第16話 40歳、放課後のファミレスへ
それから2週間、俺は仕事の都合がつく日に彩乃宮第一高校へ通った。
歩法、素振り、位置取り、《護界》の展開と解除。最初の頃ほど床の線を越えることはなくなり、全員をまとめて光の壁へ閉じ込める失敗も減った。
もっとも、久世さんの動きについていけるようになったわけではない。40歳の身体は訓練には慣れても、17歳には戻らなかった。
「今日は、ここまでです」
榊原先生の声で、《護界》を解除する。
頭痛も、指の震えもない。呼吸を整えて八重垣剣を消すと、雨宮さんがすぐに体調記録用の端末へ視線を落とした。
「脈拍、大丈夫です。顔色も悪くありません」
「ありがとうございます」
「右肩は痛くないですか」
「今のところは」
「腰は?」
「雨宮さん、確認が細かくなってませんか」
「相良さんは、大丈夫って言ってから痛くなるので」
反論できなかった。
壁際の机では、久世さんが俺の訓練記録を書き込んでいる。その横から白瀬さんが覗き込み、勝手に赤いペンを走らせた。
「今日の壁係、星3つやな」
「白瀬さん、評価欄へ勝手に書かないでください」
「先生の字ばっかりやと堅いやろ」
「訓練記録は堅くていいんです」
「小春は、星4つでもいいと思います」
「雨宮さんまで乗らないでください」
俺が言うと、雨宮さんは少しだけ笑った。
最初の頃は、俺の体調を確認するときも遠慮がちだった。今では手の震えや歩き方まで遠慮なく見られている。ありがたいが、少し気恥ずかしい。
「遊んでいるところ悪いけど、今日はこのあと部室へ集合してください」
榊原先生が端末を閉じた。
「管理局から、相良さんを含む4人編成での実地訓練について回答が来ました」
白瀬さんの手が止まる。
「通ったん?」
「条件付きでね」
訓練棟を片づけ、俺たちは迷宮踏査部室へ移動した。机の上には、氷ノ川迷宮上層の地図と行動計画書、装備確認表が並べられている。
地図には何枚もの付箋が貼られ、危険箇所や休憩地点が細かく書き込まれていた。
「ずいぶん準備しましたね」
俺が言うと、久世さんは地図の端を揃えながら答えた。
「初めて4人で入るので、確認しておくべきことが多いんです」
「昨日の夜も地図の写真送ってきたで」
「美玲」
「『こっちの経路の方が退路を確保しやすいと思う』って。寝る直前に」
「確認は必要です」
「雫ちゃん、楽しみすぎて寝られへんかったんちゃう?」
「違います」
久世さんは即座に否定したが、地図の付箋が1枚だけ少し曲がった。
榊原先生が咳払いをする。
「話を戻します。許可されたのは、氷ノ川迷宮上層の訓練区画です。滞在時間は最大2時間。指定ルートから外れないこと。《断境》は緊急時を除いて使用禁止。《護界》も、頭痛や視界の異常が出た時点で中止します」
「はい」
「相良さんは前衛補助です。基本位置は、久世さんの斜め後ろ。久世さんを抜けてきた攻撃は《護界》で防ぎ、側面から回り込む敵は剣で進路を塞いでください」
「後衛へ敵が抜けた場合は?」
「美玲と小春の前まで下がり、《護界》で食い止めてもらいます」
「前へ出たり、後ろへ戻ったりするんですね」
「だから、周囲を見て立つ場所を選ぶ必要があります」
「壁係ではないんですか」
「正式な計画書へ壁係とは書けません」
「分かりやすいのにな」
「美玲」
久世さんが低い声でたしなめる。
白瀬さんは肩をすくめ、机の端に置かれた装備確認表へ目を移した。
「非常食、うちがまとめて持つわ。チョコ、飴、グミ、塩タブレット」
「多くありませんか」
「遭難したとき用や」
「半分は白瀬さんが食べる用でしょう」
「遭難する前にお腹減るかもしれへんやん」
白瀬さんは悪びれず、個包装の羊羹を俺の欄へ置いた。
「相良のおっちゃんは羊羹な」
「どうして俺だけ渋いんですか」
「年上は羊羹好きやろ」
「年代別に非常食を決めないでください」
隣では、雨宮さんが救急用品を机へ並べていた。
包帯、消毒剤、回復薬、冷却材、固定用の布。さらに調整式の腰用サポーターまである。
「雨宮さん。最後のは俺専用では?」
「でも、相良さんは腰が……」
