第4話 未綴ノ書
開いた頁は、白紙だった。
黄ばんでも汚れてもいない、真新しい紙が目の前にある。次の頁をめくっても、その次をめくっても、文字も挿絵も見当たらない。
最初から最後まで、何も書かれていなかった。
「……白紙なんですが」
顔を上げると、栞さんはカウンターの向こうで微笑んでいる。
「ええ」
「何も書かれていない本を読めと?」
「まだ、でございます」
「まだ?」
問い返した瞬間、指先に触れていた紙が脈打った。
驚いて手を引こうとしたが、動かない。先ほど表紙へ触れたときと同じように、指先が頁へ吸いついている。
紙の奥から伝わる鼓動が、少しずつ速くなっていく。自分の心臓とは別のものが、本の中で目覚めようとしていた。
「栞さん、これは……」
声を上げた直後、視界が白く染まった。
布団へ潜り込み、懐中電灯で冒険小説を読んでいる子供の頃の俺がいた。
頁をめくるたび、自分もいつか剣を手にして旅へ出るのだと信じていた。
場面が変わる。
退屈な授業を聞き流しながら、教室へ武装した男たちが押し入ってくる場面を空想していた。誰も動けない中、俺だけが立ち上がる。隠していた力を解放し、怯えるクラスメイトを守る。
次に見えたのは、会社の会議室だった。
仕事で失敗し、上司と取引先へ何度も頭を下げている。最初に勤めた会社を辞めた日の帰り道では、段ボール箱に入れた私物を抱え、駅のホームに立っていた。
30歳の俺が、臨時の適性検査会場にいる。
職員から返された申込書を持ったまま、後ろに並ぶ若者たちの邪魔にならないよう、列から外れた。
覚醒反応が確認されているのは、原則として20歳以下。
俺は検査を受けることさえできなかった。
独り暮らしの部屋で文庫本を開く夜。
閉店後の商業施設で設備を点検する自分。
詰まった排水管を直し、止まった空調機を復旧させ、防火設備の不具合を見つける。誰にも知られないまま作業を終え、明日も客が来られる状態へ戻していく。
最後に見えたのは、石造りの通路を逃げる自分だった。
息を切らし、腰を痛め、魔物へ立ち向かう力もない。それでも生きることを諦めず、ライトと工具を使って逃げ道を探している。
俺の人生だった。
人には話せなかった空想も、情けない失敗も、諦めた夢も、すべて本に読み取られている。
「待ってくれ。これ、俺の記憶を見ているのか?」
返事はない。
白紙だった頁が、風もないのに次々とめくれていく。
何十枚もの紙が音を立て、やがて一枚の頁で止まった。
中央へ、黒い文字が浮かび上がる。
英雄にはなれなかった。選ばれることもなかった。
それでも、剣を取る自分を捨てきれなかった。
胸の奥へ隠してきたものを、そのまま言葉にされた気がした。
俺は主人公にはなれない。何度もそう言い聞かせてきた。40歳にもなって剣や魔法へ憧れるなど、恥ずかしいだけだと思っていた。
だが、捨てたつもりになっていただけだった。
新しい文字が浮かぶ。
壊れたものを見つけ、直してきた。危険と日常の境目に立ち、人知れず明日を守ってきた。
異常を見過ごさず、生きることを投げ出さなかった。
その人生に、未だ綴られざる可能性を確認する。
文字が淡い光を帯びた。
次の瞬間、頁の中央へ名称が刻まれる。
《神造書・未綴ノ書》
《読み手 相良浩司》
「未綴ノ書……」
名前を声にした途端、本の光が強くなった。
《可能性を開きます》
《特殊ジョブ・神剣の担い手を獲得しました》
「ジョブ……?」
見間違いではない。
白い頁には、確かに俺の名前と《神剣の担い手》という文字が記されている。
覚醒できるのは、原則として20歳以下。
10年前、俺はその条件から外れているという理由だけで、適性を調べてもらうことすらできなかった。
「俺は、40歳ですよ」
誰へ確認しているのか、自分でも分からなかった。
「ええ。存じております」
栞さんは、当たり前のことのように答えた。
「本当に、俺のジョブなんですか?」
「《未綴ノ書》が読み取ったのは、若き日の相良様ではございません」
「では、誰を?」
「今、ここにいらっしゃる相良様です」
40歳まで生きた今の俺。
