第19話 エピローグ 47番の警報
『47番です』
聞き間違えるはずがなかった。
「北側の点検区画には入るな。点検扉の前を立入禁止にして、警備にも連絡してくれ。警報は復旧させず、発報した時刻と数値を残しておいてほしい」
『分かりました。相良さんは来られますか?』
「俺だけでは行かない。迷宮管理局にも連絡する」
通話を切ると、向かいに座る3人が俺を見ていた。さっきまで開いていたデザートのメニューから、全員が手を離している。
「地下2階の47番で、また漏水警報が出ました」
「相良さんが《裏道》へ落ちた場所ですね」
久世さんの声から、食事中の柔らかさが消えた。視線はすでに、テーブルの端へ置いた端末へ向いている。
「はい。今回も水は出ていないそうです」
「管理局へ報告します」
久世さんはすぐに端末を手に取った。俺も榊原先生へ連絡しようとしたが、その前に着信が入る。表示された名前は榊原伊織だった。
「もしもし」
『雫から聞きました。相良さん、今どこですか』
「駅前のファミリーレストランです」
『そのまま待っていてください。管理局にはあたしから連絡します。1人で現場へ向かわないこと』
「施設の担当者として、現場の案内は必要だと思います」
『必要になれば同行してもらいます。それまでは動かないでください』
「分かりました」
返事をすると、榊原先生は念を押すようにもう一度「その場で」と言って通話を切った。画面が暗くなるのを待たず、白瀬さんが身を乗り出す。
「先生、なんて?」
「1人で行くな、と」
「それは、うちらも同じ意見やで」
白瀬さんが腕を組む。雨宮さんも小さく頷き、久世さんは管理局への報告を終えて端末を伏せた。
「相良さん。後輩の方は、現場へ入っていませんね」
「点検扉の前で止めました。警備にも連絡してもらっています」
「なら、今できることはありません」
「分かっています」
そう答えても、身体は落ち着かなかった。中央監視室で鳴っている警報音や、北側通路の冷えた空気が、店内にいながら頭の中へ浮かんでくる。
最初に47番が鳴った夜、俺は自分で現場へ向かった。設備管理員としては当然の行動だったが、その先に《ダンジョンの裏道》があるとは知らなかった。
今は異常が起きていると分かっている。だからこそ、誰かを近づけず、必要な相手へ連絡し、自分も勝手に動かない。それが、迷宮で覚えたばかりの判断だった。
しばらくして、店の前へ学校の車と管理局の車が到着した。学校の車から榊原先生が、後ろの管理局車両から調査員2人が降りてきた。1人は氷ノ川迷宮の報告室にいた男性職員で、もう1人は小型の測定ケースを持った女性職員だった。
「状況は?」
店を出た俺に、男性職員が尋ねる。女性職員は隣で測定ケースの留め具を確認していた。
「警報は継続中です。漏水は確認されていません。点検区画は封鎖し、誰も入れないようにしています」
「現場の構造を案内できますか」
「できます」
「では、相良さんには同行をお願いします。生徒3名は学校の車で送ります」
「うちらも行けへんの?」
白瀬さんがすぐに聞き返し、学校の車ではなく調査員たちの方へ一歩寄った。榊原先生は正面からその視線を受ける。
「行けません」
榊原先生が答えた。取りつく隙を残さない声だった。
「現場は商業施設の管理区域です。それに、さっき正体不明の空間異常から撤退したばかりでしょう」
「でも、小春なら何か感じるかもしれへん」
「だから連れていく、とはなりません。調査員が確認して、必要があると判断したら改めて手続きを取ります」
白瀬さんは唇を尖らせたが、今度は反論しなかった。雨宮さんが俺の右手へ視線を落とす。
「相良さん、無理をしないでください」
「現場を案内するだけです。中へ入るつもりはありません」
「相良さんの『つもり』は、少し心配です」
「今日は信用がありませんね」
