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K-79 色褪せる疾走感

 本栖高校での役割は、全て終わった。


 伊勢リンにとって、それはただの失敗ではなかった。


 夢が砕けた瞬間というのは、ガラスが割れるような派手な音を立てるわけではない。ただ、静かに、世界から色が抜け落ちていくだけだ。


 窓の外に広がる山梨の山並みも、通学路に続くアスファルトの一本道も、かつてはビーノのエンジン音と共に飛び込んでくる景色のひとつひとつが生き生きと輝いて見えたのに、今はどこか遠い国の話のように薄ぼんやりとしていた。


 この先の高校生活を、どうやって生きていけばいいのか。


 漠然と、ただ漠然と時間をやり過ごすしかないのだと、伊勢リンは悟っていた。


 何よりも申し訳なかったのは、結のことだった。


 せっかく免許を取らせたのに。あの子に無理を言って、半ば強引に原付免許を取らせて、セピアまで買わせてしまった。本来あのセピアは、カッパのために用意されていた予備のスクーターだったはずだ。いつかカッパが使うかもしれないと、ヨンキュウ部がわざわざ融通してくれた一台。それを自分の都合で動かしてしまった。免許の取得費用も、車両代も、全部が無駄になってしまった。


 唯一の救いは、結が「せっかく買ったんだから、これからはセピアで登校するよ」と言ってくれたことだ。部活がなくなっても、健気にセピアで坂道を登ってくる結の姿を思い浮かべるだけで、胸の奥がきゅっと痛んだ。


 そんな時、最も受け取りたくなかった相手からLINEが届いた。


 ラーナからだった。


『その後、原付の部はどうなったの? 本栖高校なら楽勝だよね!』


 スマートフォンの画面を見つめたまま、伊勢リンは長い時間、指を動かすことができなかった。


 全ての世界が色褪せてしまった今の伊勢リンには、返事を返すことなど、とてもできなかった。


   *


 それから、数日後のこと。


 ヨンキュウ部の部室に、乙女たちが揃っていた。しかしその日の部室には笑い声がなかった。


 伊勢リンから直接話を聞いたわけではない。顧問の京子先生が、静かな声で本栖高校の現状を話してくれたのだ。


「やはり本栖高校では、原付の部活はダメだったみたい……」


 ラーナの顔から血の気が引いた。


「え? ど、どうしてですか? 京子先生! だって本栖高校は原付の免許を許可してるんですよね?」


「それが、免許も原付での登校も認められてるんだけど……通学以外の使用は、元々禁止されてたみたいなの」


 京子先生は、本栖高校の校則を読み上げた。



【本栖高等学校 生徒心得】


第十四条(進路および職業活動の制限)


一、アルバイトおよび職業活動の全面禁止

生徒はいかなる理由(経済的困窮を含む)があっても、対価を得る労働に従事してはならない。これには、家庭内の手伝いに対する報酬や、インターネット上での創作活動による収益化も含む。


二、原付を用いた収益活動の制限

原付通学の許可を得た者は、卒業見込みの段階(進路決定後)であっても、在学中に原付または二輪車を用いた職業(配送業、郵便、新聞配達、バイク便等)に従事することを禁ずる。これに違反した場合、本校は「職業適性および安全意識に欠ける」と判断し、進学先や就職先への推薦を取り消し、または調査書に不利益な事実を記載するものとする。


三、活動の制限

部活動、ボランティア活動、および自主的な研究活動において原付を使用することは、たとえ私有地であっても、あるいは学校の管理外であっても、本校生徒である限り一切認めない。これに反した場合は即時の退学処分とする。



 読み上げられた文言を聞いて、ラーナは唖然とした。


「こんながんじがらめの校則なら、免許を取らせる意味がないよ! どうして免許を取らせたのに、通学以外で使っちゃダメなの?」


「山梨県のあの辺は自転車だと厳しい坂道が多いでしょ? それに公共の交通機関もないから、仕方なしに原付を認めてるだけなのよ。残念だけど、この校則がある限り、伊勢リンが部活を開設するのは不可能ってことになるわね。それどころか……伊勢リンはこれまで原付で旅をしていたでしょ。それも出来なくなるかもしれないわ。今まではその校則を知らなかったから、乗り回していただけだったみたいなの」


「そ、そんな……伊勢リンから原付旅を取るなんて、可哀想すぎるよ……。あんなにマスツーリングを喜んでたのに……」


 ヨンキュウ部の部室は、開設以来初めて、笑いのない一日を過ごした。


「先生! どうしてウチはすんなりヨンキュウ部が認められたの?」


 カッパの問いに、京子先生は少し考えてから答えた。


「夜間学校の場合は、働きながら通ってる生徒の方が多いでしょ? だから、校則で仕事をしちゃダメだなんて書けないのよ。それに、原付部を開設する時にラーナが原付で旅をすることの目的と意味をきちんと説明できてたでしょ? チップの事とか、県境を超えると売り場が変わるとか。原付で見える景色の事を、的確に教員たちに語れたのが一番大きいわね……」


