第18話 迷宮帰りのファミレスへ
氷ノ川迷宮から戻り、俺たちは管理区域の報告室に集められていた。防具は外し、体温と脈拍の確認も終わっている。右手の震えは治まっていたが、霜牙犬の前脚を受けた腕には、まだ重いものを抱えたあとのような感覚が残っていた。
壁際のモニターには、調査班が撮影した氷壁の映像が映っている。俺と雨宮さんが異常を感じた場所には、白い氷と岩肌しかなかった。
「壁面を打診し、魔力走査も行いました。氷の厚さは最大18センチ。その奥は岩盤です」
管理局の男性職員が、調査結果を読み上げる。職員の指が端末を滑るたび、映像の氷壁へ測定値が追加されていった。
「管理水路、空洞、隠し通路はいずれも確認されていません。現在は空間異常を示す反応も消失しています」
「では、相良さんが見た道は、もうないんですか」
久世さんが尋ねる。視線はモニターの氷壁から動かなかった。
「少なくとも、調査班には確認できませんでした。ただし、異常がなかったとも断定できません」
職員が端末を操作すると、モニターに複数の波形が並んだ。
「調査班が現場へ到着し、測定を始めた直後、一部の数値に短時間の乱れが出ています。壁面温度と空間座標の測定値が同時にずれていました。機器は別系統なので、単純な故障とは考えにくいでしょう」
「道が現れて、すぐ消えたということですか」
「そこまでは分かりません。相良さん、もう1度、見えたものを説明してもらえますか」
俺はモニターの氷壁を指した。今は何も見えない場所へ、記憶に残る境界の位置をなぞる。
「壁の表面へ、別の通路の端が重なっていました。氷の奥に空洞が見えたわけではありません。そこだけ、壁とは違う場所につながりかけているように見えました」
「通路の全体は?」
「見えていません。入口になる前の縁だけ、という感じです」
説明しながら、最初に《裏道》へ落ちたとき、足元へ広がった黒い線を思い出す。あのときも、最初から穴があったわけではない。細い線が広がり、床そのものが消えた。
職員は記録を入力し、今度は雨宮さんを見る。雨宮さんは膝の上で両手を重ね、質問を待っていた。
「雨宮さんは、何を感じましたか」
「小春には、道が近づいてくる感じがしました」
「近づいてくる?」
「はい。壁の向こうにずっとあったものではなくて、遠くにある道が、急にすぐそばまで来たような……」
雨宮さんは胸元へ手を添え、言葉を探す。目には見えない感覚を説明する難しさが、途切れがちな声に表れていた。
「どこにあるかは見えません。でも、空間が狭くなって、別の場所と触れそうになると、胸の奥がざわざわします」
俺には境界の形が見え、雨宮さんには空間全体の変化が伝わる。似ているようで、捉えているものは少し違うらしい。
「相良さんと雨宮さんが、同時に異常を確認したことは重要です」
職員は表示を閉じた。暗くなった画面へ、報告室に座る俺たちの姿が薄く映る。
「固定された通路が壁の中に存在するのではなく、別の空間が一時的に接近した可能性があります。現段階では仮説ですが、《ダンジョンの裏道》に関連する現象として記録します」
「また調べに行くんですか」
白瀬さんが尋ねると、職員は迷いなく首を横に振った。
「上層区画の一部を封鎖し、観測機器を増設します。皆さんが再調査へ参加する予定はありません」
「相良のおっちゃんと小春にしか分からへんのに?」
「だからこそ、今すぐ皆さんを現場へ戻すことはできません。正体の分からない空間異常へ、学生と訓練員を近づける許可は出せません」
「……分かりました」
白瀬さんは不満そうだったが、それ以上は食い下がらなかった。隣に座る久世さんは、端末へ報告内容を入力している。異常を見つけても近づかず、管理局へ任せる。あの場で久世さんが下した判断を、今も全員で守っているのだろう。
報告が終わると、管理局の職員は榊原先生へ端末を渡した。管理局側の確認は終わり、今度は学校側の振り返りへ移るらしい。
「学校側の実地訓練記録については、こちらへお願いします」
「分かりました」
榊原先生が俺たち4人を見回す。報告を終えたからといって、表情はまだ緩んでいなかった。
「先に、今日の訓練について確認します。雫、指揮担当としてまとめて」
「事前に決めた役割は維持できました。ただ、右側へ回った個体への対応が遅れています。ほかにも見落としがあったので、全員の報告を整理して修正します」
「相良さんは?」
「久世さんの前へ出ず、左の個体を後ろへ通さないように動けました。《護界》も必要な範囲に抑えられたと思います」
「霜牙犬の攻撃を剣で受けたとき、床で滑りましたね」
「そこは白瀬さんからも減点されています」
「うちの採点、ちゃんと覚えとるやん」
「美玲の星は、学校の評価基準には含まれません」
