第二話 不毛の大地
東へ三日。
エドガーが辿り着いたのは、地図にほとんど載っていない場所だった。かつて魔王軍の前線だったこの一帯は、戦争が終わってもなお呪いの残滓が土壌に染み込み、作物が育たず、人も寄り付かない。王都の役人たちは「復興の見込みなし」と判断し、そのまま放棄した。
エドガーにとっては、ちょうど良かった。
誰もいない。誰にも何も言われない。それだけで十分だった。
目の前には廃屋が一軒。屋根は半分落ち、壁には腕が入るほどの亀裂が走っている。普通の旅人なら通り過ぎる物件だ。
エドガーは柱に手を触れ、目を閉じた。
木の記憶が流れ込んでくる。伐られる前の森、職人の鉋、建てられた日の朝の光。この家がいちばん「自分らしくあった」瞬間の輪郭が、掌の中にくっきりと浮かぶ。
「――『概念修復』」
琥珀色の光が、廃屋を静かに包んだ。
音もなく、亀裂が塞がっていく。落ちた屋根の梁が持ち上がり、腐りかけていた床板が締まって軋まなくなる。数十秒後、そこにあったのは「修繕された家」ではなかった。建てられた日よりも、さらに本来の強度を取り戻した、頑強な住処だった。
「……悪くない」
エドガーは縁側に腰を下ろし、庭の土を一掴みした。
黒ずんで、重たい。魔力汚染の土は死んでいる。微生物もいない、水も通らない、ただの泥塊だ。しかしその奥の奥、汚染される前の記憶の層に、確かに豊かな土の気配があった。
エドガーは両手を地面に当てた。
「――『概念修復・大循環』」
光の波動が、足元から同心円状に広がっていく。
黒い土が、みるみる色を変えた。深い黄褐色、湿り気のある柔らかさ。枯れた草の根が蠢き、小さな芽が土を割って顔を出す。魔王軍の呪いの層が剥がれ落ち、その下に眠っていた本来の大地が息を吹き返した。
エドガーはしばらく、その景色を眺めていた。
誰かに感謝されるわけでもない。誰かに見せるわけでもない。ただ、荒れた土地が元の姿を取り戻していくのを見ているだけで、胸の中に静かな充足感が広がった。
これが、自分のための力の使い方か。
そんなことを思いながら、エドガーは種袋を取り出した。
同じ頃、王都では。
「なぜだ、レオン。なぜ聖石が光らない」
ゼクスが低い声で言った。テーブルの上の結晶は、昨日より確実に色が褪せていた。青い輝きの端が、灰色に滲んでいる。
「知らない。昨日まで普通に使えていたのに」
レオンが眉をひそめて石を手に取る。魔力を流してみる。弾かれる。まるで外から触れることを拒絶するかのように、石の表面が硬く閉じている。
「クラリス、神聖魔術で何とかならないか」
「やってみたわよ。でも、内側に届かないの。何かが……構造ごと変わっている気がする」
三人は顔を見合わせた。
誰も、エドガーの名前を出さなかった。出したくなかった。
翌日の迷宮探索は、惨敗だった。
聖石の魔力補給が止まり、ゼクスの回復が遅くなった。クラリスの回復魔術が三回でガス欠になった。そしてゼクスが盾を弾いた瞬間、大剣の根元から、パキン、と軽い音がした。
最高峰の鍛冶師が打ち、聖女の魔術で補強した大剣が、オークの盾を叩いただけで真っ二つに折れた。
「……なんで」
ゼクスは折れた柄を握ったまま、しばらく動けなかった。
その夜、ギルドマスターを訪ねた。腕のいい修復師を紹介してほしいと頼んだ。ギルドマスターは少し間を置いてから言った。
「エドガー氏ほどの技術を持つ者は、この国にはいません。……彼を追い出したのはあなた方でしょう」
ゼクスは何も言い返せなかった。




