第20話 40歳、治療院へ
次の出勤日、彩乃宮モールは何事もなかったように営業していた。地下2階北側の点検区画には管理局の封印票が貼られ、扉の手前には金属製の柵と仮設センサーが増えている。それでも地上の売り場には買い物客が行き交い、館内放送が流れ、飲食店から昼食の匂いが漂っていた。
世界のどこかへつながるかもしれない黒い線が床に現れても、施設全体を休業させるわけにはいかない。管理局は異常が封鎖区画内に限られていると判断し、監視継続を条件に営業を認めていた。
異常のある場所を切り離し、それ以外を普段どおり動かすのが現実の仕事だった。
「47番、変化なしです」
中央監視室で仮設センサーの数値を確認していた後輩が、画面をこちらへ向ける。
「温度も空間座標も正常。漏水検知帯の導通値も上がってません」
「記録だけ残しておいてくれ。警報が出ても、現場には入らず管理局へ連絡する」
「分かってます。相良さんも入らないでくださいね」
「俺まで毎回確認されるのか」
「前科がありますから」
「あれは故意じゃない」
「床が消えたのを前科と呼んでいいかは、俺も迷ってます」
後輩は点検記録へ数値を入力しながら笑った。最初に47番が鳴った夜は、俺が戻らなければ警備へ連絡する役目を任せていた。今は警報が出れば、最初から管理局へ連絡する手順が加わっている。
仕事が増えたというより、異常への対応方法が決まった。それだけでも、何も分からず床へ落ちた頃よりはましだった。
「ところで相良さん、今日は定時で上がるんですよね」
「ああ。管理局から経過観察を受けるように言われてる」
「病院ですか?」
「迷宮踏査士向けの治療院らしい」
「また女子高生の関係者です?」
「どうしてそうなる」
「最近の相良さん、女子高生と先生と管理局の人に囲まれてるじゃないですか」
「言い方に気をつけろ。俺の社会的な境界が危ない」
後輩は笑っていたが、俺としては冗談で済ませられない。40歳の男が女子校の部活動へ参加している時点で、説明には細心の注意が必要だった。
定時で仕事を終え、駅の反対側へ歩く。管理局から送られてきた案内に従って住宅街へ入ると、通りに面した3階建ての建物が見えてきた。
入口の看板には、《白瀬治療院》と書かれている。その下には、迷宮踏査士指定医療機関であることを示す管理局の認定章が掲げられていた。
白瀬さんの実家が踏査士向けの治療院を営んでいることは聞いていた。それでも本人の名字が大きく掲げられた建物を目の前にすると、知り合いの家を訪ねるような落ち着かなさがある。
自動扉をくぐると、消毒液に混じって薬草に似た匂いがした。待合室には学生くらいの若者から、俺より年上に見える男性まで座っている。腕を吊っている者もいれば、外傷はないのに毛布にくるまり、目を閉じている者もいた。
「相良浩司さんですね。午後6時の予約で承っています」
受付から聞こえた丁寧な声に、俺は一瞬だけ足を止めた。白瀬さんが、制服の上から淡い色のエプロンを着けて立っている。明るい髪は邪魔にならないよう後ろでまとめられ、学校で会うときより少し大人びて見えた。
「……白瀬さん?」
「何その顔。うちが普通に受付しとったら変なん?」
「いつもの調子で迎えられると思っていたので」
「患者さんの前で『相良のおっちゃん、いらっしゃい』とは言わへんよ」
「安心しました」
「でも、顔見たら言いたくなってきたわ。ようこそ、相良のおっちゃん」
「受付を通過した途端に戻らないでください」
白瀬さんは声を抑えて笑うと、問診票と筆記具を差し出した。受付の手伝いには慣れているらしく、用紙を開く動きにも迷いがない。
「右肩と腰、それから《神剣同調》を解いたあとの疲労について書いてな。痛みを小さく見せたらあかんで」
「管理局でも同じことを言われました」
「相良のおっちゃんは、大丈夫の基準が信用ならんから」
「少しずつ改善しているつもりです」
「自己申告やと、さらに信用できへんな」
反論できず、待合室の椅子へ座った。問診票には、痛みの位置や強さだけでなく、能力使用中の頭痛、視界の明滅、手の震え、召喚解除後の倦怠感まで細かく並んでいる。
迷宮が現れて10年。剣や魔法を使える人間が増えれば、それに合わせた医療も必要になる。俺が知らなかっただけで、力を使ったあとに身体を壊す者は珍しくないのだろう。
記入を終えて受付へ戻ると、白瀬さんが記入漏れを確認した。すぐに、空欄の残っていた項目を指先で示される。
「右腕の重さ、昨日まで残っとったん?」
「日常生活には影響しない程度です」
「それ、問診票には書いてへんやん」
「もう治まったので」
「治まったかどうかを確認するために来たんやろ」
