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K-80 色の着いた水鳥拳

 伊勢リンは職員室で、担任から問い詰められていた。


「本当に伊勢リンは普段から原付で県外まで走ったことがあるのかね?」


「……はぁ。たまにですが」


 もう色褪せた世界の中で、伊勢リンはぶっきらぼうに答えた。


「まあ、校則を知らなかったとはいえ、クリスマスも三重県まで走ったのかい? しかも新聞にも載ったそうじゃないか。本来なら停学になるところなんだけど、奇しくも部活を申請していたところを見ると、本当に校則を知らなかったようだしね。今回は厳重注意で済ませるけど、次回はもう無期停学になると思ってくださいね! あくまでも原付は通学のみ使用してください!」


 担任の言葉が、遠くで響いていた。


(通学以外の使用禁止……)


 だから皆、原付で遊びに行かなかったんだ。だからいつも自分はソロで走っていたんだ。アウトドア部の部員たちが原付免許すら取得していない理由が、ようやくわかった。


 この学校では、原付は通学手段という道具でしかない。


 伊勢リンは残された高校生活が、本当に色褪せた毎日になることを悟った。


 そんな伊勢リンを見て、結も声をかけづらくなっていた。せっかくセピアを買っても、あの日以来、ビーノとセピアが並んで走ることはなくなっていた。結もセピアに乗り始めたことを、少しだけ後悔し始めていた。


 二人は溜め息しか吐かなくなっていた。


   *


 そんなある日。


 石郷岡のスマートフォンに、見覚えのある名前からLINEが届いた。


 カッパだった。


『オジサンのK50の出番です。今度の月曜日の朝、身延駅前に集合! 必ずK50で来ること!』


(……何だ、この呼び出しは)


 意図が全く見えなかった。しかしたまたま月曜日から有給消化に入る予定だったので、石郷岡はツーリングがてらK50で身延を目指すことにした。前回も同じコースを走っていたので、ソロでも難なく身延駅前に辿り着いた。


 駅前には、モレに跨ったカッパと——もう一人、見知らぬ男が待っていた。


 三十代中盤。SUZUKI ガンマに跨った、目つきの鋭い男だった。


 石郷岡は気を遣って先に自己紹介をした。


「おはようございます! 私は石郷岡というしがない公務員です。あなたはカッパさんのお知り合いですか?」


 男は石郷岡の自己紹介を黙って聞きながら、K50をじっと眺めた。


「そのK50の意味を知っているか?」


「は? K50に意味なんてあるんですか?」


「Kという名の従業員。仕事はKだ!」


(……何を言っているんだ、この人は)


 石郷岡はますます混乱した。


「は? それはどういう意味ですか?」


「フン! まあ、今はまだ知らなくても良い。とにかく付いてこい! カッパがお前から頼まれたという案件を、お前自身で見届けろ! それにしてもお前、いい歳をしてJKに頼み事とは褒められることではないぞ?」


 石郷岡は、この男が盛大な勘違いをしていることに気づいた。


「あ、いや、私がカッパさんに頼んだのは友達のフォローだけでして、何か行動を起こせとは言ってなくてですね……」


「ん? お前は何を言ってる? そのことはカッパから聞いた。だから、カッパは今からその友達のために本栖高校へと行くだけだが?」


(てっきり学校に怒鳴り込みに行くのかと思ったが……どうやらカッパはちゃんと友達を慰めに行くだけのようだ)


 石郷岡は一安心した。


   *


 三台は本栖高校の駐輪場へ向かった。


「やはり原付通学が認められている割に、原付の数が少ないな」


「うん! ウチの学校と変わらないよね」


 走っているうちに下校時間になり、生徒たちがぞろぞろと帰り始めた。


 そこへ、カッパが待っていた伊勢リンが、暗い顔で俯きながら駐輪場へとやって来た。


 カッパがすかさず声をかけた。


「伊勢リン! 部活のこと聞いたよ! 残念だったね。でもね、今日は秘策を持ってきたよ!」


 伊勢リンは重い頭を上げた。


 カッパが笠寺からここまで、何でもないように原付を走らせてきていた。今の伊勢リンには、そのカッパの当たり前の行動すら、胸をえぐってきた。


「……なんだ、カッパか。わざわざそんなことを言うためにここまで来たの? バカみたい!」


「うん! バカみたいだよね! 私もそう思う! でもね、本当に秘策を持ってきたんだよ! 絶対に上手くいく秘策! 伊勢リンはYAMAHAだけど、伊勢リンなら大丈夫! 立派な感染者になれるから!」