「日帰りの訓練ですよね」
「途中で動けなくなったら困ります」
「そこまで信用がありませんか」
「信用しているから、準備しておきたいんです」
真顔で返され、何も言えなくなる。
雨宮さんは少し遅れて、自分の言葉が恥ずかしくなったらしい。視線を救急用品へ落とした。
「もちろん、みんなの分もあります」
「分かっています。ありがとうございます」
久世さんは装備表の確認を終えると、改めて4人の配置を地図上で示した。
「相良さんは、《界視》で異常を見つけても、確認のために1人で隊列を離れないでください。まず共有を」
「分かりました」
「退路が変化して見えた場合も同じです。小春の感知と照合してから判断します」
「小春も、すぐに伝えます」
「美玲は射線管理を徹底してください。相良さんも、美玲の射線へ入らないよう注意を」
「それ、相良のおっちゃんへの注意やろ」
「2人ともです」
計画の説明が終わる頃には、窓の外が薄暗くなっていた。
榊原先生が書類をまとめる。
「今日はここまで。次回の集合時刻に遅れないこと。装備は前日にもう一度確認してください」
「先生、このあとみんなで晩ご飯食べて帰ってええ?」
白瀬さんが唐突に手を挙げた。
「急ですね」
「初めての4人作戦会議、終了記念や」
「まだ迷宮へ入ってもいません」
「せやから前祝い」
久世さんは地図へ視線を落とす。
「帰って装備を再確認したいので」
「雫ちゃん、もう3回確認したやろ」
「4回目で見つかる不備もあります」
「小春は、みんなで食べたいです」
雨宮さんが控えめに言った。
久世さんは少し黙り、やがて地図を畳んだ。
「……では、1時間だけ」
「決まりや!」
白瀬さんが嬉しそうに両手を上げる。
榊原先生は止めなかった。
「翌日の授業に響かないなら構いません。ただし、相良さん」
「はい」
「実地訓練では、年長者だからと自分が3人を率いようとしないこと」
「俺が一番年上なんですが」
「一番迷宮経験が浅いでしょう」
「……その通りです」
学校を出た俺たちは、駅前のファミリーレストランへ入った。
制服姿の3人と一緒に案内されるだけで、店員の視線が一瞬こちらへ向いた気がする。考えすぎだと思いたい。
4人席へ着くと、白瀬さんが先に奥へ入り、隣の座席を軽く叩いた。
「相良のおっちゃん、こっち」
「俺は通路側で」
「逃げる気やな」
「注文を取りやすい席を選んでいるだけです」
結局、俺と久世さんが通路側、白瀬さんと雨宮さんが奥へ座った。
メニューを開くと、3人の表情が作戦会議のときより真剣になる。
「チーズハンバーグか、明太クリームパスタか……」
「美玲、さっき非常食をあれだけ持つと言っていたでしょう」
「それとこれは別腹や」
「まだ本体も食べていませんよ」
「先にデザート決めな、本体の量が決められへんねん」
白瀬さんはパフェのページを開いたまま動かない。
雨宮さんも同じ頁を見ているが、自分からは何も言わなかった。
「小春、これ半分こしよ」
「でも、美玲ちゃんが食べたいなら」
「ハンバーグもパフェも食べたいねん。半分手伝って」
「それ、半分こする意味ありますか」
「気持ちの問題や」
久世さんは和風ハンバーグ、白瀬さんはチーズハンバーグとパフェ、雨宮さんはオムライス、俺は焼き魚の定食を選んだ。
「相良のおっちゃん、ほんまに渋いな」
「羊羹を割り当てた人に言われたくありません」
料理が届くと、3人は部室にいるときより肩の力を抜いていた。
白瀬さんはチーズを伸ばしては楽しそうに笑い、雨宮さんはオムライスの卵を崩すのに少し迷っている。久世さんは食べながらも、時々スマートフォンに保存した地図を確認していた。
「久世さん、食事中くらい地図を閉じませんか」
「確認しているだけです」
「雫ちゃん、さっき1時間だけって言うたのに、一番帰る気ないやろ」
「そんなことはありません」
そう言いながら、久世さんはスマートフォンを伏せた。
「相良のおっちゃん、高校のとき何部やったん?」
白瀬さんが聞く。
「帰宅部です」
「最速で家に帰る部?」
「活動内容は、だいたい合ってます」
「なら今が初部活やん」