白瀬さんはため息をつき、右腕の欄に追記するよう指で示した。学校では軽口を叩くことの多い彼女だが、ここでは見逃してくれないらしい。
診察では、肩や腰の動きに加え、魔力経路と筋肉への負荷を専用の測定器で確認された。幸い、骨や腱に大きな損傷はなく、初めて迷宮へ落ちたときの打撲も回復している。問題は、《神剣同調》による補強だった。
「痛みや疲労を消しているわけではありません」
白衣を着た医師が、測定結果を表示した端末をこちらへ向ける。画面には、能力使用前後の筋肉と魔力経路の変化が並んでいた。
「神剣が関節と筋肉の動きを支え、現在の肉体で可能な範囲を一時的に広げています。使用中に動けるからといって、負担までなくなったわけではありません」
「剣を消したあと、一気に疲れるのもそれが原因ですか」
「そう考えていいでしょう。限界を越えた分は、解除後に身体へ戻ります。回復しないまま繰り返せば、筋肉や関節を傷める可能性があります」
分かっていたつもりだったが、数値を見せられると重みが違う。八重垣剣が俺を若返らせたわけではない。40歳の身体を、壊れない範囲で戦えるところまで引き上げているだけだ。
「次に能力を使用したときは、解除後の痛みや震えも記録してください。本人が動けるかどうかだけでは、継続可能とは判断できません」
「分かりました」
「白瀬さんからも、よく言っておいてください」
診察室の隅で測定記録を運んでいた白瀬さんが、すぐに頷いた。俺の返事より、そちらの方が医師には信用されたらしい。
「任せてください。大丈夫って言うたら、まず疑います」
「俺の信用が医療機関で正式に失われている」
「最初から保留中やで」
診察を終えると、白瀬さんが会計用の紙と、能力使用後の記録表を持ってきた。受付へ戻る途中、廊下ですれ違った男性が彼女へ片手を上げる。左腕には固定具が巻かれていた。
「美玲ちゃん、この前はありがとな。言われたとおり、今日は剣を持ってきてないよ」
「それが普通やからね。抜糸終わるまで迷宮は禁止やで」
「分かってるって」
「その返事する人、だいたい分かってへんから」
男性は苦笑しながら待合室へ戻っていった。白瀬さんはその背中を見送り、受付台の横に積まれていたタオルの位置を整える。
「常連なんですか」
「昔から来とる人。治りかけると、すぐ迷宮へ戻ろうとするんよ」
「踏査士は、そういう人が多いんですか」
「多いな。仲間を待たせとるとか、休んだら腕が鈍るとか、理由はいろいろやけど」
白瀬さんは待合室へ視線を向けた。明るい声のままだったが、表情には学校で見せる軽さがない。
「ここに来る人の『大丈夫』を、そのまま信じたらあかんねん。帰ってきた安心で、痛いことにも気づいてへん人がおるから」
「だから、俺の問診票も確認したんですね」
「おっちゃんは、安心してなくても隠しそうやけどな」
「否定しにくいですね」
「ちゃんと人に任せる練習もしてな。支援する側は、何も言われへん方が困るんやで」
迷宮で右側の霜牙犬を任せたとき、白瀬さんは嬉しかったと言っていた。戦っている最中だけでなく、自分の状態を伝えることも、彼女を信じることになるのかもしれない。
「次からは、右腕が重かったことも報告します」
「よろしい。星半分追加やな」
「まだ満点には遠そうですね」
「伸びしろは大事やろ」
白瀬さんがいつもの調子で笑った、そのときだった。入口の自動扉が開き、冷たい空気とともに担架が運び込まれてきた。管理局の救護服を着た職員が2人、毛布に包まれた若い男性を処置室へ運んでいた。
「市外の迷宮から搬送。外傷は軽度ですが、体温と残存魔力が大きく低下しています。意識が混濁しています」
受付の空気が変わった。白瀬さんはすぐに通路を空け、奥へ声をかける。先ほどまで会計をしていた職員も立ち上がり、処置室の扉を開いた。
担架の男性には大きな傷が見当たらなかった。それでも顔色は青く、毛布の下で身体が震えている。通り過ぎる直前、男性の手が担架の縁を掴んだ。
「道が……違った」
掠れた声に、救護職員が顔を寄せる。男性の肩に手を添え、話すのをやめて呼吸を整えるよう促した。
「話さなくていい。今は呼吸を整えてください」
「壁の向こうに……店があって……」
俺は息を止めた。男性の焦点の合わない目が、待合室の天井を見上げる。震える唇から、途切れ途切れに言葉が漏れた。
「放送が、聞こえたんだ。『本日も、彩乃宮モールをご利用いただき……ありがとうございました』って……」
毎晩、閉店後の館内で聞いている言葉だった。担架が処置室へ消えたあとも、その声だけが耳に残った。
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