「今日だけやないで」
白瀬さんが横から付け足し、久世さんが静かに息を吐いた。否定する者はいないらしい。
「相良さん」
「はい」
「異常を確認しても、調査員の指示に従ってください」
「分かりました」
3人が学校の車へ乗り込むのを見送ったあと、俺と榊原先生は調査員の車で彩乃宮モールへ向かった。車内では男性職員が管理局と連絡を取り続け、俺は施設の図面を端末へ表示して待った。
閉店後の館内へ従業員通用口から入ると、後輩と警備員が待っていた。後輩は俺の顔を見るなり、肩から力を抜いた。
「相良さん、すみません。休みなのに」
「連絡してくれて助かった。中には入ってないな?」
「はい。言われたとおり、点検扉の前で止めています。警報も触ってません」
「それでいい」
中央監視室で記録を確認すると、47番の数値は警報域へ上がったままだった。ほかの漏水センサーは正常で、周辺の配管圧力にも変化はない。
「最初の警報時も、同じ状態でしたか」
女性調査員が尋ねる。視線は中央監視室の画面から動かなかった。
「水がないのに、47番だけ反応していました。ただ、そのときは数値が少しずつ上がっていました」
「今回は?」
「発報した直後から、ほぼ一定です」
調査員は画面を撮影し、記録データを端末へ移した。男性職員が警備員へ、北側通路へ誰も近づけないよう改めて依頼する。
「現場へ向かいます。経路は相良さんに案内してもらいます。ただし、隊列では最後尾についてください」
「分かりました」
先頭に男性職員、その後ろに測定機器を持つ女性職員、榊原先生、俺の順で地下2階へ下りた。北側の業務用通路は、最初に落ちた夜と変わらない。白い照明、低く響く空調機の音、床へ並ぶ設備表示。違うのは、点検扉の手前に立入禁止の柵が置かれていることだけだった。
扉の前で、女性調査員が測定ケースを開く。温度、湿度、魔力濃度、距離を測る機器が順番に起動し、端末へ数値が並んだ。
「温度は周辺より2度低い。湿度に異常はありません」
「空間座標は?」
「現時点では正常です」
男性職員が俺を見る。片手には、点検扉の管理用鍵が握られていた。
「相良さん。最初に異常を確認したのは、この先ですね」
「はい。扉の奥、47番の検知帯がある点検区画です」
「開けます。相良さんは、ここから先へ入らないでください」
職員が管理用の鍵を差し込み、点検扉を開けた。冷たい空気が通路へ流れ出し、俺は思わず息を止める。
最初の夜にも、足を進めるほど湿った冷気が強くなっていた。けれど、今の空気には水の匂いがない。氷ノ川迷宮で感じた、乾いた冷たさに近かった。
調査員2人が点検区画へ入り、榊原先生は扉の前に立った。俺は指示どおり、柵の外から内部を見る。
配管に水滴はない。検知帯も乾いている。床や壁にヒビはなく、図面どおりなら3メートルほど先で区画は終わっている。
「47番、目視で異常なし」
「検知帯の導通値だけが上がっています。原因は確認できません」
「空間座標に変動。小さいですが、奥側です」
女性調査員の声が低くなる。端末の数値が揺れ、点検区画の奥から吹いた細い風に、扉の脇に下がる「立入禁止」の札がわずかに動いた。
「2人とも戻って」
榊原先生が即座に言った。調査員たちは反論せず、その場で測定を打ち切ると、機器を持ったまま後退した。
2人が扉を越えたところで、男性職員が扉を引き寄せた。その隙間が閉じる直前、床の奥へ黒い線が走った。
「待ってください。今、床に」
「見えました」
女性調査員も答えた。端末の警告音が短く鳴り、空間座標の表示が大きくずれる。
黒い線は、俺が最初に見たときと同じだった。亀裂ではない。線の内側だけ光が沈み、床の下ではないどこかへ続いている。
けれど、今回は広がらなかった。髪の毛ほどの細さを保ったまま数秒だけ残り、何もなかったように消える。冷たい風も止まり、端末の数値が正常域へ戻った。
