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第1話 主人公になるには遅すぎた

 40歳にもなれば、非常ベルの音を聞いて世界の危機を想像することはなくなる。聞こえたら、まず受信盤を確認し、火災か誤作動かを切り分けて現場へ向かう。必要なら警備へ連絡し、設備側の異常なら原因を探る。


 少なくとも、大型商業施設の設備管理員である俺――相良浩司(さがらこうじ)にとって、赤いランプの点灯は物語の始まりではなく、仕事が増えた合図だった。


「相良さん、どうです?」


 脚立の下から、同じ遅番に入っている後輩が声をかけてくる。


「もう少し。シャッター本体じゃなくて、検知器側の接触不良だな」


 閉店後の専門店街で、俺は防火シャッターの点検口を開き、検知器の端子を確認していた。


 端子を締め直し、配線に異常がないことを確かめる。無線で中央監視室へ受信盤との連動試験を頼むと、少しして復旧を知らせる声が返ってきた。


 脚立を降りて、作業票に時刻と処置内容を記入する。これで明日の営業にも支障はない。


「さすがですね。相良さん、だいたい何でも直しちゃうじゃないですか」


「直せるものだけだよ。直せないものは、メーカーに頭を下げて来てもらう」


「夢がないなあ」


「設備管理の仕事に、夢を求めるなって」


 笑いながら工具を片づける後輩にそう返し、俺も苦笑した。


 夢なら、昔は人一倍あった。もっとも、人に話せるような立派な夢ではない。


 閉店を告げる音楽が止まり、照明を落とした通路を中央監視室へ戻る。昼間は家族連れや学生で埋まる館内も、この時間になると別の建物のように静かだった。


 吹き抜けに面した大型モニターだけが、夜間設定のまま映像を流している。


『迷宮出現から、今年で10年――』


 画面には、剣を携えた若者たちが映っていた。


 場所は彩乃宮市北部の《氷ノ川迷宮》。水路の多い上層区画で、学生迷宮踏査士の一団が魔物と戦っている。自治体の広報映像らしく、最後には若者の育成と安全な資源開発を訴える文字が並んだ。


 俺は足を止め、ほんの数秒だけその映像を見上げた。


 10代の頃の俺が見れば、きっと目を輝かせただろう。


 当時の俺は、本気で信じていた。いつか突然、特別な力に目覚めるのだと。


 退屈な授業中、武装したテロリストが教室へ押し入り、隠していた力で俺だけが立ち向かう。帰り道に魔法陣が現れ、異世界へ召喚される。あるいは、誰にも抜けなかった剣が俺の手にだけ応える。