「俺は正式な部員ではありませんよ」
「制度上は重要です」
久世さんがすぐに訂正した。
「そこは今、白瀬さん側へついてあげてもいいでしょう」
「事実なので」
雨宮さんが小さく笑う。
「でも、相良さんの席はあります」
部室に増やされた椅子を思い出す。
高校時代の俺は、授業が終わればそのまま家へ帰っていた。部活仲間と作戦を立て、その帰りに夕食を囲む。そんな時間を、40歳になって初めて経験している。
注文していたパフェが運ばれてくると、白瀬さんの表情がさらに明るくなった。
「でかっ。これにして正解やったな」
「食べ切れるんですか」
「小春と半分こするから平気や」
白瀬さんは上に載ったアイスをすくい、雨宮さんへ差し出した。
「はい、小春」
「自分で食べられるよ」
「ええやん。あーん」
「……あーん」
雨宮さんは少し恥ずかしそうに口を開き、アイスを受け取った。
「おいしい?」
「うん。冷たいけど、おいしい」
その様子を見ていた久世さんへ、白瀬さんがスプーンを向ける。
「雫ちゃんも食べる?」
「いりません」
「さっきから見てたやん」
「大きさを確認していただけです」
「何の確認やねん」
白瀬さんが差し出したまま待っていると、久世さんは周囲を一度見た。それから観念したように、ほんの少しだけ口を開く。
「一口だけです」
「はい、あーん」
「……甘いです」
「パフェやからな」
久世さんは平静を装っているが、頬が少しだけ赤かった。
白瀬さんは満足そうに笑い、今度はこちらへスプーンを向けた。
「相良のおっちゃんも食べる?」
「少しならいただきます」
「ほな、はい。あーん」
差し出されたスプーンを見て、俺の動きが止まった。
「……自分で持ちます」
「なんでや。ここまで持ってきたったのに」
「そういう問題ではなくてですね」
「ほら、溶けるで」
白瀬さんは楽しそうに笑いながら、逃がす気のない角度でスプーンを近づけてくる。
「美玲」
久世さんの低い声が飛んだ。
「なんや、雫ちゃんもやりたいん?」
「そういう話ではありません」
「小春も……少し見てみたいです」
「雨宮さんまで乗らないでください」
3人の視線が集まる。
店内でこれ以上やり取りを続ける方が目立つ。俺は諦めて、差し出されたスプーンへ口を開いた。
「はい、あーん」
冷たい甘さが舌に広がる。味を確かめる余裕は、ほとんどなかった。
「どう?」
「……甘いですね」
「感想それだけ?」
「状況の方が濃すぎるんですよ」
白瀬さんは声を抑えながら笑い、雨宮さんも口元へ手を当てている。
久世さんだけは真面目な顔を保っていたが、こちらと目が合うと視線を逸らした。
食事を終え、会計では俺がまとめて払おうとした。
「各自で払います」
久世さんが即座に止める。
「でも、俺が一番年上ですし」
「年上という理由で、毎回負担させるつもりはありません」
「うちら、相良のおっちゃんより年下やけど、娘ちゃうで」
「分かっています」
少し揉めた末、俺は4人分のドリンクバーだけを出すことになった。
「なんでそこだけなん?」
「40歳にも、少しは年長者らしいことをさせてください」
「ほな、次はデザートな」
「次もある前提なんですね」
店を出ると、駅前はすっかり夜になっていた。
街灯の下を制服姿の3人が並んで歩く。これから迷宮へ入る4人だが、今はただ、夕食を食べて帰る途中だった。
「次は迷宮から帰ってきたあとに、また食べに来よな」
白瀬さんが振り返る。
「帰還後は先に報告と健康確認です」
「終わってからでええやん」
「それなら構いません」
雨宮さんも頷く。
「4人で、また来たいです」
自分も、その4人に含まれている。
迷宮へ入る許可が下りたことよりも、次の夕食の約束をしたことの方が、妙に胸へ残った。
10代の頃に思い描いていた冒険は、剣を振り、魔物を倒す場面ばかりだった。その前後に、仲間と何を食べるか相談する時間まであるとは知らなかった。
俺の遅すぎた放課後は、どうやら迷宮の中だけにあるわけではないらしい。
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