「感染者って?」


 カッパはニカッと笑って答えた。


「スズ菌! SUZUKIは失敗を恐れない! そして、SUZUKIには敗北の二文字はないんだよ!」


(……やはりこの子の言ってることは、私には半分も理解できない)


 石郷岡もまた、さっぱり意味がわからなかった。


 カッパの言葉を聞いていた駐輪場の生徒たちが、クスクスとあざけ笑いながら二人を眺めていた。そんな中、結も駐輪場へやって来た。カッパと伊勢リンの深刻な会話に口を挟むこともできず、ただ立ち尽くして事の経緯を見守っていた。


   *


 そこへ、騒ぎを聞きつけた学年主任と教頭先生が、駐輪場へとずかずかと歩いてきた。


「こら! なんだね君たちは! 部外者は立入禁止だ! 警察を呼ぶぞ!」


 すると鈴菌がさっと前に出て、二人の教師を制した。


「残念ながら俺たちは関係者だ。それどころか、この学園を救いに来た救世主だ!」


(事が大事になってきた……)


 石郷岡が困惑していると——教頭先生が、石郷岡の顔を見た瞬間、ハッと固まった。


 教頭が、学年主任の耳元に素早く口を寄せた。


「おい、あれは教育委員会の……確か文化庁の調査員!」


「そ、それは本当ですか?」


「あぁ、間違いない! 珍しい苗字だったから印象に残ってる。ここは事なかれ主義で見守ろう」


 二人の教師は、突然おとなしくなった。


(……何故急に静かになったんだ?)


 石郷岡には、その理由が全くわからなかった。


   *


 場が静まったところで、カッパが伊勢リンへ向き直った。


「伊勢リン、部活がダメになったからって諦めちゃダメ! 却下した人はどうして却下したのかわかる?」


「校則で通学以外の使用禁止ってのがあるから、却下するしかないでしょ!」


「全然違うよ! 校則があっても、伊勢リンさえちゃんとしていれば認めてもらえてたんだよ! 校則はあくまでも目安! 目安はいつでも変えられる。例えば、寒い夜にカレーヌードルを早く食べたくて、三分待たずに二分半で食べても良いでしょ? 三分ってのはあくまでも目安なんだよ! 先生たちは目安として校則を持ち出しただけなの。伊勢リンは、ちゃんと原付のこと、原付で旅をすることの意味を先生に説明するだけで良かったんだよ!」


 カッパの熱弁が続く中、駐輪場から帰ろうとしていた生徒たちが、自転車やバイクに跨り出口へ向かおうとした。


 その瞬間——鈴菌が、生徒たちの前にスッと立ち塞がった。


「なんだコイツ」「邪魔だよ」「あっちじゃ変な女の子が変なこと言ってるし」


 不満の声が上がった。


 鈴菌は、生徒たちをひとしきり見渡してから、天を仰ぎ——吠えた。


「お前ら!!」


 一呼吸。


「お前らの! ツーストオイルの色は何色だーーーー!!!!」


 石郷岡は電流が走るような既視感を覚えた。


(……これは。これは『お前らの血の色は何色だ!』——南斗水鳥拳のレイだ)


 世代的に、その元ネタに気づいたのは石郷岡だけだった。


 今どきの高校生には南斗水鳥拳など知る由もない。見知らぬオッサンの魂の雄叫びとして、真正面から受け取った生徒たちは、全員その場で立ち尽くした。


 駐輪場が、しんと静まり返った。


   *


「ほら? 今ならちょうどそこに二人も先生がいるよ。伊勢リン、ここで、伊勢リンが走ってきた景色をあの二人に話してみなよ! 伊勢リンが見てきたものは、校則を越えられない壁? 志摩スペイン村で見た景色は、校則よりもつまらなかった? 私たちは本当にそんなつまらない景色しか見てこなかった?」


 伊勢リンは、あの日のコロンブス像を瞬時に思い出した。


(あの日の私には、追い風しか吹いていなかった! そして、私はそんな追い風のことをまだ誰にも話してない!)


 目に、火が灯った。


「教頭先生! 私はコロンブスになりたい! 今はまだビーノで走ることしかできないけど、ここにいるカッパのような自分の足で前へ進める旅人になりたい! 通学以外の、まだ見たことのない道と景色を見たいんです! お願いします! 原付の部活を作る許可をください!」


 伊勢リンは教頭先生へ、深々と頭を下げた。


 結が駆け寄り、頭を下げた。


 さらに、駐輪場に残っていた原付通学の生徒たちも、次々と頭を下げていた。


 学年主任と教頭先生は困惑して、石郷岡の顔色を窺った。


 石郷岡は——ただ、静かに、優しく頷いた。


(いや、私は何もしていないのだが……)


