第13話 剣を振る前に
正式な訓練許可が下りて、最初の放課後。俺は《特例迷宮踏査訓練員》と印字された外部協力者証を首から下げ、彩乃宮第一高校の迷宮踏査部室にいた。
その日は早番を終えてから学校へ向かった。仕事着のまま来るわけにもいかず、動きやすい長袖のシャツとトレーニングパンツに着替えてきた。
「新人さん、遅いで」
部室へ入るなり、白瀬さんが席から声を飛ばしてきた。
「仕事を終えてから来たんです。開始時刻には間に合ってますよ」
「気持ちの上では、もっと早う来るもんやろ」
「気持ちで勤務時間は短くなりません」
俺が荷物を置くと、雨宮さんが笑いながら紙コップを差し出してくれた。中身は冷たい水だった。
「訓練前なので、お茶じゃなくてお水にしました」
「ありがとうございます」
「相良さん、今日は本当に訓練するんですよね」
「そのために来ましたから」
窓際では、久世さんが訓練記録用の用紙を揃えていた。
「相良さん。体調に問題はありませんか」
「腰は普段どおりです。右肩も、日常生活ではほとんど気になりません」
「普段どおりの腰痛は、問題なしに含めていいんでしょうか」
「40歳の健康状態として扱ってください」
久世さんは少し迷ったあと、用紙の備考欄へ何かを書き込んだ。
「迷宮踏査では、久世さんたちの方が先輩です。今日はよろしくお願いします」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
「雫ちゃん、40歳の後輩できたな」
「美玲。年齢の話は必要ありません」
「でも事実やん」
言い返しながらも、久世さんの口元はわずかに緩んでいた。
部室を出て専用訓練棟へ移動すると、榊原先生がすでに待っていた。
壁際には訓練用の防具が並べられ、床には白や黄色の線が何本も引かれている。可動壁は端へ寄せられ、今日は広い平面だけが残されていた。
「まず、訓練前の記録を取ります」
榊原先生の指示で、体温と脈拍を測り、頭痛や視界の異常がないことを確認する。続いて胸当てと肘当て、膝当てを装着した。
防具を着け終えた俺は、訓練区画の中央へ立つ。
「八重垣剣を出しますか」
「まだです」
榊原先生は即答した。
「先に言っておきます。今日は八重垣剣を抜きません」
「剣の訓練ですよね」
「だからこそです。止まれと言われたときに止まれない人へ、剣を抜かせるつもりはありません」
精密検査で《護界》の試験装置が停止したあとも、俺は能力を維持しようとしていた。もう1発なら耐えられる。そう考え、終了の判断が遅れた。
「今日覚えるのは、立つこと、歩くこと、止まることです」
「剣を振る前に、ですか」
「剣を振ったあとで足元を覚えるつもりですか」
「いえ」
「なら、始めます」
最初に久世さんが、床の白い線の手前へ立った。
「足は前後に開きます。広げすぎないでください。前へ進むときも後ろへ下がるときも、足を交差させません」
久世さんが前へ出る。
速い。だが、上半身はほとんど揺れていない。前足が床へ着き、後ろ足が距離を詰める。白い線の寸前で止まり、今度は視線を前へ残したまま後退した。
足音も小さかった。
「同じようにやってください」
俺は言われた姿勢を取り、前へ踏み出した。
線の手前で止まろうとした瞬間、上体だけが前へ流れる。慌てて後ろ足を出したため、白い線を踏み越えた。
「停止位置を過ぎています」
「分かってます」
「では、もう一度」
次は線を意識しすぎて歩幅が小さくなった。止まることには成功したが、後退しようとして両足が交差する。
腰に嫌な力がかかり、慌てて姿勢を戻した。
「相良さん、急がなくて大丈夫です」
雨宮さんが心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫です。まだ床を歩いただけですから」
「その床に、もう2回負けとるけどな」
白瀬さんが壁際で笑っていた。
「床の線は逃げませんから」
久世さんまで真面目な顔で追い打ちをかけてくる。
「精密検査では、光る円が逃げたんですよ」
「今日は床に負けないでください」
「努力します」
何度か繰り返すうちに、問題は少しずつ分かってきた。
止まろうとすると肩に力が入り、呼吸まで止めている。後ろへ下がるときは、足元を確認しようとして視線が落ちる。急に方向を変えようとすれば、腰が遅れて上半身だけが先へ向く。
自分では普通に歩けているつもりだった。
だが、相手を見ながら、いつでも次の動作へ移れる姿勢で歩くとなると話が違う。久世さんが簡単にやっていた動きの一つ一つに、理由があった。
「休憩します」
榊原先生の声で、俺はようやく息を吐いた。
雨宮さんから水を受け取り、半分ほど飲む。訓練を始めてまだ大して時間は経っていない。それなのに、太腿とふくらはぎはすでに熱を持っていた。
「相良のおっちゃん、剣振る前に終わりそうやな」
「縁起でもないことを言わないでください」
「でも、ちょっと安心したわ」
「何がです?」
「神剣持ったら何でもできるようになるんやったら、うちらの立場ないやろ」
冗談めかした言い方だったが、もっともな話だった。
俺は剣を得ただけだ。踏査士として積み重ねてきた時間まで、突然手に入ったわけではない。
休憩を終えると、榊原先生が訓練区画の中央を示した。
「次は八重垣剣を召喚してください。ただし、鞘からは抜かないこと」
「分かりました」
右手を開き、八重垣剣を呼ぶ。
白い光が集まり、白革を巻いた柄が掌へ収まる。その先へ淡い青金の鍔と、黒革張りの鞘が形を取った。
俺は右手で柄を握り、左手で鞘を支える。
