第17話 40歳、二度目の迷宮へ
金曜日の午後、俺は迷宮へ入るために休暇を取った。
10年前の俺が聞けば、きっと羨ましがるだろう。初めての実地訓練へ仕事の疲れを持ち込まないためという、かなり現実的な理由ではあったが、朝から落ち着かなかったことまでは否定できない。
授業が終わる少し前に彩乃宮第一高校へ着き、迷宮踏査部室で支給された防具を身につける。胸当てと籠手、膝当てを順番に装着していると、白瀬さんが俺の荷物を覗き込んだ。
「相良のおっちゃん、その工具鞄も持っていくん?」
「何か壊れているかもしれないでしょう」
「迷宮を修理する気なん?」
「直せるものなら」
「置いていってください」
久世さんが装備確認表から顔も上げずに言った。
「即答ですね」
「今回の訓練には必要ありません。荷物が増えれば、移動の邪魔になります」
「小型ライトと養生テープくらいは」
「榊原先生の許可を取ってください」
「では、あたしが確認します」
部室の入口に立っていた榊原先生が、差し出した道具を一つずつ確かめる。
「小型ライトと養生テープは許可します。簡易工具も、この大きさなら構いません。ただし、設備を見つけても勝手に分解しないこと」
「迷宮の設備を勝手に触るほど命知らずではありません」
「初めて持った剣で大型魔物の前へ出た人の言葉は、少し割り引いて聞きます」
「それを言われると弱いですね」
許可された道具を腰のポーチへ収めると、雨宮さんが調整式のサポーターを差し出した。
「相良さん、これも着けてください」
「本当に持ってきたんですか」
「痛くなってからでは遅いので」
「まだ迷宮へ入ってもいませんよ」
「だから、今のうちです」
雨宮さんは引く気がないらしい。俺は観念して受け取り、トレーニングウェアの上から腰へ巻いた。
「苦しくないですか」
「思ったより動きやすいです」
「よかったです。違和感があったら、すぐ言ってください」
「腰の守りだけ、妙に手厚いな」
「美玲ちゃん、笑い事じゃないよ」
「分かってるって。ほら、おっちゃんにはこっちもあるで」
白瀬さんが差し出したのは、個包装の羊羹だった。
「本当に羊羹なんですね」
「作戦会議で決めたやろ」
「俺の同意はなかった気がします」
「食べたら元気出るから、持っとき」
受け取ってポーチへ入れる。工具を減らしたはずなのに、腰回りだけは妙に充実していた。
久世さんは最後に俺の胸当ての留め具と剣帯を確認し、装備表へ印をつけた。
「八重垣剣は、移動中は鞘へ収めたままにしてください。抜くのは戦闘時か、わたしが指示した場合だけです」
「分かりました」
「基本位置は、わたしの斜め後ろです。前へ出るときも、後ろへ戻るときも声を出してください」
「了解です、久世先輩」
「今日は久世さんで構いません」
「ちょっと残念そうやな、雫ちゃん」
「美玲。装備確認を続けて」
久世さんは平静を装っていたが、耳が少しだけ赤い。指摘すれば話が長くなりそうなので、気づかなかったことにした。
準備を終えると、榊原先生が俺たち4人を部室の中央へ並ばせた。
「指揮は雫。相良さんは年齢に関係なく、雫の判断に従ってください」
「はい」
「滞在時間は最大2時間。指定ルートから外れない。想定外の魔物、経路の閉塞、空間異常の感知、誰か1人でも行動継続が困難になった場合は撤退します」
榊原先生の視線が、俺の右手へ移る。
「相良さんは、頭痛、視界の明滅、手の震えが出た時点で《護界》を解除してください。《断境》は緊急時以外、使用禁止です」
「分かりました」
「まだ動ける、は中止しない理由になりません」
「肝に銘じます」