夢を諦め、仕事で失敗し、それでも日々を投げ出さずに生きてきた俺自身を、この本は選んだ。若かった頃の可能性を取り戻したのではない。今まで歩いてきた人生の先に、新しい道が現れたのだ。
頁へ、さらに文字が浮かぶ。
《固有武装・八重垣剣との同調を開始します》
本から白い光が溢れた。
反射的に目を閉じる。
指先を伝っていた鼓動が腕へ入り込み、胸の奥まで駆け抜けた。身体の中心から熱が広がり、右手の中へ集まっていく。
何かを握っている。
目を開くと、俺の右手には剣の柄が収まっていた。
「……剣?」
白革を巻いた柄。その先には淡い青金の装飾が施された十字型の鍔があり、幅広の黒革張りの鞘が続いている。
華美ではない。だが、暗い水面を思わせる鞘には傷一つなく、金具にも継ぎ目や緩みが見当たらない。
神殿の奥に祀られていそうな、荘厳な西洋剣だった。
初めて握ったはずなのに、不思議なほど手に馴染んだ。
工具を持ったときとは違う。
重さは確かにあるのに、どこへ力をかければ安定するのかが感覚で分かる。だからといって、剣術を使えるようになったわけではない。構え方すら知らない俺が振り回せば、自分の脚を斬る可能性もある。
それでも、この剣が俺のために存在していることだけは理解できた。
名前を教えられる必要もなかった。
「八重垣剣」
口にした瞬間、柄を握る手から全身へ力が流れ込んだ。
《基本能力・神剣召喚》
《基本能力・神剣同調》
白紙だった頁へ、新たな文字が刻まれる。
右肩と腰の痛みが消えたわけではない。
魔物から逃げ続けた疲労も、水に濡れた作業着の冷たさも残っている。
だが、身体が動く。
浅かった呼吸が整い、乱れていた視界がはっきりする。痺れていた脚へ力が入り、椅子から立ち上がっても膝が揺れなかった。
身体の隅々まで、透明な糸で支えられているような感覚がある。
若返ったわけではない。
八重垣剣が、傷んだ40歳の身体を戦える状態へ引き上げているのだ。
「すごいな……」
思わず漏れた声は、情けないほど震えていた。
子供の頃から、何度も夢見てきた。
誰にも扱えない剣が、自分の手にだけ応える瞬間を。
それが今、現実になっている。
嬉しくないはずがなかった。
目の奥が熱くなり、慌てて瞬きをする。栞さんの前で泣くわけにはいかない。
40歳の男が、剣を手に入れて泣き出すなど、さすがに見栄えが悪すぎる。
「任意にお戻しになることもできますよ」
「戻す?」
「お手元から消す、とお考えくださいませ」
言われるまま、八重垣剣が消える様子を想像する。
剣が白い光へ変わり、右手の中から消えた。
同時に、全身を支えていた力も失われる。
「ぐっ……」
腰へ痛みが走り、膝が折れかけた。咄嗟にカウンターへ手をつき、どうにか身体を支える。
「ご無理はなさらないように」
「それは、消す前に言ってほしかったですね……」
「失礼いたしました」
栞さんの微笑みを見る限り、少しも悪いとは思っていない気がする。
もう一度、八重垣剣を思い浮かべる。
白い光が右手へ集まり、鞘に収められた剣が現れた。身体へ再び力が巡り、腰と膝を支えてくれる。
治ったわけではない。
無理をすれば、あとで痛みが一気に返ってくるだろう。
それでも、先ほどまで魔物から逃げることしかできなかった俺にとって、この力はあまりにも大きかった。
八重垣剣を腰の横へ寄せ、店内を見回す。
その瞬間、視界へ淡い線が走った。
「なんだ、これ……」
床板の継ぎ目。
本棚と床の接する場所。
カウンターを構成する木材の境目。
それだけではない。
栞さんの背後に並ぶ本の周囲や、壁と空間の間にも、細い光の線が浮かんでいる。
物の輪郭をなぞっているようで、単なる形とは違う。異なるもの同士が接している場所を、光が示している。
《基本能力・界視》
頁へ浮かんだ名称を見て、もう一度周囲へ目を凝らす。
扉の外周には、ほかの場所よりも太い線が見えた。
木製の扉と壁の境目ではない。扉の向こう側にある空間と、この店を隔てている継ぎ目だ。
「境界が、見えている……?」
「よくお気づきになりました」
「この剣は、境界を見るためのものなんですか?」
