第3話 本はお好きですか
俺はまだ、自分の名前を名乗っていない。
息を整えることさえ忘れ、カウンターの向こうに座る女性を見つめた。艶やかな長い黒髪に、白磁のような肌。整った顔立ちは、テレビや雑誌で見るどんな美女よりも現実離れしている。
その身体を包むのは、濃紺を基調とした古風なドレスだった。金糸の刺繍が施された生地は気品に満ちているが、胸元は大胆に開いている。
胸元から覗く、豊かな膨らみ。なんて柔らかそうなんだ……。
いや、何を考えているんだ、俺は。
ここがどこなのかも、この女性が何者なのかも分からない。扉の外には、人間を食い殺せそうな魔物がいるかもしれないのだ。
そんな状況で女性の胸へ目を奪われるとは、我ながら危機感が足りないにもほどがある。
俺は何事もなかったように、女性の顔へ視線を戻した。
「どうかなさいましたか?」
「いえ。何も」
たぶん、平静は保てている。
少なくとも、自分ではそう思いたかった。
女性は俺の内心など知らないように、穏やかな微笑みを浮かべている。いや、ほんの僅かに口元の笑みが深くなった気もするが、きっと気のせいだ。
俺は扉の取っ手から手を離さず、背後へ意識を向けた。外から物音は聞こえない。扉へ激突したはずの魔物が、息を潜めて待ち構えている可能性もある。
「相良浩司様」
「どうして俺の名前を知っているんです?」
女性は答える代わりに、近くの椅子を示した。
「まずは、お掛けになってはいかがでしょう。随分とお疲れのご様子です」
「お気遣いはありがたいんですが、その前に聞かせてください。ここはどこですか。それと、あなたは誰なんです?」
「わたくしは栞と申します」
女性は椅子から立ち上がり、胸元へ片手を添えて優雅に一礼した。
「栞……さん」
「はい」
「それで、ここは?」
「本を求める方が、時折辿り着く場所でございます」
答えになっているようで、何も分からない。
「古書店ということでいいんですか?」
「そのように見えますか?」
「見えますけど……」
「でしたら、今はそれでよろしいかと」
取りつく島もない。
俺は扉と栞さんを交互に見た。相手は見るからに怪しい。俺の名前を知り、迷宮のような場所にあり得ない店を構え、質問にもまともに答えようとしない。
だが、不思議と敵意は感じなかった。
少なくとも、牙を剥き出しにして追いかけてきた魔物よりは、話が通じそうだ。
「外へ戻ることはできますか?」
「ええ」
「どうやって?」
「お帰りになるときには、扉が道をつないでくれるでしょう」
俺は背後の取っ手を捻ってみた。
動かない。先ほどは簡単に開いたはずなのに、押しても引いても扉はびくともしなかった。
「今は帰るときではない、と?」
「少なくとも、そのお身体で再び外を歩かれることは、お勧めいたしません」
視線を落とすと、濡れた作業着の肩口が大きく裂けていた。魔物の爪が掠めた部分だ。幸い、服の下に傷はないようだが、右肩と腰は時間が経つほど痛みを増している。
栞さんはカウンターの下から白い布を取り出し、こちらへ差し出した。
「お使いくださいませ」
「ありがとうございます」
受け取った布は、大きめのタオルだった。濡れた髪や顔を拭くと、冷えていた身体が少しだけ楽になる。
俺は肩から提げていた工具鞄を下ろし、勧められた椅子へ腰を下ろした。座った途端、脚から力が抜ける。自分で思っていた以上に疲れていたらしい。
栞さんもカウンターの向こうへ戻った。
扉から離れることには不安があったが、無理に開けてもどうにもならない。今はこの女性から、少しでも情報を得た方がいい。
「俺がここへ来ることも知っていたんですか?」
「ええ。お待ちしておりました」
「なぜ俺を?」
「それをお話しするには、まだ少し早いように思います」
「俺の名前を知っている理由は?」
「存じ上げていたからでございます」
「そういう答え方をする人、たまにいますよね」
「ご不満でしたか?」
「満足はしてません」
俺が正直に答えると、栞さんは楽しそうに目を細めた。
「申し訳ございません。けれど、知らずに開くからこそ意味を持つ頁もございます」
また、本にたとえた言い回しだ。
改めて周囲を見回す。
店内は外から見た建物の大きさとは、明らかに釣り合っていない。高い天井まで届く本棚が幾重にも並び、その奥は薄暗くて見通せなかった。
革張りの本、布で装丁された本、金属板を束ねたようなものまである。背表紙に刻まれた文字も、日本語や英語どころか、どこの国のものかすら見当がつかない。
近くの棚へ視線を向けると、黒い表紙の本が目に留まった。
題名を読もうと目を凝らした瞬間、背表紙の文字が水面のように揺らいだ気がした。
「そちらには、お手を触れないようお願いいたします」
栞さんの声に、伸ばしかけていた手を止める。
「危険な本なんですか?」
「相良様がお読みになる本ではございません」
「今は?」
「はい。今は」
将来なら読む機会があるとでもいうのだろうか。
尋ねても、また煙に巻かれるだけの気がして、俺は手を引っ込めた。
店内は静かだった。
先ほどまで石造りの通路を走り回り、魔物の爪や牙から逃げていたことが嘘のようだ。外の音はまったく聞こえず、古い紙と革、木材の香りが満ちている。
その匂いには覚えがあった。子供の頃、近所にあった小さな古書店と同じ匂いだ。
俺が本棚を眺めていると、栞さんが不意に尋ねた。
「相良様は、本がお好きですか?」