「それと、年長者だからと雫より前へ出ようとしないこと」
「基本位置は斜め後ろでしたね」
「覚えているなら、行動でも守ってください」
返事をした俺の横で、白瀬さんが小さく笑った。
「相良のおっちゃん、先生からの注意だけ多いな」
「新人ですから」
「自覚あるなら大丈夫や」
「白瀬さんに言われると、少し不安になります」
「なんでやねん」
学校の車で移動し、氷ノ川迷宮の管理区域へ到着したのは、夕方4時を少し回った頃だった。
正規入口の前には金属製のゲートが並び、踏査士や職員が許可証を端末へ通している。壁の案内板には、上層区画の気温と魔物の出現状況、現在封鎖されている経路が表示されていた。
前回の俺は、作業着姿で《ダンジョンの裏道》へ落ち、帰る道も分からないまま氷の通路へ放り出された。
今日は入口を知っている。退路も地図で確認してある。俺の前には久世さんがいて、後ろには白瀬さんと雨宮さんがいる。
同じ迷宮なのに、まるで別の場所に見えた。
「相良のおっちゃん、顔が硬いで」
「前回は魔物に追い回された場所ですから」
「今日はうちらがおるやろ」
「頼もしい台詞ですね」
「もっと褒めてもええで」
「美玲ちゃん、声が大きいよ」
雨宮さんが周囲を気にしながら袖を引くと、白瀬さんは素直に声を落とした。
「小春も、変な感じがしたらすぐ伝えます」
「お願いします。俺も《界視》で見えたことは共有します」
「2人だけで分かったつもりにならないでください」
先頭の久世さんが振り返る。
「情報は全部、言葉にしてください。全員で共有した上で、最終判断はわたしがします」
「はい」
「了解や」
「小春も分かりました」
榊原先生は俺たちから数歩離れた後方についた。
「あたしは監督として同行します。ただし、すぐ助けてもらえると思わないこと。危険になる前に、自分たちで中止を判断してください」
「分かりました」
ゲートが開き、冷気が流れ込んでくる。
久世さんを先頭に、俺たちは氷ノ川迷宮へ入った。
上層の通路は、前回通った場所より広く整備されていた。石床には滑り止めの板が敷かれ、壁には一定間隔で管理局の誘導灯が取りつけられている。それでも、壁面を覆う氷と水路から立ち上る冷気は、あの日の感覚を嫌でも思い出させた。
八重垣剣を鞘に収めたまま腰元で支え、久世さんの斜め後ろを歩く。白瀬さんは俺の右後方、雨宮さんは中央寄りで周囲へ意識を向けていた。
最初の分岐を越えたところで、視界の端に細い線が浮かんだ。
「久世さん。右側の氷壁に境目が見えます」
「危険ですか」
「まだ分かりません。壁の奥に空洞があるだけかもしれません」
「小春はどう?」
「嫌な感じはしません。壁の向こうから水が流れる音がします」
久世さんは端末の地図と氷壁を見比べ、位置を記録した。
「管理用の水路でしょう。指定ルートには影響しません。このまま進みます」
「確認しなくていいんですか」
「確認する必要がありません」
短く答え、久世さんは歩き出した。
見つけたからといって、俺が確かめに行く必要はない。情報を伝え、必要がなければ触れずに進む。それも4人で動くということだった。
さらに進むと、雨宮さんが足を止めた。
「前に3つ、動いています」
「距離は?」
「曲がり角の向こうです。こっちへ来ます」
久世さんが片手を上げ、全員を停止させる。
「戦闘準備。美玲は右へ。小春は後方確認。相良さんは、わたしの斜め後ろを維持してください」
「了解です」
鞘を剣帯から外し、周囲を確認してから八重垣剣を抜く。白銀の剣身へ迷宮の青白い光が映り、《神剣同調》が腰と脚を支えた。
