第21話 壁の向こうの閉館放送
処置室の扉が閉じたあとも、担架で運ばれてきた男性の言葉が耳に残っていた。市外の迷宮で、壁の向こうから彩乃宮モールの閉館放送を聞いたという。
聞き間違いであってほしい。それでも、男性が口にした言葉は、設備管理員として働くうちに何百回と聞いてきた定型放送そのものだった。
「白瀬さん」
「……うん。うちも聞いた」
白瀬さんは処置室の扉を見たまま答えた。先ほどまで浮かべていた笑みは消え、受付台に置いた手に力が入っている。
「顔色が悪いですよ」
「ちょっとだけ、拾ってもうた」
「《共鳴感知》ですか」
白瀬さんが小さく頷いた。自分から使ったわけではないらしい。
「あの人の気持ちが、急に流れ込んできたんよ。怖いだけやなくて、置いてきたって……そんな感じがした」
「誰かを、ですか」
「細かいことまでは分からへん。ただ、あの人だけの恐怖やない気がした」
彼女の指先がわずかに震えている。問診票を確認していたときの白瀬さんなら、この状態を見過ごしはしないだろう。
「白瀬さんも休んでください」
「このくらいなら大丈夫や」
「ここに来る人の『大丈夫』を、そのまま信じたら駄目なんでしょう」
つい先ほど言われた言葉を返すと、白瀬さんは口を閉じた。受付の奥から出てきた女性職員も彼女の顔を見て、空いている椅子を指す。
「美玲、受付は代わるから座ってなさい。頭痛は?」
「少しだけ。吐き気はないよ」
「なら、水を飲んで休んで。強くなったらすぐ言うこと」
「……分かった」
白瀬さんは素直に椅子に座った。支援する側だからといって、いつでも平気なわけではない。本人がそう教えてくれたばかりだった。
俺も帰る気にはなれず、治療院の許可を得て待合室に残った。処置室では複数の職員が動き、扉が開くたびに短い指示と測定器の音が漏れてくる。
担架を運び込んだ管理局の救護職員は、受付の端で端末を操作していた。連絡を終えると、俺たちの方へ歩いてくる。
「患者は県西部の《鏡石迷宮》で保護されました。登録踏査士で、身元は確認できています。現在は低体温と魔力消耗への処置を優先しています」
「同行者はいたんですか」
白瀬さんが尋ねる。救護職員は一度だけ処置室を振り返った。
「3人のパーティーで入っていました。救援班が発見できたのは、今のところ彼だけです」
「残りの2人は?」
「捜索中です。現場の一部で地図と通路が一致しない状態が確認され、救援班も無理には進めていません」
地図と実際の道が合わない。氷ノ川迷宮でも、《ダンジョンの裏道》でも経験したことだった。
「保護された場所は、正規ルートから外れていたんですか」
「はい。地図上では岩盤になっている場所から、救難信号が届きました。救援班が到着した時点では、壁の一部が通路へ変わっていたそうです」
職員はそこまで話すと、端末に視線を落とした。詳しい事情は患者の状態が安定してから確認するという。
「彩乃宮モールの件については、すでに彩乃宮迷宮管理局本局へ報告しました」
「俺にも確認が来ますか」
「閉館放送を日常的に聞いている方として、内容を確認していただく可能性があります。こちらでの確認が終わるまでは、連絡が取れる状態で待っていてください」
「分かりました」
救護職員が処置室へ戻り、待合室には再び小さな話し声だけが残った。ほかの患者たちは何が起きたのか気にしていたが、職員の動きを妨げる者はいない。
「鏡石迷宮って、ここからかなり離れとるよな」
「県西部なら、車でも1時間以上はかかります」
「それでも、壁の向こうでモールの放送が聞こえた」
「本人の記憶が混乱している可能性はあります」
「相良のおっちゃんは、そう思っとる?」
俺はすぐに答えられなかった。混乱した患者の言葉だけなら、そう考えることもできる。けれど、俺自身が彩乃宮モールの床から落ち、別の迷宮へ出た。
「聞き間違いだと決めるには、心当たりが多すぎます」
「やんな」
白瀬さんは水の入った紙コップを両手で持ち、ゆっくり息を吐いた。指先の震えは治まりつつあるようだった。
「それと、さっきのことは榊原先生にも報告してください」
「共鳴したこと?」
「はい。頭痛も含めて」
「おっちゃん、急に厳しくなったな」
「教わったことを実践しているだけです」
「自分の右腕のことは書かへんかったのに?」
「それは反省しています」
「ほな、うちも反省しとく」
白瀬さんは少しだけ笑い、端末を取り出した。迷宮踏査部の連絡網に、状況と体調を簡潔に入力する。
送信して間もなく、榊原先生から通話が入った。白瀬さんは周囲を確認してから応答し、椅子に座ったまま現在の状態を報告する。