 ラーナは伊勢リンにどんな言葉をかければいいのか、まるで分からなかった。だから、LINEを打つことを控えた。


   *


 それから、数日後のこと。


 アハロの地下空間では、この日もロードランナー師弟コンビが作業に勤しんでいた。深さ二十メートルにも達した縦穴を、精巧なダミーのドラム缶で隠す、例の偽装工作である。


「これなら、店長にもここに縦穴がある事はバレませんね!」


「そりゃそうだ。せっかく俺が精巧なダミードラム缶を持ってきたんだからな! まさかこの下に深さ二十メートルの穴が空いてるとは、モト子にも気づかれないだろう!」


「はい! でも、そろそろ大浴場の建設も始めないと、モト子さんも怪しみますよ!」


「大浴場については、せっかく上質な岩がゴロゴロとこの縦穴からいくつも手に入るからな。縦穴から岩を採取して岩風呂を作るつもりだ。その方がモト子も喜ぶだろ!」


「そっか! あの岩を使えば実質タダで浴槽が作れるんですね! さすが鈴菌さん!」


「ところで、今日はヨンキュウ部の奴らは来ないのか?」


 カッパは少しだけ暗い顔をして答えた。


「実は……最近知り合った山梨県の本栖高校の伊勢リンって子が大変なことになっちゃって……それでヨンキュウ部の皆もしょんぼりしちゃったんで、今週はきっと誰も来ないと思います」


 鈴菌は急に真剣な顔つきになった。


「大変な事とはどんな事だ。話してみろ」


 カッパは鈴菌に、伊勢リンと出会ってからの経緯を全て語った。


 聞き終えた鈴菌は、腕を組んで短く言い放った。


「なるほどな。その伊勢リンとやらは完全にやり方を間違えたな」


「やり方を? 通学以外の使用禁止という校則がある以上、どんなに頑張っても無理じゃないんですか?」


「そこがまだカッパの未熟さだな。何度も教えただろう。SUZUKIは失敗を恐れない! そして、SUZUKIに敗北の二文字はない! 伊勢リンに足りなかったものはSUZUKIイズムだ」


 カッパは鈴菌の自信満々な顔を、まじまじと見つめた。


「もしも鈴菌さんが伊勢リンだとしたら、どんな風に原付の部活を作ってましたか?」


「それは簡単なことだ。世論を巻き込め! 伊勢リンとやらは直接見たことは無いが、おそらくたった一人で特攻をかけたんだろ。生徒ひとりがいくら大声で叫んでも大人は動かん。叫ぶなら二人で。そして、三人で。場所が学校ならば、答えは簡単だ——全生徒で叫べばアッサリと認められる。伊勢リンが倒さなくちゃならなかった敵は教師じゃない。凝り固まった頭の持ち主である生徒側とまずは戦うべきだったんだ。高校生の一番バイクが楽しい年頃なのに、通学だけで満足させられて、原付の魅力も楽しさも苦しさも知らずに毎日漠然と通学していた奴ら——そいつらこそ、伊勢リンが倒すべき相手だったんだよ」


 ひとつ息をついて、鈴菌はニヤリと笑った。


「……おっと話が長くなったな。早速、今日も地下の街へ繰り出すか! 豚肉は余ってるから今日は蟹でも行っとくか!」


「はい! 蟹なら花さんも喜びますよ!」


 こうして、ロードランナー師弟コンビの地下空間リフォーム作業(?)は、今日も続く。


   *


 翌日のヨンキュウ部の部室。


 カッパが昨日、鈴菌から聞いた話を乙女たちへ語り聞かせていた。


「伊勢リンは戦う相手を間違えただけだって、鈴菌さんが言ってたよ」


「さすが鈴菌さんだぉ。二輪のことだば、この世の全部のこと、何から何までお見通しだぉ」


 菊がうんうんと頷く横で、ラーナは眉を曇らせた。


「でもね、カッパ。時すでに遅しなんだよ。さすがにここから学校側が覆すとは思えないよ。さすがの鈴菌さんでも、無理じゃないかな?」


「そいだば、カッパ。こないだツーリングについてきた変なオジサンの石郷岡にも相談してみればいいぉ。石郷岡の旦那だば、何とかしてくれるかもしれねぉ。特に石郷岡はカッパに借りあるもんなぁ」


「そうなの? 私に借りなんてあったっけ? あぁ! そういえばカレーヌードルあげたっけ! でも、あの変なオジサンがどうして役に立つの? 原付のこと何も知らなかったよ?」