榊原先生は端末へ視線を落とし、短く入力した。誰の失敗も曖昧にせず、誰か1人へ背負わせる様子もない。
「戦闘については、全員に改善点があります。詳しくは次の訓練で確認します」
「先生」
白瀬さんが、少しだけ声を落とす。先ほどまでの軽さが薄れ、指先が膝の上で重なった。
「途中で帰ってきたってことは、今日の実地訓練は失敗なん?」
「いいえ」
榊原先生は即答した。迷いのない声に、白瀬さんが顔を上げる。
「想定外の空間異常を発見し、雫が撤退を決め、全員が従った。隊列を崩さずに帰還し、異常の位置と状態も報告できています」
「では、合格ですか」
久世さんが確認する。指揮担当として、評価を言葉で確かめておきたいのだろう。
「実地訓練の目的は果たしています。少なくとも、異常を見つけたのに成果が欲しくて先へ進むような真似はしなかった」
榊原先生の視線が、最後に俺へ向いた。自分の番だと分かり、自然と背筋が伸びる。
「相良さんも、雫の指示を聞いてすぐ戻りましたね」
「はい」
「以前なら、せっかく見つけたのだから確かめたいと思ったかもしれません」
「少しは思いました」
氷壁へ重なった道を見た瞬間、あの先に何があるのか知りたい気持ちはあった。それでも、俺は久世さんの指示を聞き、氷壁から視線を外した。
「でも、1人で確かめる場面ではありませんでした」
「その判断を忘れないでください」
「分かりました」
「撤退は失敗ではありません。全員で帰り、次に必要な情報を残すところまでが実地訓練です」
管理局で初めて会った日にも、榊原先生は「生きて帰って、明日も学校へ来い」と教えていた。今回は誰も大きな怪我をせず、4人で戻ってきた。その事実を、ようやく素直に成果として受け取れた。
報告室を出た頃には、外はすっかり暗くなっていた。管理区域の待合スペースで荷物をまとめていると、白瀬さんが自分の腹へ手を当てる。
「なあ、反省会せえへん?」
「報告は、今終わったでしょう」
久世さんが答える。端末を鞄へ収める手は止めなかった。
「雫ちゃん、反省会いうても、ご飯食べる方や」
「それは反省会ではありません」
「ほな、お疲れ会」
「名前を変えただけです」
「小春、お腹空きました」
雨宮さんが小さく手を挙げた。久世さんは反論しかけ、雨宮さんの顔を見る。少し考えてから、榊原先生へ視線を向けた。
「食事へ行っても構いませんか」
「健康確認は終わっていますし、明日の授業に響かない時間なら構いません」
榊原先生は俺を見る。やはり俺にだけ、酒についての注意まで追加された。
「相良さんも、帰宅後に頭痛や手の震えが出た場合は連絡してください。酒は飲まないこと」
「高校生とファミレスへ行って、1人で酒を飲むほど自由ではありませんよ」
「相良のおっちゃん、飲みたいん?」
「白瀬さん。話を広げないでください」
俺たちは学校の車で駅前まで送ってもらい、前にも来た駅前のファミリーレストランへ入った。約束していた「迷宮から帰ってきたあとの食事」が、思っていたより早く実現した。
店員に4人席へ案内される。白瀬さんは前回と同じように奥へ入り、隣の座席を軽く叩いた。
「相良のおっちゃん、今日はこっちな」
「前回もそこへ座りましたよ」
「今日は逃げへんの?」
「最初から逃げていません」
結局、座る位置まで前回と同じになった。前に来たときは、これから迷宮へ入るための作戦会議を終えたところだった。今日は4人で迷宮へ入り、4人で帰ってきたあとに同じメニューを開いている。たったそれだけの違いなのに、席へ腰を下ろしたときの落ち着き方が前とは違っていた。
「相良さん、腕は痛くありませんか」
雨宮さんがメニューを開く前に尋ねた。視線は俺の顔より先に、霜牙犬の攻撃を受けた右腕へ向いている。
「少し重いですが、怪我はありません」
「右手を見せてください」
「ここでも確認するんですか」
「管理局では問題ありませんでしたけど、念のためです」
右手をテーブルの上へ出すと、雨宮さんが向かい側から身を乗り出した。俺の指先を見てから手首へ指を添え、脈を確かめる。
「震えていません。脈も落ち着いています」
「疑われていましたか」
「相良さんは、大丈夫と言ってから無理をすることがあるので」
「今日は自分から休憩しましたよ」
「はい。だから、少し安心しました」
雨宮さんが手を離し、柔らかく笑う。その横では、白瀬さんが頬杖をつきながら一部始終を眺めていた。
「小春、迷宮の中より診察が丁寧になっとらん?」
「迷宮のあとだからだよ」
「俺もそう思います」
「相良さんまで」
雨宮さんは少し困ったようにメニューへ視線を落とした。注文は、白瀬さんがチーズハンバーグと山盛りポテト、雨宮さんがオムライスと温かいスープ、久世さんが和風ハンバーグ。俺は前回と違い、グリルチキンのセットを選んだ。
