第2話 ダンジョンの裏道
落ちている。
そう理解してから、いったい何秒が過ぎただろう。暗闇の中で身体が回り、上も下も分からなくなる。手にしたライトの光が何度も闇を切り裂いたが、壁らしきものは映らない。見えるのは、遥か下方に浮かぶ青白い光だけだった。
無線機からは、砂を噛むような雑音が聞こえている。
『――さ……さん……答を……』
後輩の声だ。
「聞こえてる! 俺は――」
叫んだ声は、風に引き千切られた。
青白い光が急速に近づいてくる。あれが地面なら助からない。咄嗟に頭を腕で庇い、身体を丸める。こんな姿勢で何が変わるのかは分からなかったが、何もせずに激突するよりはましだと思った。
次の瞬間、落下の勢いが不自然に削がれ、身体が真横へ引かれた。
「ぐっ……!」
下へ落ちていたはずなのに、横から放り投げられたような衝撃が全身を襲う。肩から硬い斜面へ叩きつけられ、そのまま石の上を転がった。
最後に冷たい水へ突っ込み、ようやく身体が止まる。肺から空気が押し出され、息ができない。浅い水の中でもがき、どうにか四つん這いになると、咳き込むたびに胸と腰へ鈍い痛みが走った。
「げほっ……はっ、はあ……」
何度か息を吸い、吐く。呼吸はできる。手足も動く。右肩と腰は痛むが、骨が折れている感じはない。頭も打っていないようだ。
俺はその場に座り込み、震える指で自分の身体を確かめた。命が助かったと喜ぶより先に、骨折や出血を確認しているあたり、我ながら夢がない。もっとも、40歳にもなれば奇跡より先に、明日の腰痛を心配するものだ。
地下へ向かう前にかぶったヘルメットも残っている。顎紐を締めておいて正解だったらしい。工具鞄は肩掛けベルトが身体に引っかかり、どうにか一緒に落ちてきていた。壁へぶつけたせいで角が潰れていたが、中身の大半は無事だった。
手にしていたライトも点灯している。少なくとも、完全な暗闇に放り出されることだけは避けられた。
「こちら相良。聞こえるか」
腰の無線機を外して呼びかけたが、返ってくるのは途切れ途切れの雑音だけだった。
「こちら相良。地下2階北側点検区画から落下した。負傷は軽度。現在地は不明」
応答はない。チャンネルを切り替えても結果は同じだった。スマートフォンも圏外で、緊急通報すら接続できない。
俺はライトを持ち上げ、周囲を照らした。
「……なんだ、ここ」
そこは商業施設の地下ではなかった。
幅4メートルほどの石造りの通路が、左右へ延びている。足元には浅い水路が走り、澄んだ水がゆっくりと流れていた。壁も床も、長い年月を経た遺跡のようにすり減っている。ところどころに埋め込まれた青白い鉱石が、弱い光を放っていた。
落ちてきた場所を探して天井へ光を向ける。しかし、そこには石を組み上げた天井があるだけで、穴などどこにもなかった。
「冗談だろ……」
俺は確かに、商業施設の地下から落ちた。途中まで後輩の声も聞こえていた。それなのに、落下した穴そのものが消えている。
痛む腰を押さえながら立ち上がり、無線がつながる場所を探して数メートル歩く。雑音の強さに変化はなかった。大声で助けを呼んでみたものの、返事はなく、俺の声だけが石壁に反響して遠くへ消えていった。
その場で待つことも考えた。だが、上に穴はない。後輩たちが俺の落下地点を見つけたとしても、ここへ降りてこられる保証はなかった。水路のある空間で、濡れた身体を冷やし続けるのも危険だ。
無線の届く場所か、上へ通じる道を探すしかない。
工具鞄から養生テープと油性ペンを取り出す。手袋で壁の水気を拭い、赤いテープを短く切って貼ると、現在時刻と進む方向を記した。
空気の流れを確かめると、右手側から僅かに冷たい風が吹いていた。水も同じ方向へ流れている。空気と水が動いているなら、その先に広い空間か出口がある可能性が高い。
俺は右手の通路を進むことにした。
数十メートルほど歩いたところで、通路が二つに分かれていた。左右を照らし、風の流れを確かめる。右側は湿った空気が淀み、左側からは弱い風が来ている。
分岐にも赤いテープを貼り、左へ進んだ。通路は緩やかに下っている。壁に埋まる青白い鉱石以外、人工的な照明はなく、石の隙間から落ちる水滴の音が、ときおり静寂を破った。
どれほど歩いただろう。
別の分岐へ差しかかったところで、俺は足を止めた。正面の壁に、赤いテープが貼られている。
さきほど俺が使ったものと同じ幅。同じ油性ペンで、時刻と矢印が書かれていた。近づいて確認すると、記されているのは最初に現在地へ書いた時刻だった。切り口の片側が斜めに裂けている。俺が手でちぎったときにできた跡まで同じだ。
「……戻ってきたのか?」
一本道ではなかった。何度か曲がっているため、知らないうちに同じ場所へ戻った可能性はある。
だが、テープに描かれた矢印は、俺が歩いてきた方向を指していた。それだけではない。最初の場所には水路があったが、ここにはない。壁の石組みも、天井の高さも違っている。
道を間違えたのではない。
道の方が、俺の知らないところでつながり方を変えている。
そんな考えが浮かび、背中に冷たいものが流れた。
次の瞬間、遠くで何かが擦れる音がした。石の上を、硬いものが引っ掻いている。
俺はライトを消した。青白い鉱石の淡い光だけが、通路を照らしている。
音は止まらない。一定ではなく、二度、三度と短く続き、その合間に濡れたものを噛むような音が混じっていた。
