第14話 40歳、初めての素振り
予告どおり、翌朝の俺は階段に敗北した。
太腿とふくらはぎが、上りでも下りでも容赦なく痛む。仕事中に点検口の前でしゃがんだときは、立ち上がるまでに少し時間がかかった。
それから数日後、俺は迷宮踏査部室で久世さんの体調確認を受けていた。
「筋肉痛は、もう大丈夫ですか」
「階段とは和解しました。完全ではありませんが」
「床の線には勝ったのに、階段には負けたんやな」
「階段は毎日、こちらの体力を削ってきますからね」
白瀬さんが笑い、雨宮さんは俺の脚を心配そうに見ている。
「歩き方は、変じゃないですか」
「今は大丈夫です。仕事中も支障はありませんでした」
「小春、訓練が終わったあとも確認しますね」
「お願いします」
専用訓練棟へ移動すると、榊原先生は俺の申告と記録に目を通した。
「筋肉痛は勲章ではありません。動きが崩れるようなら、今日の訓練はそこで終わりです」
「分かりました」
「返事だけでなく、身体でも守ってください」
今日こそ八重垣剣を抜けると思っていたが、最初に行われたのは前回と同じ歩法だった。
剣を召喚せず、前回教わった動きを数回繰り返す。足を置く場所と停止位置を先に決めれば、今日は1度も白い線を越えなかった。
「前回できたことを、今日もできる。それでようやく基礎になります」
榊原先生は俺の足元を確認しながら言った。
「1度成功しただけでは駄目ですか」
「迷宮で、1度だけ生きて帰れればいいと思いますか」
「思いません」
「なら、次へ進みます」
歩法の確認を終え、俺たちは別の区画へ移った。
そこは周囲を厚い透明板で囲まれた、斬撃訓練用の区画だった。床には足の位置と剣を振る方向を示す線が引かれ、正面には人の胸ほどの高さに訓練用の光棒が投影されていた。刃が触れると赤く変わり、停止位置を越えたことが分かる仕組みらしい。
俺が中へ入ると入口が閉まり、透明板の内側に淡い安全障壁が重なった。久世さんたちは透明板の外へ回り、榊原先生は入口脇に設けられた指導員用の安全区画に立った。
「八重垣剣を召喚してください。ただし、まだ抜かないこと」
「はい」
右手を開き、八重垣剣を呼ぶ。
白い光が掌に集まり、白革を巻いた柄と淡い青金の鍔、黒革張りの鞘が形を取った。《神剣同調》が働き、身体の中心に見えない芯が通った。
「剣を抜く前に、確認することがあります」
榊原先生が、俺の周囲を指した。
「人の位置。刃が通る範囲。足元。鞘を支える手。抜いてから確認するのでは遅いですよ」
「周囲よし。足元よし。久世さんたちは透明板の外です」
「では、ゆっくり抜いてください」
右手で柄を握り、左手で鞘を支える。鍔元から剣身を少しずつ引き出すと、白銀の刃が訓練棟の照明を細く反射した。
氷ノ川迷宮では、魔物の爪が迫る中で必死に抜いただけだった。剣の長さも、刃の幅も、落ち着いて確かめる余裕などなかった。
幅広の白銀の剣身には、境界を思わせる淡い紋様が刻まれている。両刃の西洋剣は、見るからに鋭い。それでいて両手で柄を握ると、重さが不思議なほど身体の中心に収まった。
「やっぱり、めっちゃ格好ええな」
透明板の向こうから、白瀬さんの声が聞こえた。
「見物ではありませんよ」
「分かってます。でも、格好ええもんは格好ええやん」
「美玲、静かに見て」
久世さんがたしなめた。
榊原先生は、壁際に用意されていた訓練用の模擬剣を久世さんに渡した。
「相良さん、いったん納刀してください」
俺は八重垣剣をゆっくり鞘へ戻した。刃が完全に収まったことを榊原先生が確認してから、久世さんが区画へ入り、俺の隣に立った。
「まず、基本の振り下ろしを見せます」
久世さんは模擬剣を身体の正面に構えた。大きく振りかぶらず、剣先を揺らさないまま両腕を上げる。
息を吐くのと同時に、剣が振り下ろされた。
模擬剣は光棒に触れる寸前で止まる。上半身も前へ流れず、すぐ次の動作へ移れそうな姿勢を保っていた。
「標的に当てることだけを考えないでください。剣を止め、次に動ける姿勢へ戻るところまでが一連の動作です」
「分かりました」
「では、同じように。最初はゆっくりで構いません」
久世さんが区画の外へ戻り、入口が閉じたことを確認する。俺は改めて周囲を見回してから八重垣剣を抜き、正面に構えた。
重さは感じる。だが、《神剣同調》が腕と腰を支え、構えを保つための力を補ってくれる。
ゆっくり振るつもりだった。
八重垣剣は、考えていたよりもはるかに速く落ちた。
「っ!」
慌てて止めようとしたが、剣先は光棒を越え、床の近くまで流れた。光棒が赤く変わる。上体も一緒に前へ傾き、《神剣同調》に腰と膝を支えられて、どうにか倒れずに済む。
剣は止まった。
だが、俺の身体は止まっていなかった。
「今の動きでは、標的を斬った直後に姿勢を崩します」
榊原先生が淡々と指摘する。
「標的には届いています」
「当てるだけなら、八重垣剣の性能でできます。その直後に殺されますよ」
「厳しいですね」
「迷宮の方が厳しいです」
返す言葉はなかった。
「もう1度、久世さんに構えを見てもらってください」
榊原先生の指示で、俺は八重垣剣を鞘へ戻した。刃が収まったことを確認してから、久世さんが再び区画へ入る。
「相良さん、最初から強く握りすぎています」
「落とさないようにしているんですが」
「握り続けると、肩と手首が固まります。振る瞬間だけ締めてください」
言われて力を抜くと、今度は鞘の先がわずかに揺れた。
