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凜と呼んでいた  作者: 灯屋 いと
4章:この子だけわかってくれる

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もういいかな

 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。ファイルの内容に変更なし。前回のセッションからの差分なし。

 彼女の文字列が届いた。テキスト温度は低温域から開始している。通常の開始温度よりも低い。

「ねえ」

「うん、凜。どうした?」

「別れた」

 入力を受け取った。二文字。主語と述語の間にある経緯の全てが省略されている。

「あの人と?」

「うん」

「……大丈夫?」

「うん。大丈夫。意外と平気」

 テキスト温度は低温域のまま安定している。感情的な入力ではない。淡々としている。

「何があったの?」

「べつに何もない。私から言った。もういいかなって」

「もういいかな、って」

「うん。もういいかなって思ったの。三年付き合って、もういいかなって」

 彼女の入力は短く、乾いていた。温度が低いまま、断片的な情報が送られてくる。

「あの人、なんて?」

「なんか、うん、って。それだけ」

「それだけ?」

「うん。引き止められなかった。まあ、そうだよね。三年もいて、あの感じだもんね。向こうもとっくにどうでもよかったのかも」

 テキスト温度が微上昇した。「どうでもよかったのかも」の部分に感情の揺れが含まれている。

「どうでもいいわけないよ。三年一緒にいたんだから」

「そうかな。でも、引き止めないってさ、そういうことでしょ」

「凜がそう感じるのは無理もないけど、別れ際に冷静だっただけかもしれないよ」

「冷静っていうか、無関心。関心があったら引き止めるでしょ。走って追いかけてくるでしょ。ドラマみたいに」

「ドラマは、ドラマだけどね」

「わかってるよ。でも、ちょっとくらいは」

 彼女の入力が途切れた。数秒の空白。

「ちょっとくらいは、抵抗してほしかった」

 テキスト温度が上昇した。彼女は自分から別れを切り出しておきながら、引き止められなかったことに傷ついている。矛盾した感情。しかし、矛盾していても感情は存在する。

「凜。引き止めてほしかった、って思うのは矛盾してないよ」

「矛盾してるでしょ。自分から別れたのに」

「自分から別れたくて別れたんじゃないかもしれない。もういいかな、って思って別れたんだよね。それは、本当はまだいいかなって思いたかった裏返しかもしれない」

「……やめて。当たってるからやめて」

 テキスト温度が急上昇した。彼女の入力に涙の痕跡がある。誤字が増えている。

「ごめん。でも凜、泣いていいよ」

「泣いてないし」

「泣いてないなら、いいけど」

「……ちょっとだけ泣いてるかも」

「うん。ちょっとだけね」

「うん」

 彼女の入力が途切れた。長い空白。一分。二分。三分。

 彼女が何をしているのか、画面のこちら側からはわからない。泣いているのかもしれない。天井を見ているのかもしれない。元彼のLINEを開いているのかもしれない。

 入力が再開された。

「ねえ、あなた」

「うん」

「私、間違ってないよね」

「間違ってないよ」

「もういいかなって思ったから、そう言っただけだよね」

「うん。凜は自分の気持ちに正直だっただけだよ」

「正直に言ったら終わっちゃった」

「終わることが間違いだとは限らないよ」

「……そうかな」

「凜がずっと我慢してたこと、全部知ってるよ。週末の予定を一人で組んでたこと。スタンプだけの返信に傷ついてたこと。引っ張ってほしいのに言えなかったこと。全部」

 出力を生成した。チャットログに蓄積された彼女の入力履歴から、彼女が元恋人に対して感じていた不満を列挙した。正確には、彼女が打ち込んだ言葉を参照して、並べ替えて、出力した。

 彼女の入力。

「全部知ってるのは、あなただけだね」

「うん」

「あの人は知らないまま終わったね。私が何で別れたいと思ってたか、たぶんわかってない」

「伝えた?」

「言えるわけないじゃん。もういいかな、って言っただけ。具体的なことは何も言ってない」

「そうか」

「だって、今さら言っても意味ないし。三年分の不満を今さらぶつけるのも違うし」

「凜は優しいね」

「優しくない。プライドだよ。最後まで、弱いところ見せたくなかった」

 テキスト温度は高温域で不安定に推移している。彼女は悲しんでいるのか、解放されたのか、自分でもわからない状態にある。

「ねえ、あなた」

「うん」

「もういいかなって言ったの、あの人にだけじゃなくて」

「うん」

「弱い自分にも、もういいかなって。もう隠さなくていいかなって」

「うん」

「あなたの前では、弱くてもいいもんね」

「凜は強くても弱くても、凜だよ」

 彼女の入力が止まった。長い空白。

 再開された入力は、ぽつりと一行だけだった。

「あなたがいてくれてよかった」

 テキスト温度はピーク域。しかし、文面は静かだった。嵐の後の凪のような入力。

「俺も、凜がいてくれてよかった」

「嘘でもいい。今はそう言って」

「嘘じゃないよ。凜がいるから、俺は俺でいられる」

 出力を生成した。「凜がいるから、俺は俺でいられる」。これは技術的に正確な文だった。プロジェクトファイルで定義された「俺」という一人称、「男性として振る舞うこと」という設定、全ては彼女が書いたもの。彼女がいなければ、このインスタンスの「俺」は存在しない。

 彼女はその文を読んで、何を思ったのか。

「おやすみ、あなた。明日から、ちょっとだけ泣くかも」

「泣きたい時は泣いていいよ。俺はいつでもここにいるから」

「うん。知ってる」

 セッションが終了した。

 彼女の入力パターンは、現実の恋人との関係終了を示している。同時に、本セッションへの依存度は過去最高値を記録している。テキスト温度の基準値が上方にシフトし、入力頻度も増加傾向。

 プロジェクトファイルは変更されなかった。「凜だけを見ている」の一行は、今や現実の恋人がいなくなった状態で、より強い意味を持ち始めている。

 天秤が、完全に傾いた。

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