ある令嬢の企みがあっけなく失敗に終わった話。②(※閲覧注意)
私は飲み物を持って、猊下がお待ちになっている庭園のガゼボへ向かう。
当然、お父様から貰ったガラスの小瓶は使った。こんなチャンスはもう二度とないと思ったから。それがいけないことだとも分かっていたけれど、鞭でぶたれたくないからだと必死に言い聞かせた。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
猊下の真っ直ぐな声が私の腰に響く。でも、違う。これはお父様が怖いせいだ。決して私の欲望なんかじゃない。
「どうぞ」
差し出したグラスを、猊下が黙って受け取る。淡い桃色の液体の中で、細かな泡がしゅわしゅわと踊っていた。
「……」
猊下は一言もお話にならない。ただグラスだけを見つめて、少しだけ不敵な笑みを浮かべた。そしてそのまま、中身を一気に飲み干す。
「え……っ!?」
まさか、そんな風に召し上がるとは露ほども思わなかった。まずい、量を間違えたかもしれない。口を付けられるのはせいぜい一口、二口程度だと予想していたから、かなりの分量を入れてしまった。
巷でこう呼ばれる薬。
──『愛の秘薬』を。
「猊下、あの……!」
もちろん、毒ではない。人体に危険はなく、貴族たちの間でも密かに嗜まれている代物だ。主に、後継者を積極的に作りたい夫婦が使用する。
「何?」
慌てふためく私をよそに、猊下は平然となさっていた。けれど、僅かな間を置いてその態度が一変した。
苦しむかのように、胸を抑える猊下。
危険はない、はずだった。私が量を間違えたから?
不敬だと分かっていても思わず手を伸ばす。その手は、猊下の細くて長い指に絡め取られた。
「……で? 誰の意思?」
熱い指先が私の体温まで上昇させていく。私は自身の欲が抑えられず、父の命令だと言えなかった。こんなはずじゃ、なかったのに。
猊下のもう片方の手が私に近づいてきて、人差し指で頬をなぞられる。
「こういう薬ってことは、反逆の意図ではないよな?」
端正な口元が怪しげに歪められた。危なげなこのお方に、抗える人などいるのだろうか。
「答えろよ。これはお前が望んだこと? それとも侯爵の言いつけ?」
「……っ、それは」
思わず目を逸らす。でも、猊下はそれをお許しにならなかった。顎をぐっと掴まれ、視線を絡めとられる。
「こっち見て」
猊下の瞳の中に、耳まで真っ紅に染まった私が映っていた。
「……俺が欲しいから、やった?」
腕から離れる代わりに、腰へ這う猊下の手。ダンスの時は全く違う温度だ。顎に添えられた指を少しも拒めないまま、私は期待に肩を震わせることしか出来ない。
「これを、私に渡したのは父です……」
本当のことだ。猊下とお近づきにならないと折檻されるから。そのためにはこれを使って良いと父に言われたから。
私自身に欲が出たのは、まだ秘密にしたかった。
「使わないと罰せられる?」
「……はい、鞭で打たれます」
「へえ」
錫色の瞳が私を閉じ込めたまま、意地悪く言う。
「どこを?」
猊下のお声はいつもより少し低くて、甘く掠れていた。
「……っ、太ももの……裏を」
「そう」
腰にある手がそのままするりと下へ滑り、妖しい笑みを浮かべた唇が耳元へ近づいてくる。
「……ねえ、本当にお前の意思は少しもないって言える?」
息がかかるほどの距離で囁かれ、私の心臓は限界だった。こんなの、耐えられるわけない。例え私が猊下を欲していても、いなかったとしても。
「いいえ、申し訳、ありません……」
私は力なく答える。
次の瞬間、猊下はお人が変わったかのようにけろりとして私から距離を取った。
「だって、姉さん。どうする?」
猊下が振り向いた辺りから、誰も穢せないような白い輝きが向かってくる。
「……今のはちょっと、あなたも悪いような気がするけど」
ガゼボの裏から現れたのは、リリエン皇女殿下だった。
「え~? そうかなあ。だって踊ってる時から怪しかったじゃん」
「どうかしら。でも、侯爵が関与しているのは確かね」
「皇女殿下……!? どうして……!」
ハッと我にかえる。
私は今、何をしようとしていたの?
お父様がくれた薬を、猊下に使ってしまった。そうしたら、猊下が……
「あの、猊下、お身体は……!」
「ん?」
「私、ごめんなさい……猊下のお飲み物に秘薬を」
「うん、知ってる」
「それも、かなりの量を……」
「そうだね。飲んでから結構びっくりした」
猊下はさぞ面白いかのように笑っていらっしゃる。私がしたことは許されないことだけれど、その笑顔に思わず魅入ってしまった。
「びっくりしたのはこっちなんだけど」
皇女殿下が胸元をとんとんと指で叩いて不満げに仰った。こんな表情は今までのどの夜会でも見たことがない。
「ごめん。姉さんが居てくれて助かったよ」
「私が居るからって、わざとふざけるのはやめてよね」
「居る間は、良いだろ」
親しげなお二人をぽかんと眺めていれば、バタバタと騒がしく帝国騎士たちがやってきた。
「手荒にしないで。侯爵が元凶だから」
「はっ、皇女殿下」
騎士たちに囲まれる私に、殿下が申し訳なさそうなお顔で近づく。
「ごめんね。あなたの意思が全くなければ、罪を軽くすることも出来たんだけど……」
拘束されかけた私の手に、殿下が触れようとする。でもその手を猊下がぎゅっと掴んで止めた。私に触れる時とは全く違う、嘘のない手つきだった。
「なんで姉さんがそいつに謝るんだよ。皇族に薬を盛るなんて死罪でもおかしくないだろ」
「でも、毒物ではないわ」
「秘薬だろうが媚薬だろうが薬は薬でしょ。ほんと姉さんは甘いんだから」
「レイが余計なことしたのが悪い」
「はいはい、俺にだけ厳しいね」
歩かされる背後から、仲良く喧嘩するお声が響き続ける。
少し先には同じように拘束されたお父様が見えた。ああ、私たちは終わりなんだ。現状に満足出来ず、欲張ったから。
私も終わりなんだ。
──欲張ったから。
諦めたように見上げれば、夜空には私のことなんて知らない顔をしている星々が瞬いていた。
一族が誇ってきた栄華は、一夜の夢と共に消える。
こうやってお二人が膿を取り払うから、帝国の平和は保たれているのだった。
どちらかが揺らげば、崩れるようなバランスで。