あまりにも普通の質問だったため、返事が一瞬遅れた。
「好きですよ。人並みには」
「人並み、でございますか」
「少なくとも、本を読む習慣はあります。今も寝る前に、少しずつ読んでますし」
「どのようなところがお好きなのでしょう」
面接でも始まったのかと思ったが、栞さんの表情は真剣だった。俺がどう答えるのか、本当に興味を持っているように見える。
店内に並ぶ無数の本を見上げながら、俺は考えた。
「子供の頃から、本を読むのは好きでした」
言葉にしてみると、昔の記憶が自然と浮かんでくる。
「頁を開けば、今いる場所とは違う世界へ行けた。剣を持った勇者にもなれたし、宇宙を旅する冒険者にもなれた。現実の俺は、どこにでもいる普通の子供だったけど、本を読んでいる間だけは、何者にだってなれたんです」
武装したテロリストを倒す。異世界へ召喚される。誰にも扱えない特別な力に目覚める。
そんな空想ばかりしていた自分を思い出し、少し気恥ずかしくなった。
「大人になってからは、昔ほど夢中になって読む時間もなくなりましたけどね。仕事から帰って、風呂に入って、眠る前に数頁読む。それだけで、その日がちゃんと終わった気がするんです」
「それでは、本は相良様にとって、どのようなものでしょう」
「そうですね……」
改めて聞かれると、簡単には答えられない。
本を読んだからといって、現実の人生が劇的に変わったわけではない。俺は勇者にも英雄にもなれなかった。仕事の失敗や、将来への不安を消してくれたわけでもない。
それでも、苦しかった日も、何もかもうまくいかなかった夜も、本を開けば別の世界が待っていた。
「空想の世界へ連れていってくれる、大切な人生の供……みたいなものですかね」
口に出してから、少し大げさだった気がして頭を掻いた。
「40歳の男が言うには、格好をつけすぎかもしれませんけど」
「いいえ」
栞さんの微笑みが、それまでとは少しだけ変わった。
客へ向ける礼儀正しい笑顔ではない。俺の答えを心から喜んでいるような、柔らかな表情だった。
「とても素敵なお答えです」
なぜか胸の奥がくすぐったくなり、俺は視線を逸らした。
女性に褒められることなど、仕事以外ではほとんどない。それも、これほどの美女に真正面から言われれば、照れるなという方が無理だ。
栞さんはカウンターの下へ手を伸ばした。
そして、一冊の本を取り出す。
いつからそこに置かれていたのか分からない。俺が店内へ入ったとき、カウンターの上には彼女が読んでいた本しかなかったはずだ。
栞さんは取り出した本を、俺の前へ静かに置いた。
題名も装飾もない本だった。
白に近い淡い灰色の表紙は、紙にも革にも見える。古びているようでいて傷一つなく、つい先ほど作られたばかりの新品にも見えた。
「でしたら、この本もお読みなさい」
「これを、俺に?」
「はい」
栞さんは本をこちらへ差し出しながら、カウンター越しに身を乗り出す。
当然、その動きに合わせて大きく開いた胸元も近づいた。豊かな膨らみが柔らかく形を変え、深い谷間が先ほどよりもはっきり見える。
本を見ろ。俺は本が好きだ。
今は本だけを見ればいい。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
どうにか顔へ出さずに済んだと思う。
渡された本より先に、別のものへ目が行きかけたことは墓まで持っていこう。
「それで、これはどういう本なんです?」
「本は、頁を開いてお読みになるものでございましょう?」
「また、それですか」
「お気に召しませんか?」
「読む前に、あらすじくらいは知りたい方なんです」
「それでは、楽しみが減ってしまいます」
「せめてジャンルだけでも」
「相良様の物語、と申し上げておきましょう」
自伝を渡された覚えはない。
俺は不審に思いながら、淡い灰色の表紙へ視線を落とした。
「代金は?」
「必要ございません」
「無料ほど怖いものはないんですが」
「でしたら、先ほどのお答えを代金として頂戴いたします」
「あれでいいんですか?」
「わたくしにとっては、十分に価値のあるものでございました」
どうにも調子が狂う。
怪しい。
最初から最後まで、すべてが怪しい。そもそも、俺は迷宮らしき場所で魔物に襲われ、あり得ない古書店へ逃げ込み、名前を知っている謎の美女から正体不明の本を渡されている。
まともな神経をしているなら、受け取らずに帰るべきだ。
だが、帰るための扉は開かない。
それに何より、本を目の前にしてしまうと、中身を確かめずにはいられなかった。
俺は恐る恐る、表紙へ指先を触れさせる。
微かな温もりが伝わってきた。人肌のような、不思議な温かさだった。
手を離そうとしたが、指先が表紙から離れない。接着剤で貼りついているのではない。むしろ本の方から、俺の手を迎え入れているような感覚がある。
「……開いても?」
「もちろんでございます」
栞さんは静かに微笑んだ。
「その本は、相良様に読まれるためにございます」
胸の奥で、忘れていたはずの期待が微かに疼く。
子供の頃、初めて読む物語の表紙へ手をかけたときと同じ感覚だった。
この先には、まだ知らない世界がある。
俺は本をカウンターへ置き、表紙の端へ指をかけた。
「さあ、最初の頁をお開きくださいませ」
栞さんの声に導かれ、俺はゆっくりと表紙を開いた。
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