同時に、身体の中心へ1本の芯が通った。
足元が安定し、浅くなっていた呼吸が整う。疲労が消えたわけではない。それでも、曲がりかけていた腰や膝を見えない力が正しい位置へ引き戻してくれる。
「同じ動作をしてください」
白い線へ向けて踏み込む。
先ほどとは比べものにならないほど、足が鋭く床を蹴った。思い描いた以上の勢いで、身体が前へ出る。
だが、止まれなかった。
白い線を越え、さらに数歩進んだところで、ようやく足が止まる。勢いで倒れかけた身体を、八重垣剣が無理やり支えた。
「今、剣に立たせてもらいましたね」
榊原先生の言葉に、反論はできなかった。
「はい」
「八重垣剣は、あなたが選んだ動きを補助します。ですが、何をすべきかまでは決めてくれない」
榊原先生が、俺の越えた白い線を指す。
「判断を間違えれば、その間違いを全力で実行できてしまう。それが今のあなたの一番危険なところです」
剣が力を貸してくれる。
だからこそ、間違えたときの勢いまで大きくなる。
氷ノ川迷宮では、それでも偶然うまくいった。床を崩す場所も、道を閉じる位置も、《界視》で見えていたからだ。
だが、見えていることと、正しく動けることは同じではない。
「久世さん、相良さんの正面へ」
「はい」
久世さんが訓練区画へ入り、俺と向かい合った。彼女も武器は持っていない。
「久世さんが前へ出たら、相良さんは同じ距離だけ下がってください。相手から視線を外さず、足を交差させないこと」
「攻撃は?」
「しません。今日は距離を保つだけです」
久世さんが構える。
空気が変わった気がした。
「始めます」
彼女の身体が斜め前へ動く。
俺は反射的に下がろうとし、右足と左足を交差させた。重心が外れ、肩が大きく傾く。
倒れはしなかった。
八重垣剣が腰と膝を支え、無理やり身体を立たせたからだ。
「実戦なら、その時点で終わりです」
久世さんはすでに俺の目の前へ立っていた。手を伸ばせば、胸元へ触れられる距離だ。
「今の俺は、剣に立たせてもらっただけですね」
「はい」
久世さんは気を遣って言葉を濁さなかった。
「もう一度お願いします、久世先輩」
「先輩……ですか」
「迷宮では、間違ってないでしょう」
「間違ってはいませんけど……」
「雫ちゃん、ちょっと嬉しそうやで」
「美玲」
久世さんが振り返る。表情はすでに普段どおりだったが、耳が少しだけ赤く見えた。
訓練を再開する。
久世さんは正面だけでなく、左右へ角度を変えて踏み込んでくる。俺は動きに追いつこうとして足を急がせ、そのたびに姿勢を崩した。
下がりすぎて黄色い線を踏むこともあれば、相手の肩へ気を取られて停止位置を越えることもあった。
八重垣剣は、そのたびに俺を転ばせなかった。
だが、それは成功ではない。
何度目かの失敗で、俺は一度構えを解いた。
「少し考えてもいいですか」
「どうぞ」
速く動こうとするから、足が追いつかない。
久世さんの速さへ反応しようとするたび、次の足場を決める前に、身体が動いていた。
設備点検で狭い機械室へ入るとき、そんな動きはしない。
配管や機器の間を進むときは、先に足場を見る。工具の重さを考え、足を置く位置を決める。重心が移ったことを確かめてから、次の足を出す。作業地点の手前では必ず止まる。
急げと言われたときほど、その手順を飛ばせば事故になる。
速さでは、久世さんに勝てない。なら、今は勝つ必要もない。指定された場所へ進み、指定された場所で止まればいい。
それを決めるのは、八重垣剣ではない。俺だ。
「お願いします」
もう一度、久世さんと向かい合う。
「始めます」
久世さんの右足が動く。
肩の動きだけに惑わされず、腰と足元を見る。彼女が踏み込んでくる位置を確認し、自分が下がる場所を先に決めた。
右足を後ろへ置く。重心を移し、左足で距離を整える。
八重垣剣の補助が、俺の決めた動きへ重なる。
身体が滑らかに後ろへ動いた。
久世さんとの距離は保たれている。
床の白い線が踵へ近づく。その手前で足を止め、膝と腰で勢いを受ける。
上体がわずかに揺れた。呼吸も乱れ、足幅も少し広い。
それでも、線は越えていなかった。
「止まれたやん!」
白瀬さんの声が訓練区画へ響く。
「ようやく床の線に勝ちました」
「さっきより、ずっと安定してました」
雨宮さんも、自分のことのように喜んでくれている。
久世さんは俺の足元と姿勢を確認してから、真面目に頷いた。
「今の動きを忘れないでください。次は、もう少し速い状態でも止まれるようにしましょう」
「はい、久世先輩」
「それはもういいです」
「雫ちゃん、今度は照れてへんな」
「美玲は黙っていて」
俺は八重垣剣を見下ろした。
まだ鞘に収まったままだ。
「榊原先生。これで、剣を抜いてもいいですか」
「今日は駄目です」
「まだですか」
「脚が震えていますよ」
言われて意識を向けると、確かに太腿が細かく震えていた。《神剣同調》に支えられている間は、自分がどれほど疲れているのか分かりにくい。
「剣を振る前に、明日も仕事へ行ける身体で帰ることを覚えてください」
「分かりました」
「では、剣を消して休憩。体調を記録したら、今日の訓練は終了です」
八重垣剣を消す。
白い光がほどけた途端、両脚へ重さが戻った。腰を落としかけた俺を見て、白瀬さんが笑い、雨宮さんが慌てて椅子を持ってくる。
初めての剣術訓練なのに、俺は一度も剣を抜かなかった。
それでも翌朝、間違いなく筋肉痛になる自信だけはあった。
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