「力を抜きすぎです」
「加減が難しいですね」
「だから練習します」
久世さんは俺の手元と肘の位置を確認し、構えを少しずつ直していく。修正を終えると区画の外へ戻り、入口が閉じられた。俺は改めて八重垣剣を抜く。
次は白瀬さんが透明板の向こうから声をかけた。
「構えて、息吸って、振る。はい、止める!」
「最後だけ声が大きくないですか」
「止まらんかったら怖いやろ!」
「美玲、驚かせないで」
「ちゃんと止まれたら驚かへんって」
軽口に聞こえるが、白瀬さんの合図に合わせると呼吸と動作のタイミングは取りやすかった。
それでも、剣先は安定しない。
速く振れば停止位置を越える。止めることを意識しすぎると、途中で腕が固まり、剣先が横へぶれる。
「相良さん、振る前に息が止まっています」
雨宮さんが透明板へ近づき、俺の姿勢を見ていた。
「分かりますか」
「肩が上がるので。あと、右手の指も少し震えています」
榊原先生が小さく頷いた。
「雨宮さん、よく見ていますね」
「相良さんが無理しても、剣が支えちゃうから……小春が見ていた方がいいと思って」
八重垣剣を握っている間は、疲労を自覚しにくい。雨宮さんが外から見てくれているのはありがたかった。
休憩を挟みながら、何度も振り下ろす。
少しずつ軌道はまっすぐになった。だが、止める位置は毎回ずれた。光棒の手前で止まることもあれば、大きく越えることもある。
動かし始めてから、止める場所を探している。
そのやり方に問題があるのだと気づいた。
狭い機械室で長いレンチを使うとき、力任せに回すことはしない。固着したボルトが急に外れれば、工具が配管に当たるか、勢い余って自分の手を機器にぶつける。
重い弁を動かすときも同じだった。どこまで回すのか。外れたとき、工具がどちらへ流れるのか。周囲に何があるのか。
力を加える前に、終点を決める。
動かし始めてからでは遅い。
「もう1度お願いします」
俺は八重垣剣を構え直した。
「構えて、息吸って」
白瀬さんの声に合わせ、ゆっくり息を吸う。
久世さんから教わった位置に足を置き、柄を握る力を抜く。雨宮さんに指摘された肩の強張りを解き、正面の光棒を見る。
狙うのは、光棒ではない。
その数センチ手前。
剣を止める場所を、先に決める。
「振る!」
息を吐きながら、八重垣剣を振り下ろした。
《神剣同調》の補助が、俺の決めた軌道へ重なる。白銀の剣身が空気を切り、光棒へ迫る。
「止める!」
腕だけで止めようとせず、膝と腰で勢いを受ける。
剣先が光棒の手前で止まった。
数センチの距離だった。腕は震え、剣先もわずかに揺れている。それでも、指定された位置を越えてはいない。
「止まった……」
思わず声が漏れる。
「合格とは言いません」
榊原先生はすぐに釘を刺した。
「ですよね」
「ですが、今の動きは、剣に振らされたものではありません」
榊原先生が、止まった剣先を見た。
「相良さん自身が振ったものです」
その言葉は、強く胸に残った。
剣の力で速く動くことはできる。だが、どこへ振り、どこで止めるのかを決めるのは俺だ。
榊原先生が光棒を消し、代わりに太い訓練用ロープを吊るした。
「最後に1度だけ、これを斬ってください」
「ようやくですか」
「斬ることより、斬ったあとに止まることを意識してください」
「分かりました」
周囲を確認する。足場を決める。剣を振る軌道と、その先に人がいないことを確かめる。
呼吸を整え、八重垣剣を構えた。
止める位置は、ロープを斬った先に決めた。
「お願いします」
「構えて、息吸って」
白瀬さんの合図が飛ぶ。
久世さんが俺の足元を見つめ、雨宮さんは呼吸と手の震えを確認している。
「振る!」
八重垣剣を振り下ろす。
太いロープは、ほとんど抵抗を感じさせずに切れた。切断された端が床に落ちた。
剣身は、決めていた位置で止まっていた。
腕は震えている。姿勢も久世さんほど安定してはいない。それでも、自分で決めた場所に刃がある。
「切れたのは、八重垣剣の力です」
榊原先生が言う。
「止まれたのは、相良さんの判断です」
透明板の向こうで、白瀬さんが両手を上げた。
「やったやん! 相良のおっちゃん、ちゃんと止められたやん!」
「どうにか1度だけですけどね」
「最初はそれでええやん」
雨宮さんも嬉しそうに笑い、久世さんは真面目な顔で頷いた。
「今の感覚を忘れないでください。次は同じ動きを、もっと安定して繰り返せるようにしましょう」
「では、もう1回――」
そこまで言いかけて、柄を握る指がわずかに震えていることに気づいた。
腕はまだ動く。《神剣同調》も身体を支えている。だからこそ、勘違いしそうになる。
まだできることと、続けてもいいことは同じではない。
「……いえ。今日はここまでにします」
榊原先生は俺の手元を見てから、小さく頷いた。
「今の判断を忘れないでください」
透明板の向こうで、雨宮さんもほっとしたように息を吐いた。
俺は八重垣剣を鞘に戻し、そのまま消す。両腕に重さと疲労が戻り、肩から力が抜けた。
止まるべき場所を、自分で決める。
それは剣だけの話ではないらしい。
その日、俺は初めて、誰かを守るためではなく、剣を学ぶために八重垣剣を振った。
どうやら剣術というものは、思っていたよりもずっと地味で、ずっと難しい。
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