 その一つの頷きで、教頭先生はもう、却下などとは口が裂けても言えなくなった。


「……まあ、校則は少しだけ見直しましょう。部活についても、もう一度職員会議で話し合いますので、少しだけ待ってください」


   *


 教頭先生と学年主任が鈴菌と石郷岡の方へ歩いてきた。

 教頭先生は鈴菌を一瞥してから、石郷岡に尋ねた。


「こちら様も石郷岡さんのお連れ様でしょうか?」


 その瞬間。


 カッパが鈴菌の前にずいっと立ち、ポケットから何かを取り出した。


 SUZUKIのエンブレム——「S」の文字が刻まれた、印籠だった。


 カッパはそれを教頭先生と学年主任の前に、ババーンと差し出した。


「控え! 控えおろう! こちらにおわす御方をどなたと心得る! 控えおろう!!」


 周りの生徒たちが、なぜか神妙な面持ちになった。Sの印籠に、全員の視線が吸い寄せられた。


「こちらにおわす御方こそ! 先のSUZUKIの副将軍! 鈴菌様であらせられるぞーーー! 頭が高〜い! 控えおろう!!」


(……副将軍……)


 石郷岡の頭の中で、何かが完全に諦めた。


 鈴菌はずいっと前に出て、二人の教師へ語り始めた。


「まあまあ、お二人さん。硬くなるな。俺はお忍びの身だ。今はただのSUZUKI乗りの鈴菌だ。今回、お前たちは一人の生徒の望みをろくに聞きもせず却下したことは大罪に値するが、まあ、これは一重にあちらのビーノの少女にも問題はあったのだろう。なんにせよ、古い校則に縛られてがんじがらめになっていたのは生徒たちよりも貴様ら教師の方だったようだ」


 一呼吸。


「良いか、考えてもみろ。免許を許可しておいて通学以外の使用を禁止しているということは、原付を使った仕事にも就けないということになるんだぞ? これは職業選択の自由を奪っていることになるな。先生ならこれがどんな意味かはわかるよな? もし仮に全国の高校生たちが集団訴訟でもしてみろ。過去の卒業生も遡って、国家予算レベルの賠償金問題へと発展するぞ? 今日、お前らは本当に素晴らしい決断をした。このSUZUKIイズムの伝承者の俺が、今日のお前たちの決断を見届けた。なるべく早く認可してやれ!」


 教頭先生と学年主任は、その場で立ち尽くした。


 正直、鈴菌の言葉の意味は、半分も理解できていなかった。


 だが。


 目の前に立っている文化庁の調査員が、静かに頷いている。


 それで、十分だった。


 駐輪場中で事の経緯を見ていた生徒たちが、大歓声を上げた。


 特にSUZUKIセピアに乗っている結にとって、今日の鈴菌は神に見えた。


   *


 後に残された石郷岡は、ひとりで途方に暮れていた。


(私は……何もしていない。一言も喋っていない。ただ頷いただけだ)


 カッパと鈴菌は、伊勢リンと結と三人で、認可されそうになったことを素直に喜んでいた。教師を動かしたのは自分たちの言葉だと、完全に信じ込んでいた。



 むろん石郷岡は、自分が忖度されていることにも、全く気づいていなかった。


(カッパさんと鈴菌さんが学校を動かした。私は傍観者だ。有給消化中に勝手に労働するわけにはいかないのだから、これで良かったのだ)


 石郷岡はそう自分に言い聞かせた。


 そして、心の底からそう信じた。


(スズ菌感染者の力はここまで凄いのか…。良かった。本当に良かった)


 今日この日、石郷岡の中でスズ菌感染者に対するイメージが、静かに塗り替えられた。


 南斗水鳥拳の元ネタを知っているのは、この場で自分だけだった。


 それで、ちょうど良かった。



色褪せ日々はこれで終わった。


伊勢リンと結にとって、

SUZUKIセピアは、


もうセピア色ではなかった。


それは、未来の色だった。









南斗水鳥拳について:

漫画『北斗の拳』に登場する暗殺拳のひとつ。使い手はレイ。代名詞のセリフ「お前らの血の色は何色だ!」は、1980年代を生きたすべての少年たちの胸に刻まれた魂の一言です。鈴菌はこれを「ツーストオイルの色」に換装しました。世代的に気づいたのは石郷岡だけでした。


水戸黄門の印籠について:

時代劇『水戸黄門』における最大の見せ場、「この紋所が目に入らぬか!」のシーンでお馴染みの印籠。本来は徳川家の三つ葉葵の家紋が刻まれていますが、カッパが取り出したものにはSUZUKIのエンブレム「S」が刻まれていました。効果は本物以上だったと思われます。

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