 そんな空想を、飽きもせず何度も繰り返した。もちろん、現実には何も起きなかった。


 高校を卒業して、大学へ進み、就職した。思い描いていたほど仕事はうまくいかず、最初に入った会社を辞め、いくつか職を変えた。


 世界を救うどころか、自分一人の暮らしを守るだけで精いっぱいだった。


 年齢を重ねるにつれ、空想は恥ずかしい過去になった。思い出すたび、若かったなと笑って蓋をするようになった。


 だから30歳のとき、本当に世界各地へ迷宮が現れた日のことは、今でもよく覚えている。


 世界各地に現れた迷宮から、物語の中にしかいなかった魔物が姿を現した。迷宮から持ち帰られた魔石は新たなエネルギー資源となり、一部の若者は異能やジョブに目覚めた。


 ニュースを見た瞬間、胸の奥で、とうに死んだはずの何かが息を吹き返した。


 遅れていた物語が、ようやく始まる。


 今度こそ、自分の番なのだと。


 我ながら、30歳にもなってどうかしていたと思う。


 それでも俺は、仕事を休んで臨時の適性検査会場へ向かった。受付にできた長い列へ並び、何度も申込書を読み返しながら順番を待った。


 俺の番になり、年齢欄を見た職員は申し訳なさそうに言った。


「覚醒反応が確認されているのは、原則として20歳以下です。30歳の方は、検査の対象外となります」


 申込書は受け取ってもらえなかった。


 努力が足りなかったわけでも、適性がないと判定されたわけでもない。確かめる機会すら与えられず、ただ、生まれるのが10年早かった。


 たったそれだけで、俺の物語は始まる前に終わった。


 大型モニターの中では、学生迷宮踏査士が仲間と拳を合わせていた。


 今では、あの光景を見ても、昔ほど胸は痛まない。


 迷宮が現れて10年。剣や魔法で戦う若者は珍しくなくなった。この施設の非常用電源にも、魔石蓄電設備が導入されている。


 かつての空想は社会の一部になり、俺はその社会で設備を点検し、壊れたものを直して給料をもらっている。


 主人公ではない。


 けれど、それなりに必要な仕事だとは思っている。


 誰にも気づかれないまま一日が終わるなら、それは施設に大きな異常がなかったということだ。明日も照明がつき、空調が動き、自動扉が開く。


 そういう当たり前を守るのが、今の俺の仕事だった。


 今夜も引き継ぎを終えたら、閉店間際のスーパーで夕食を買い、独り暮らしの部屋へ帰る。風呂を済ませ、読みかけの文庫本を数頁進め、眠くなれば寝る。派手さはないが、それが俺の日常だ。


『相良さん、聞こえますか?』


 腰の無線機から、先に中央監視室へ戻っていた後輩の声が響き、俺は大型モニターから目を離した。


「聞こえてる。どうした?」


『地下2階の北側で、漏水警報が出ました。センサーはB2の47番です』


「47番?」


 頭の中で設備配置図を思い浮かべる。


 地下2階の北側には、搬入口へ続く業務用通路と、給排水設備の一部がある。ただし、47番のセンサーが設置されているのは壁際の点検区画だ。普段、人が立ち入る場所ではない。


「そのまま中央監視室で、警報の変化を見ていてくれ。俺が現場を確認する」


『了解です。何かあったら、すぐ呼んでください』


「5分ごとに連絡する。応答がなければ警備へ回してくれ」


 無線機の状態を確認し、ヘルメットをかぶる。工具鞄にライトと検電器を戻し、俺は従業員用の階段で地下へ向かった。


 地下2階の業務用通路は、地上よりも空気が冷えていた。


 白い蛍光灯に照らされた通路には、空調機の低い音だけが流れている。床に水が広がっている様子はなく、天井や配管にも目立った異常はない。


「こちら相良。北側通路へ到着。現時点で漏水は確認できない」


『警報は継続中です。数値も少しずつ上がっています』


「了解。47番を直接見る」


 通路の突き当たりにある点検扉を、管理用の鍵で開ける。


 中は人一人が通れる程度の狭い空間だった。壁沿いに配管が走り、その下へ漏水検知帯が敷かれている。


 ライトを向けながら奥へ進む。


 水滴は見当たらない。それなのに、足を進めるほど湿った冷気が強くなっていく。


 おかしい。この先は外壁のはずだ。


 配管図を確認するため、工具鞄から端末を取り出す。表示された図面では、現在地から3メートルほど先で点検区画は終わっている。


 だが実際には、暗闇がその先まで続いていた。


「……増築なんて、してないよな」


 独り言が、妙に遠くまで響いた。


 足元へライトを向ける。


 灰色の床を、髪の毛ほどの黒い線が横切っていた。


 亀裂に見えたが、コンクリートが割れているのとは違う。線の内側だけ、光が沈んでいる。ライトを近づけても底が見えず、覗き込んだ途端、冷たい風が頬を撫でた。


 風が吹き出している。


 床にできた、幅数ミリの線から。


「中央、聞こえるか。図面と現場が合わない。北側点検区画の奥に――」


 足元で、硬いものが割れる音がした。


 反射的に一歩下がる。だが、遅かった。


 黒い線が一気に広がり、床を四角く切り取った。コンクリート片が崩れ落ちるのではない。そこにあった床そのものが、初めから存在しなかったように消えた。


「は?」


 間の抜けた声とともに、身体が沈む。


 咄嗟に伸ばした手は配管へ届かず、工具鞄だけが壁へぶつかった。無線機から後輩の声が聞こえた気がしたが、風を切る音に掻き消される。


 ライトの光が回り、白い壁が遠ざかっていく。


 その下にあったのは、地下設備区画ではなかった。

 どこまでも続く暗闇と、遥か下方に浮かぶ青白い光。


 40歳になって、ようやく俺の人生にも、ありえないことが起きた。


 ただしそれは、待ち望んだ覚醒でも、異世界への華々しい召喚でもない。

 足場を失い、暗い穴へ真っ逆さまに落ちているだけだった。


 主人公になるには、10年遅かった。


 少なくとも、この瞬間までの俺は、そう思っていた。


 後になって知ったが、俺が落ちた先は正規の入口にも公式の地図にも存在しない、《ダンジョンの裏道》と呼ばれる場所だった。

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