ね、小春さんが短弓で魔物の視界を乱す。


 俺は壁際へ走った。

 氷の床で足が滑り、肩にかけた工具鞄が腰へぶつかる。痛みで息が詰まりそうになるが、止まるわけにはいかない。


 壁の境目へ八重垣剣を当てる。


「頼む。切れてくれ」


 力任せに振るったわけではない。

 見えている線へ、剣身を沿わせる。


 氷と石壁が分かたれる感覚があった。


 大きな音を立て、壁に張りついていた氷塊が崩れる。

 落下した氷が魔物の足元へ砕け散り、さらに天井の氷柱を巻き込んだ。魔物が咆哮し、巨体がわずかに横へ傾く。


「今のうちに!」


「小春、立てる!?」


「こ、小春、頑張る!」


 久世さんが小春さんの身体を支え、美玲さんが反対側から腕を回す。

 3人が横道へ向かう。


 魔物が追おうとした。


 俺はその間へ立つ。


 怖い。足がすくむ。身体の奥で、さっきからずっと警報が鳴っている。


 それでも、退くわけにはいかなかった。


 八重垣剣を構え、魔物と横道の間にある境目を見る。

 ここから先へ通すな。そう強く思った瞬間、先ほどと同じ薄い光の膜が広がった。


 魔物が突進する。

 光の膜に巨体がぶつかり、凍った通路が震えた。膜の表面へヒビのような光が走る。俺の腕が痺れ、腰の奥に鋭い痛みが突き刺さった。


「ぐ、う……!」


 防いでいるというより、閉まりかけた重い扉を、両手で必死に押さえている感覚だった。

 長くは持たない。


「作業員さん!」


「行ってください!」


「でも!」


「すぐ行きます!」


 久世さんが唇を噛む。

 だが、彼女は判断を間違えなかった。


「美玲、小春を連れて先へ!」


「雫ちゃんもや!」


「分かってる!」


 3人が横道へ入ったのを確認し、俺は一歩ずつ後ろへ下がった。

 魔物の爪が膜を削る。光が薄くなる。あと数秒で破られる。


 横道の入り口まで下がったところで、俺は壁際に残っていた氷柱の根元を見た。

 線がある。

 今にも折れそうな、細い境目。


 最後の力で八重垣剣を振る。


 氷柱が折れた。


 巨大な氷の塊が崩れ落ち、横道の入り口と魔物の間へ雪崩れ込む。

 同時に光の膜が砕けた。魔物の爪が空を切り、氷塊に阻まれる。俺は反動で後ろへ倒れ込み、横道の中へ転がった。


「ぐっ……!」


「こっち!」


 久世さんに腕を掴まれ、引きずるように起こされる。

 美玲さんが支援の光を俺にも向けようとしたが、その手が途中で震えた。


「ごめん、もう、ほとんど残ってへん……」


「俺は大丈夫です。それより、その子を」


 小春さんは壁にもたれ、荒く息をしていた。足首は腫れ始めているように見える。久世さんも肩で息をしており、美玲さんの顔色も悪い。

 俺も人のことを言えない。八重垣剣を握っていても、腕が震えている。腰の痛みも誤魔化しきれなくなってきた。


 勝ったわけではない。


 生き延びただけだ。


 横道の奥へ進むと、少し広い空間に出た。

 氷壁に囲まれた小部屋のような場所で、魔物の巨体は入ってこられそうにない。とはいえ、安全とは言い切れない。天井からは水滴が凍りつきながら落ち、遠くではまだ魔物の唸り声が響いている。


 久世さんが最初に口を開いた。


「小春、歩ける?」


「少しなら……でも、走るのは無理かも」


「美玲、支援は?」


「ごめん。応急処置くらいならできるけど、障壁はしばらく無理やと思う」


「分かった。声を落として。まだ近くにいる」


 その判断に、俺は内心で感心した。

 礼より先に状況確認。誰がどれだけ動けるか、何が残っているか、敵がどこにいるか。さっきまで命を落としかけていたのに、頭はまだ冷静に働いている。


 踏査に慣れているのだろう。

 少なくとも、俺よりはずっと。


「助けていただいたことには、感謝します」


 久世さんがこちらへ向き直った。

 剣は下ろしているが、完全に警戒を解いたわけではない。真っ直ぐな黒い瞳が、俺の作業着とヘルメット、そして右手の八重垣剣を順に見る。


「ですが、あなたは何者ですか?」


「相良浩司です。設備管理員……だったんですが」


 自分で言っておいて、妙な言い方だと思った。


 だった。

 さっきまでの俺は、確かに大型商業施設の設備管理員だった。今もそのつもりではある。

 ただ、濡れた作業着で、ヘルメットをかぶり、工具鞄を肩に掛け、神剣らしき剣を持って迷宮に立っている男を、普通の設備管理員と呼んでいいのかは分からない。


「設備管理員……?」


 久世さんが眉をひそめる。


「いやいや、迷宮に作業員のおっちゃんが剣持って出てくるん、情報量多すぎへん?」


 美玲さんが小声で言う。


「俺も、それを説明できるほど整理できてません」


「本人もなんや……」


 美玲さんは疲れたように笑った。

 小春さんが、壁にもたれたまま小さく頭を下げる。


「相良さん……助けてくれて、ありがとうございました」


「間に合ってよかったです」


 そう答えたものの、胸の奥はまだ冷たいままだった。

 間に合った。

 だが、助かったわけではない。


 遠くで、先ほどの魔物が吠えた。


 氷の通路が低く震え、天井から細かな霜が落ちる。

 久世さんが剣を構え直し、美玲さんが息を呑む。小春さんは痛む足を庇いながら、それでも必死に立ち上がろうとしていた。


 助かったわけではない。


 ただ、死ぬ場所が少し先へ延びただけだ。


「……まだ、終わってないんですね」


 俺が呟くと、久世さんがこちらを見た。


「はい。ここはまだ、迷宮の中です」


 その言葉で、ようやく実感した。


 俺は本当に、画面の向こうで見ていた場所に立っている。

 剣を持ち、魔物に追われ、誰かを守る側として。


 遠くでもう一度、咆哮が響いた。


 どうやら、俺の初陣はまだ終わっていないらしい。

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