「警報は?」
男性職員が無線で中央監視室へ確認する。もう片方の手は、閉めた扉の鍵から離していなかった。
『47番、復旧しました。数値は正常です』
「記録を保存してください。警報の手動復旧はしていませんね」
『触っていません』
「了解。この区画は引き続き封鎖します」
職員は点検扉を施錠し、さらに管理局の封印票を貼った。俺は黒い線の消えた場所を思いながら、閉ざされた扉を見つめた。
「今のは、《ダンジョンの裏道》ですか」
俺が尋ねると、男性職員はすぐには答えなかった。手元の測定記録を確認してから、慎重に口を開く。
「断定はできません。ただ、氷ノ川迷宮で観測された現象と近い反応です」
「モールと氷ノ川迷宮が、つながりかけている可能性は?」
「可能性は否定できません。ただし、同じ空間へつながっているとは断定できません」
慎重な答えだった。それでも、最初に落ちた夜の出来事が偶然ではなかったことだけは分かる。
47番の向こうには、今も何かがある。固定された通路ではなく、いつ、どこへ開くか分からない道が、商業施設の床下へ近づいているのかもしれない。
「相良さん」
榊原先生に呼ばれ、俺は点検扉から視線を外した。彼女はすでに、通路の出口側へ移動していた。
「入りたいとは思いませんでしたか」
「思わないと言えば嘘になります。でも、入りません」
「なら、それでいい」
榊原先生が頷く。報告室で撤退を評価したときと、同じ落ち着いた表情だった。
中央監視室へ戻ると、調査員たちは警報記録と測定結果を保存し、施設側へ封鎖継続の書類を渡した。北側点検区画は管理局との合同調査が終わるまで立入禁止となり、47番の監視は別系統の仮設センサーで行うことになった。
俺は後輩へ引き継ぎを説明し、異常が再発しても現場へ入らず、管理局へ連絡するよう念を押した。後輩は作業票へ連絡先を書き込みながら、何度も頷く。
「相良さんも、もう入らないでくださいよ」
「分かってる」
「前は、そのまま落ちたじゃないですか」
「あれは入ったというより、床に入れられたんだ」
「同じくらい心配です」
後輩の言葉に、榊原先生が小さく笑った。どうやら、俺への信用は職場でも同じらしい。
必要な確認を終え、従業員通用口から外へ出る。夜の風には迷宮のような冷たさはなく、駅前には仕事帰りの人や学生が行き交っていた。
スマートフォンを確認すると、踏査部のチャットグループへ3人からメッセージが届いている。送信時刻は少しずつ違ったが、全員が結果を待っていたらしい。
『雫です。現場の確認が終わったら、結果を報告してください』
『美玲やで。勝手に穴へ入ったらあかんからな』
『小春です。右手が震えたら、すぐ休んでください』
内容はそれぞれ違うのに、心配されている点だけは同じだった。俺は立ち止まり、チャットグループへ短く返信する。
『現場の確認は終わりました。誰も怪我をしていません。点検区画は管理局が封鎖しました。俺も中には入っていません』
送信して間もなく、白瀬さんから親指を立てた絵文字が返ってきた。続いて雨宮さんから安堵した顔が届き、最後に久世さんから「確認しました」と簡潔な返事が来る。
40歳になるまで、仕事の異常対応が終われば、同僚や上司へ報告してきた。結果を待ってくれる相手が、まったくいなかったわけではない。
ただ、俺には帰還を待つ仲間がいなかった。
今は、仕事場の床下で起きた異常まで、3人と榊原先生が一緒に気にしている。迷宮から帰ったあとも、部室を離れたあとも、俺たちのつながりは消えなかった。
47番の向こうで、また《裏道》が口を開こうとしている。それでも、次に道が開いたとき、俺はもう1人ではない。
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