人ではない。
足音を殺し、壁際をゆっくり進む。曲がり角の手前で身を屈め、僅かに顔を出した。
少し先の広がった場所に、何かがいた。
最初は、大型犬に見えた。
だが、犬にしては前脚が長すぎる。灰色の皮膚は肋骨が分かるほど痩せ細り、背中から黒い棘のようなものが何本も突き出していた。そのうち一本だけが途中から折れている。
そいつは床に倒れた小動物らしきものへ顔を埋め、肉を食い千切っていた。口が開くたび、異様に長い牙が青い光を反射する。
魔物。
映像で見るのとは違う。
画面の向こうでは、剣を持った若者たちが当たり前のように倒していた。だが、武器も異能も持たない俺にとって、あれは低級だろうが何だろうが、十分すぎるほど致命的だった。
見つかる前に離れなければならない。
俺は息を殺したまま、ゆっくりと後ろへ下がった。
靴の踵が、床に転がっていた細い骨を蹴る。
乾いた音が響いた。
魔物が食事をやめ、ゆっくりと顔を上げる。暗闇の中で、二つの目が赤く光った。
「……最悪だ」
魔物が四肢を沈め、こちらへ飛びかかってくる。
俺は消していたライトを最大光量で点灯し、光を真正面から浴びせた。魔物が甲高い声を上げ、顔を背ける。その隙に踵を返し、全力で走った。
工具鞄が腰へぶつかり、肩の痛みが増す。水に濡れた作業着は重く、数十メートルも走らないうちに呼吸が乱れた。背後からは、爪が石床を叩く音が追ってくる。
速い。
振り返る余裕はない。角を曲がり、先ほどの分岐へ飛び込む。工具鞄からモンキーレンチを取り出し、反対側の通路へ投げた。
金属が石壁へぶつかり、大きな音を立てる。背後の足音が一瞬だけ止まり、別方向へ逸れた。
俺は呼吸を抑えながら、暗い通路を進んだ。成功したと思ったのは、ほんの数秒だった。
別の曲がり角の向こうから、低い唸り声が聞こえる。
「先回りしたのか……?」
暗闇の中に、二つの赤い目が浮かんだ。青白い光に照らされた背中には、途中から折れた黒い棘が見える。
同じ魔物だ。
あり得ない。あいつは俺の後ろにいた。一本道を走ってきたはずなのに、いつの間にか前方へ回り込んでいる。
さきほど見つけたテープと同じだ。この場所では、距離も方向も信用できない。
俺は踵を返した。
若い頃、こんな場面を何度も空想した。怪物に襲われ、誰も知らない力へ目覚め、一撃で倒す。妄想の中の俺は恐れを知らず、息切れもしなければ、腰を痛めることもなかった。
現実の俺は、ただ必死に逃げている。
それでも、足を止めるつもりはなかった。
途中で見つけた狭い石の隙間へ、身体を横にして滑り込む。工具鞄が引っかかったため、ベルトを外して前へ押し込んだ。
直後、背中側で魔物の牙が鳴る。作業着が爪に引っかかり、肩口が裂けた。
「くそっ!」
石壁へ手をつき、力任せに身体を押し込む。どうにか隙間を抜けたとき、魔物は肩と背中の棘を石の間につかえさせていた。異様に長い前脚だけがこちらへ伸び、爪が床を削っている。
今のうちに距離を取らなければならない。工具鞄を拾い、再び走る。
だが、もう肺が限界だった。喉が焼けるように痛み、脚が重い。右膝にも鈍い痛みが走っている。
背後から石が砕ける音が響いた。続いて、爪が床を叩く音が再び近づいてくる。あの魔物が隙間を無理やり広げたのだろう。
やがて通路が途切れ、広い空間へ出た。
行き止まりかと思った。
だが、ライトが照らした先に、建物があった。
「……店?」
石造りの地下空間に、古い西洋風の建物が一軒だけ建っている。
黒褐色の木材と白い壁。色ガラスの小窓。真鍮製の取っ手がついた扉の脇には、暖かな色のランプが灯っていた。窓の向こうには、天井まで届く本棚が見える。
看板はない。人がいる気配もない。
どう考えても、おかしい。
だが背後では、魔物の足音が迫っている。罠かもしれない。それでも、他に道はなかった。
俺は扉へ駆け寄り、真鍮製の取っ手を掴んだ。鍵はかかっていない。
扉を開け、身体を滑り込ませる。工具鞄を引き入れ、振り返って扉を閉めた。
直後、何かが外から扉へ激突した。扉が大きく軋む。
俺は取っ手を両手で押さえ、次の衝撃に備えた。
だが、何も起こらなかった。
唸り声も、爪が床を掻く音も聞こえない。つい先ほどまでの騒音が、最初から存在しなかったかのように消えている。
荒い呼吸を繰り返しながら、俺は店内を見回した。
外から見た建物より、明らかに広い。高い天井まで届く本棚が、奥へ奥へと続いている。棚には革表紙の古書や、見たことのない文字が刻まれた本が隙間なく並んでいた。
空気は暖かく、古い紙と革、木材の香りがする。冷たい石の通路とは、まるで別の世界だった。
その店の奥。磨かれた木製のカウンターの向こうに、一人の女性が座っている。
息を呑むほど美しい女性だった。艶やかな長い黒髪に、白磁のような肌。夜空を閉じ込めたような瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。
女性は手にしていた本を静かに閉じた。
そして、俺がここへ来ることを初めから知っていたように微笑んだ。
「いらっしゃいませ、相良浩司様」
俺はまだ、自分の名前を名乗っていなかった。
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