「はい。今は頭痛もほとんどないです。勝手に能力を使ったんやなくて、向こうから強く流れてきた感じで……はい。帰る前に、もう1回診てもらいます」
何度か返事をしたあと、白瀬さんが俺に端末を差し出した。通話の向こうで、榊原先生が俺にも代わるよう求めているらしい。
「先生がおっちゃんにも代われって」
「俺にですか」
端末を受け取り、耳に当てる。榊原先生の声は、いつもより少し低かった。
『相良さん。患者の証言は聞きましたね』
「はい。彩乃宮モールの閉館放送を、壁の向こうで聞いたそうです」
『それ以上の確認は管理局へ任せてください。患者へ直接話を聞こうとしたり、鏡石迷宮へ行ったりしないこと』
「行きませんよ」
『47番から《裏道》へ落ちた人の言葉なので、念のためです』
「信用が少しずつ積み上がっていると思っていました」
『無茶をしないという信用は、まだ基礎工事の途中です』
「設備にたとえられると、反論しにくいですね」
『白瀬さんがもう1度診てもらうまで、そばにいてください。能力反応が出た以上、1人にしない方がいいでしょう』
「分かりました」
通話を終え、端末を返す。白瀬さんは会話の内容を予想していたらしく、少し気まずそうに視線を逸らした。
「もう1度診てもらうまで、付き添うことになりました」
「おっちゃんの方が患者やったはずやのに」
「立場が逆になりましたね」
「ほな、ちゃんと見張っといてな」
白瀬さんが吹き出した。張りつめていた空気が少しだけ緩み、俺もようやく肩から力を抜く。
それから20分ほどして、本局の調査員が治療院へ到着した。地下2階の47番を調べたときに来ていた女性職員だった。
「相良さん。また異常事案の近くにいましたね」
「今回は診察を受けに来ただけです」
「記録上も、そのようです」
調査員に案内され、俺と白瀬さんは空いている診察室へ移った。患者の記録を扱うため、音声の確認は関係者だけで行うらしい。
調査員は救護職員から端末を受け取った。画面には、患者の踏査記録が表示されている。
「《鏡石迷宮》の踏査記録端末には、音声も保存されています。患者本人の同意は状態が安定してから取りますが、緊急事案として位置情報と環境記録の確認を進めています」
「閉館放送も残っているんですか」
「雑音が多く、解析中です。ただ、彩乃宮モールという名称は聞き取れました。相良さんには、定型放送と一致するかだけ確認していただきます」
調査員が端末を操作すると、短い音声が再生された。
石を擦るような音と、荒い呼吸。遠くで何かがぶつかり、男性が仲間の名前を呼んでいる。その奥から、途切れた館内放送が流れてきた。
『……彩乃宮モールを、ご利用いただき……』
聞き慣れた女性の声だった。音は歪んでいても、抑揚と間の取り方まで覚えている。
「間違いありません。閉館時に流している放送です」
「放送の音源が外部で使われている可能性は?」
「施設の館内設備に保存されたものです。少なくとも、一般に公開している音源ではありません」
「分かりました」
調査員は再生を止め、記録に入力した。続いて別の画面を開くと、時間の並んだ波形が表示される。
「音声が記録されたのは、47番に仮設センサーを設置した翌日です。今から2日前の午後8時3分になります」
「その時間は、まだ閉館放送が流れています」
「こちらでも確認しました。彩乃宮モールでは、午後8時に閉館放送を開始し、午後8時5分まで流れていました」
それだけなら、離れた場所で同じ音が聞こえたという事実にすぎない。調査員の表情を見る限り、話はそこで終わらなかった。
「47番の記録も確認しました」
調査員が端末をこちらへ向ける。仮設センサーの数値が、ほぼ一定の線として表示されていた。その一部だけが細く持ち上がっている。
「同じ日の午後8時3分、空間座標の測定値が一時的に上昇しています。警報域には達していませんが、通常の変動範囲を越えています」
白瀬さんが紙コップを置き、端末の画面を見つめた。表情から、先ほどの軽さが消えている。
「同じ時間に、鏡石迷宮でモールの放送が聞こえて、47番の数値が動いたん?」
「現時点で確認できた事実は、その2つです。両者が直接つながったと断定はできません」
調査員は慎重に言葉を選んだ。それでも、偶然として片づけるには、時刻まで一致しすぎている。
その夜、彩乃宮モールは普段どおり閉店した。地下2階でも警報は鳴らず、誰も異常に気づかなかった。
その同じ時刻、遠く離れた迷宮の壁の向こうでは、俺たちの日常が流れていた。
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