「見るだけではございません」
栞さんはそれ以上を語らなかった。
八重垣剣は、境界を斬る力と、境界を築く力を持つ。
なぜか、そのことだけが剣を通して伝わってくる。
だが、具体的に何をどうすればいいのかまでは分からない。
見えている線へ剣を振れば何かが起きるのかもしれないが、試しに店の壁を斬る勇気はなかった。
「ここで試し斬りをなさらないのは、賢明なご判断です」
「考えていることまで分かるんですか?」
「さて、どうでしょう」
やはり、この人には隠し事が通じていない気がする。
カウンターの上で《未綴ノ書》が静かに閉じた。
表紙へ浮かんでいた光が消え、本は俺の手元から離れるように、ゆっくりと栞さんの前まで滑っていく。
「これは、俺が持っていく本じゃないんですか?」
「もう、お読みになったでしょう?」
「まだ数行しか読んでませんけど」
「残りの頁は、相良様ご自身が綴るものでございます」
栞さんは《未綴ノ書》へ手を重ねた。
「この本が開いたのは、相良様が歩み得た可能性の一つにすぎません。その力で何をなさるのか、どのような物語を綴られるのかは、相良様がお決めくださいませ」
「力を与えておいて、使い方は自分で考えろと?」
「書店で結末まで教えてしまっては、読書の楽しみがなくなってしまいますから」
「不親切な店ですね」
「よく言われます」
この人が誰に言われているのかは、あまり考えない方がよさそうだ。
背後から、小さな金属音が聞こえた。
振り返る。
先ほどまで動かなかった扉の取っ手が、僅かに下がっている。
扉の外周に見えていた光の線も変化していた。閉じていた境界の一部がほどけ、向こう側の空間とつながろうとしている。
隙間から冷たい風が吹き込んできた。
店へ入る前にいた石造りの広間よりも、さらに冷たい。吐いた息が白く曇るほどの空気だった。
「帰れるんですか?」
「扉は開いております」
答えになっているようで、やはり答えになっていない。
俺は足元に置いていた工具鞄を肩へ掛け、濡れた髪を拭くために外していたヘルメットをかぶり直した。
八重垣剣を持っていない左手で取っ手へ触れる。
そのとき、扉の向こうから硬い音が響いた。
金属同士が激しくぶつかる音。
続いて、獣とも人とも違う低い咆哮が聞こえる。
「小春、後ろへ下がって!」
若い女性の切迫した声だった。
「雫ちゃん、あかん! うちの支援、もう持たへん!」
別の声が重なる。
誰かが戦っている。
扉を開けば、魔物のいる場所へ出る。
しかも俺は、剣を握ったばかりの素人だ。身体は八重垣剣に補強されているだけで、戦い方を知っているわけではない。
開けない方がいい。
管理局や警察へ連絡する手段もない以上、ここに残るのが最も安全だ。
俺が出ていったところで、助けになる保証はない。むしろ足手まといになる可能性の方が高い。
扉の向こうで、何かが砕ける音がした。
「小春!」
悲鳴が聞こえる。
俺は目を閉じ、短く息を吐いた。
「栞さん」
「はい」
「この剣で、俺にも戦えますか?」
「それを決めるのは、わたくしではございません」
「そう言うと思いました」
右手の八重垣剣を握り直す。
英雄になろうとしているわけではない。自分なら勝てると信じているわけでもない。
ただ、助けを求める声を聞いておきながら、自分だけ安全な場所に残ることはできなかった。それでは、これまで守ってきた当たり前の日常に、胸を張れなくなる。
取っ手を押し下げる。
「相良様」
背後から栞さんに呼び止められ、俺は振り返った。
「どうか、続きをお楽しみくださいませ」
穏やかな微笑みだった。
「楽しめる状況だといいんですけどね」
扉を開く。
凍りついた空気が店内へ流れ込み、作業着の裾を揺らした。
扉の向こうには、氷に覆われた石造りの通路が広がっている。
その奥で、3人の少女が巨大な魔物に追い詰められていた。
40歳になって、初めて剣が俺を選んだ。
その最初の相手が何なのかを考えるより先に、俺は扉の向こうへ踏み出していた。
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