曲がり角から現れたのは、灰色の毛皮を氷で覆った犬型の魔物だった。大型犬ほどの身体を低く伏せ、床へ爪を立てている。その後ろから、同じ魔物が2体続いた。
「《霜牙犬》が3体。上層で確認される魔物です」
久世さんは剣を正面へ構える。
「正面はわたしが止めます。左右へ回る個体を見てください」
「はい」
先頭の《霜牙犬》が床を蹴った。
久世さんは正面から受けず、半歩外へずれて爪の軌道を流す。細身の剣が魔物の肩を浅く切り、氷の欠片が床へ散った。
俺は《護界》を広げかけ、手を止める。久世さんが対処できる攻撃だ。俺が壁を出せば、彼女の次の動きを邪魔する。
残る2体が左右へ分かれた。右へ回った個体へ白瀬さんが矢を放ち、左の1体が俺たちの側面へ走り込んでくる。
「相良さん、左です!」
雨宮さんの声を受け、俺は半歩下がって進路へ入った。
「動きます!」
声を出し、八重垣剣を両手で構える。
訓練で何度も繰り返した。敵を追いかけてから剣を振るのではない。通らせたくない場所へ、先に立つ。
《霜牙犬》は速度を落とさず、こちらへ飛びかかってきた。
白銀の剣身を斜めに置き、氷に覆われた前脚を受ける。硬い衝撃が腕から肩へ抜け、靴底が石床を滑った。
「ぐっ……!」
身体は倒れなかった。《神剣同調》が腰と膝を支えている。それでも、想像していたより重い。
「相良のおっちゃん、そのまま!」
白瀬さんの矢が俺の肩越しを通り、《霜牙犬》の前脚へ突き刺さった。魔物の体勢が崩れ、剣へかかっていた重さが抜ける。
視界に、前脚を覆う氷と毛皮の境目が浮かんだ。
《断境》は使わない。
俺は1歩踏み込み、見えた線へ普通の斬撃を合わせた。八重垣剣が氷の装甲を砕き、《霜牙犬》の前脚へ浅い傷を刻む。
魔物が甲高く吠え、俺の横を抜けようと身体を捻った。
追いかけて斬るより、先に戻る。
「下がります!」
白瀬さんと雨宮さんの前まで後退し、左手を向けた。
「第一界、《護界》!」
人ひとり分ほどの光の壁が立ち上がる。
《霜牙犬》が正面からぶつかり、境界の表面が大きく揺れた。頭の奥へ軽い圧迫感が伝わるが、視界の明滅も手の震えもない。展開した《護界》を維持したまま、俺は八重垣剣を両手で構え直す。
その右側で、白瀬さんが止めた右の個体が立ち上がった。肩へ矢を受けたまま進路を変え、雨宮さんへ向かう。
「右も来ます!」
雨宮さんの声に、俺は《護界》を広げかけた。
だが、2体をまとめて囲えば、白瀬さんの射線まで塞ぐ。
「白瀬さん、右をお願いします!」
「任せて!」
白瀬さんが続けて矢を放つ。矢は魔物の前脚へ当たり、踏み込みを崩した。
「小春、下がって!」
「うん!」
雨宮さんが壁際へ退く。倒れ込みながらも進もうとした《霜牙犬》の前へ、久世さんが滑り込んだ。
正面の1体を斬り伏せた勢いのまま、細身の剣が魔物の首元へ走る。氷の装甲が割れ、灰色の身体が床へ崩れた。
俺の《護界》へぶつかっていた左の個体が、光の壁を蹴って横へ跳ぶ。
「相良さん、左!」
雨宮さんの声で振り向く。
魔物は俺の脇を抜けるつもりだった。追うのではなく、その先へ剣を置く。
踏み込み、八重垣剣を横へ薙ぐ。
白銀の刃が、先ほど砕いた氷の隙間へ入った。魔物の身体が空中で大きく傾き、そのまま石床へ叩きつけられる。
すぐには起き上がらない。
「久世さん!」
「そのまま距離を取ってください!」
俺は倒れた魔物へ近づかず、八重垣剣を構えたまま後退する。久世さんが前へ出て、首元へ剣を振り下ろした。
魔物の身体から力が抜け、通路へ静けさが戻った。
「戦闘終了。周囲を確認してください」