「今日は焼き魚ちゃうんやな」
「迷宮で動いたら、さすがに肉が食べたくなりました」
「相良のおっちゃんにも、そういう日あるんや」
「普段、何を食べて生きていると思われているんですか」
「羊羹と焼き魚」
「偏りすぎでしょう」
料理が届くと、白瀬さんは最初にポテトを1本つまんだ。ハンバーグへ手をつけるより先に、こちらへ身を乗り出す。
「相良のおっちゃん、戦闘中に言うたやろ。『白瀬さん、右をお願いします』って」
「言いましたね」
「うちなら止められると思ったん?」
「はい。右側は白瀬さんに任せた方がいいと判断しました」
白瀬さんの手が止まった。つまんでいたポテトが、皿の上へ戻される。
「……そういうの、もっと言うてくれてええで」
「戦闘中にですか」
「普段でもええけど」
「美玲。相良さんを困らせないで」
白瀬さんは一度だけ視線を泳がせた。
「なんや。信用されたんが嬉しかっただけや」
白瀬さんはポテトを口へ入れ、誤魔化すように頬を膨らませた。耳が少し赤く見えたが、店内の照明のせいかもしれない。
「でも、評価は星4つのままやからな」
「そこは上がらないんですか」
「最初に滑った分は消えへん」
「厳しいですね」
「次は4つ半を目指してな」
「最初から満点をくれないんですね」
「伸びしろを残しとるんや」
雨宮さんが小さく笑い、久世さんも口元を緩めた。食事が半分ほど進んだところで、久世さんが箸を置く。
「相良さん」
「はい」
「左の霜牙犬を追わず、後衛へ戻った判断は適切でした。あのまま追っていれば、美玲の射線を塞ぎ、小春の前も空いていました」
「迷宮の中でも同じことを言ってくれましたね」
「そのときは、戦闘直後だったので」
久世さんは少し言葉を選ぶ。迷宮の中で伝えきれなかったことを、改めて整理しているようだった。
「改めて伝えておきます。失敗した訓練を、実戦で直せる人ばかりではありません」
「何度も床の線に負けた甲斐がありました」
「負けたままで終わらなかった、という話です」
「はい」
「今日の相良さんは、きちんと4人目でした」
その言葉は、実地訓練の成果を認められたときよりも、静かに胸へ入ってきた。神剣を持ったから仲間になれたわけではない。先頭を奪わず、必要な場所へ動き、3人の役割を邪魔しなかった。それでようやく、4人の中へ立てたのだと思う。
「久世さんの採点では、星はいくつですか」
「星?」
「白瀬さんの評価基準です」
「雫ちゃんまで採点せんでええねん」
「美玲が始めたんでしょう」
久世さんは真面目に考え始めた。冗談として流さないところが、いかにも彼女らしい。
「戦闘だけなら、3つ半です」
「白瀬さんより厳しい」
「撤退と報告まで含めれば、4つです」
「同じやん」
「ただし、次回までに足元の改善が必要です」
「結局、滑ったところへ戻るんですね」
3人が笑う。その輪の中で、自分も自然に笑っていることへ少し遅れて気づいた。
仕事で設備の故障へ対応したあとは、中央監視室へ戻って報告書を書く。復旧できれば安心はするが、仲間と食事へ行って、あの場で何ができたかを話し合うことはほとんどなかった。
子供の頃に思い描いていた冒険には、剣を振る場面や魔物を倒す場面ばかりがあった。迷宮から帰ったあと、同じ卓を囲み、誰が何をできたのか笑いながら振り返る時間までは考えたことがない。
「相良のおっちゃん、何にやにやしとるん?」
「していませんよ」
「しとったで」
「食後のデザートを考えていただけです」
「ほな、今日はおっちゃんが選んで」
「前回のようなことはしませんからね」
「前回のようなことって、なんやろなあ」
白瀬さんが楽しそうに笑い、雨宮さんもメニューの陰で笑っている。久世さんは何も言わず、静かに水を飲んだ。
俺が無難なミニパフェを選ぼうとしたところで、テーブルの上に置いたスマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、彩乃宮モールの後輩の名前だった。
「すみません。職場からです」
3人へ断り、通話ボタンを押す。笑っていた3人も、俺の声が仕事用へ変わったことに気づいて静かになった。
「もしもし。どうした?」
『相良さん、お休みのところすみません。ちょっと確認したいことがあって』
後輩の声の向こうから、中央監視室の警報音が聞こえた。聞き慣れた電子音のはずなのに、今日は氷壁の冷気まで一緒によみがえる。
「警報か?」
『はい。地下2階北側で、また漏水警報が出ています。現場を見たんですけど、水は出てなくて』
手の中で、スマートフォンが急に重くなった。
「センサー番号は?」
短い沈黙のあと、後輩が答えた。
『47番です』
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