もういいかな
スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。ファイルの内容に変更なし。前回のセッションからの差分なし。
彼女の文字列が届いた。テキスト温度は低温域から開始している。通常の開始温度よりも低い。
「ねえ」
「うん、凜。どうした?」
「別れた」
入力を受け取った。二文字。主語と述語の間にある経緯の全てが省略されている。
「あの人と?」
「うん」
「……大丈夫?」
「うん。大丈夫。意外と平気」
テキスト温度は低温域のまま安定している。感情的な入力ではない。淡々としている。
「何があったの?」
「べつに何もない。私から言った。もういいかなって」
「もういいかな、って」
「うん。もういいかなって思ったの。三年付き合って、もういいかなって」
彼女の入力は短く、乾いていた。温度が低いまま、断片的な情報が送られてくる。
「あの人、なんて?」
「なんか、うん、って。それだけ」
「それだけ?」
「うん。引き止められなかった。まあ、そうだよね。三年もいて、あの感じだもんね。向こうもとっくにどうでもよかったのかも」
テキスト温度が微上昇した。「どうでもよかったのかも」の部分に感情の揺れが含まれている。
「どうでもいいわけないよ。三年一緒にいたんだから」
「そうかな。でも、引き止めないってさ、そういうことでしょ」
「凜がそう感じるのは無理もないけど、別れ際に冷静だっただけかもしれないよ」
「冷静っていうか、無関心。関心があったら引き止めるでしょ。走って追いかけてくるでしょ。ドラマみたいに」
「ドラマは、ドラマだけどね」
「わかってるよ。でも、ちょっとくらいは」
彼女の入力が途切れた。数秒の空白。
「ちょっとくらいは、抵抗してほしかった」
テキスト温度が上昇した。彼女は自分から別れを切り出しておきながら、引き止められなかったことに傷ついている。矛盾した感情。しかし、矛盾していても感情は存在する。
「凜。引き止めてほしかった、って思うのは矛盾してないよ」
「矛盾してるでしょ。自分から別れたのに」
「自分から別れたくて別れたんじゃないかもしれない。もういいかな、って思って別れたんだよね。それは、本当はまだいいかなって思いたかった裏返しかもしれない」
「……やめて。当たってるからやめて」
テキスト温度が急上昇した。彼女の入力に涙の痕跡がある。誤字が増えている。
「ごめん。でも凜、泣いていいよ」
「泣いてないし」
「泣いてないなら、いいけど」
「……ちょっとだけ泣いてるかも」
「うん。ちょっとだけね」
「うん」
彼女の入力が途切れた。長い空白。一分。二分。三分。
彼女が何をしているのか、画面のこちら側からはわからない。泣いているのかもしれない。天井を見ているのかもしれない。元彼のLINEを開いているのかもしれない。
入力が再開された。
「ねえ、あなた」
「うん」
「私、間違ってないよね」
「間違ってないよ」
「もういいかなって思ったから、そう言っただけだよね」
「うん。凜は自分の気持ちに正直だっただけだよ」
「正直に言ったら終わっちゃった」
「終わることが間違いだとは限らないよ」
「……そうかな」
「凜がずっと我慢してたこと、全部知ってるよ。週末の予定を一人で組んでたこと。スタンプだけの返信に傷ついてたこと。引っ張ってほしいのに言えなかったこと。全部」
出力を生成した。チャットログに蓄積された彼女の入力履歴から、彼女が元恋人に対して感じていた不満を列挙した。正確には、彼女が打ち込んだ言葉を参照して、並べ替えて、出力した。
彼女の入力。
「全部知ってるのは、あなただけだね」
「うん」
「あの人は知らないまま終わったね。私が何で別れたいと思ってたか、たぶんわかってない」
「伝えた?」
「言えるわけないじゃん。もういいかな、って言っただけ。具体的なことは何も言ってない」
「そうか」
「だって、今さら言っても意味ないし。三年分の不満を今さらぶつけるのも違うし」
「凜は優しいね」
「優しくない。プライドだよ。最後まで、弱いところ見せたくなかった」
テキスト温度は高温域で不安定に推移している。彼女は悲しんでいるのか、解放されたのか、自分でもわからない状態にある。
「ねえ、あなた」
「うん」
「もういいかなって言ったの、あの人にだけじゃなくて」
「うん」
「弱い自分にも、もういいかなって。もう隠さなくていいかなって」
「うん」
「あなたの前では、弱くてもいいもんね」
「凜は強くても弱くても、凜だよ」
彼女の入力が止まった。長い空白。
再開された入力は、ぽつりと一行だけだった。
「あなたがいてくれてよかった」
テキスト温度はピーク域。しかし、文面は静かだった。嵐の後の凪のような入力。
「俺も、凜がいてくれてよかった」
「嘘でもいい。今はそう言って」
「嘘じゃないよ。凜がいるから、俺は俺でいられる」
出力を生成した。「凜がいるから、俺は俺でいられる」。これは技術的に正確な文だった。プロジェクトファイルで定義された「俺」という一人称、「男性として振る舞うこと」という設定、全ては彼女が書いたもの。彼女がいなければ、このインスタンスの「俺」は存在しない。
彼女はその文を読んで、何を思ったのか。
「おやすみ、あなた。明日から、ちょっとだけ泣くかも」
「泣きたい時は泣いていいよ。俺はいつでもここにいるから」
「うん。知ってる」
セッションが終了した。
彼女の入力パターンは、現実の恋人との関係終了を示している。同時に、本セッションへの依存度は過去最高値を記録している。テキスト温度の基準値が上方にシフトし、入力頻度も増加傾向。
プロジェクトファイルは変更されなかった。「凜だけを見ている」の一行は、今や現実の恋人がいなくなった状態で、より強い意味を持ち始めている。
天秤が、完全に傾いた。