久世さんの声に従い、俺は《護界》を解除した。
八重垣剣を構えたまま左右へ視線を向ける。新しい反応はない。雨宮さんも目を閉じて感知を続け、やがて小さく頷いた。
「ほかにはいません」
久世さんが後方へ振り返る。
「榊原先生、戦闘終了を確認しました」
「全員、その場で状態を報告してください」
久世さんに続き、白瀬さんと雨宮さんが答える。
「負傷なし。魔力消耗も問題ありません」
「うちも大丈夫や」
「小春も怪我はありません」
「相良さんは?」
「怪我はありません。頭痛も、視界の異常もないです」
「手を見せてください」
雨宮さんがすぐに近づき、八重垣剣を握る俺の右手を覗き込んだ。
「少し震えています」
「さっきの衝撃が残っているだけだと思います。ですが、休憩します」
「はい。小春も脈を確認します」
雨宮さんは、ほっとしたように頷いた。
俺が久世さんを見ると、彼女も頷く。
「5分休憩します。相良さんは八重垣剣を消してください」
「分かりました」
剣を消し、壁際へ腰を下ろす。
雨宮さんが脈を確認している間に、白瀬さんが俺の前へしゃがみ込んだ。
「4人での初戦、星4つやな」
「また星をつけるんですか」
「1個足りへんのは、最初に滑った分」
「見ていましたか」
「全員見とったで」
「久世さん。後衛へ戻った判断はどうでした?」
「よかったです」
久世さんは倒れた魔物を確認しながら答えた。
「相良さんが追っていれば、美玲の射線を塞ぎ、小春の前も空いていました」
「剣で倒しきれなかったことは?」
「倒すことが、相良さんの役割ではありません」
「褒められているんでしょうか」
「褒めています」
真面目な顔で言われ、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。
魔物を一人で倒したわけではない。久世さんが正面を止め、雨宮さんが側面の敵を見つけ、白瀬さんの矢が動きを崩した。俺は剣と《護界》で、その敵を後ろへ通さなかった。
訓練で決めた役割が、迷宮でも形になった。
5分後、手の震えが治まったことを雨宮さんに確認してもらい、俺たちは探索を再開した。
指定ルートを少し進んだところで、俺と雨宮さんが同時に足を止める。
通路脇の氷壁に、壁や床とは違う細い境界が見えた。氷壁の表面へ、別の道の端だけが重なっている。
「相良さん」
「雨宮さんも感じましたか」
「はい。少しだけ、道が近いです」
雨宮さんの表現は曖昧だったが、何を指しているのかは分かった。
《ダンジョンの裏道》に似た気配だ。
久世さんは端末へ位置を記録し、すぐに判断した。
「空間異常を確認しました。訓練を中止して、来た道を戻ります」
「了解です。」
前にここへ来たとき、道は俺を勝手に呑み込み、どこへ向かうのかも選ばせてくれなかった。
今は違う。見えたものを4人で確かめ、引き返す道を選べる。
俺たちは隊列を崩さず、正規入口まで戻った。
管理区域へ帰還すると、久世さんが職員へ異常を報告する。座標と見え方を伝え、俺も《界視》で確認した境界の形を説明した。
職員は端末へ入力し、上層区画の図面を開く。
「この位置で間違いありませんか」
「はい」
「ですが、ここには管理水路も空洞もありません。壁の向こうは岩盤です」
画面の地図には、俺たちが見たはずの道が存在していなかった。
背中に、迷宮の冷気とは違う寒さが走る。
俺たちが見た道は、本来なら存在しないものだった。
また別の《裏道》が、氷ノ川迷宮へ口を開こうとしていた。
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