「まあ、騙されたと思って相談してみれぉ! 今夜、カッパもアハロさおいで。石郷岡の旦那もアハロさ呼んでやるさなぁ」


 半信半疑のまま、カッパと菊は放課後のアハロへとやって来た。


   *


 ちょうど同じタイミングで、石郷岡もアハロに到着した。


 文化庁の役人である石郷岡が、このヨンキュウ部の存在を視察してからまだ一ヶ月そこらしか経っていない。あの山梨ツーリングに同行させてもらい、若者たちの原付文化のたくましさに目を見張ったのは、ついこの間のことだ。


 しかし、カッパにとってこの男は相変わらず「なんか変なオジサン」以外の何者でもなかった。


 三人はアハロのテーブル席に落ち着いた。菊が慣れた様子で三人分のカツサンドとコーヒーとコーヒーゼリーを注文する。


 やがてテーブルに料理が並ぶと、石郷岡は一口カツサンドを頬張った瞬間、目を丸くした。


「な……何だこのカツサンドは! めちゃくちゃ美味すぎる! それに、このコーヒーゼリーも普段食べてるものよりも口当たりが良すぎている!」


(これは……妻にもテイクアウトしてやろう……)


 石郷岡の頭の隅で、アハロのカツサンドの美味さは今日、菊から呼び出されたことへの感謝になっていた。


「今日は石郷岡の旦那に聞いて欲しいごどあってなぁ、カツサンドでも頬張りながら、若者の戯言だと思って聞いてけぉ」


「ほら、カッパ。伊勢リンのごど話してごらん」


「え〜! こんな変なオジサンに言ったって、どうにもならないよ〜。だってこのオジサン変なんだもん!」


 石郷岡は少しだけ困り顔になった。


(文化庁の役人として長年キャリアを積んできた自分が、高校生の女の子に「変なオジサン」と呼ばれ続けているのは……なかなか慣れない体験だ……)


「まあまあ、こんな私でも少しは役に立つかもしれないよ? 何があったのか話してみてよ!」


 カッパは一つ深呼吸をして、語り始めた。


「あのね……実は年末年始に鈴菌さんと私とで地下に井戸を掘ろうとしたんだよ。そしたら、水がなかなか出なくて……最初は五メートルくらいで出ると思ってたから、鈴菌さんも困っちゃって『こうなったら意地でも水源まで掘ってやる!』ってことになっちゃって……」


 菊と石郷岡は顔を見合わせた。


「カッパだば突然、何喋ってらぉ? そんな地下空間のごどでねぇ、伊勢リンのごどだぉ。あんた、まさか地下でまた変なごどしてらんでねぇべなぁ! 店長さんさバレる前になんとかしなさいぉ!」


「え? 地下空間の事じゃないの? わかったよ。えっとね……」


 カッパは改めて、本栖高校で起きた一部始終を石郷岡へと話し始めた。


 石郷岡は、カッパの話を静かに聞いていた。


 聞きながら、胸の中に重いものが積み上がっていくのを感じていた。


(……危惧していた事が、ついに起きたか)


 視察から、まだ一ヶ月も経っていない。あの時から、いつかこういうことが起こるだろうとは思っていた。原付文化の灯が各地の高校でいかに脆い条件の上に成り立っているか、石郷岡は職業柄よく分かっていた。


 だが、あまりにも早かった。


(これほど早く、これほど直接的な形でぶつかることになるとは——)


 石郷岡は内心の動揺を顔に出さないよう努めながら、静かに言った。


「そうですか……。こんなにも早くこんな事が起こってしまいましたか……。まだ視察してから一ヶ月しか経ってないのに……」


 思わず独り言のように零れた言葉に、カッパが首を傾けた。


「……わかりました。私の方でも少しだけ本栖高校について調査しておきます。カッパさん! カッパさんにはお願いしたいことがあるよ。その伊勢リンって子がションボリしないように、元気づけてあげて欲しいな。きっと部活がダメになった事で、伊勢リンは原付旅ももう出来なくなるかもしれないからね」


 カッパはその言葉の重みをじんわりと受け取り、力強く頷いた。


「変なオジサンの頼みならやるしかないよね! 任せてよ! 私なら伊勢リンを元気にできるはずだから! きっと伊勢リンはYAMAHAだから心が弱いんだよね! そんな伊勢リンにも私がSUZUKIイズムを叩き込むよ!」


(YAMAHAにもSUZUKIイズムを!)


 カッパの瞳には、SUZUKIのエンブレムであるSの文字が煌めいていた。


 しかも、地下空間の問題から目を背けるには最適なミッションでもある。そんな都合のいい打算が混ざっているとも知らず、カッパのやる気は天井を突き破る勢いだった。


 菊も石郷岡も、カッパがここまで燃えている理由はさっぱり分からなかった。しかし、そのとびきりのやる気の中に、確かな希望の光を見出していた。


 テーブルに並んでいたカツサンドは、三人が話している間にあっという間に消えていた。

 石郷岡は帰り際、テイクアウト用にカツサンドを追加注文してから席を立った。


(これほど美味い豚肉と、これほど滑らかなコーヒーゼリーの正体を……いつか必ず解明しなければならない)


 文化庁の調査官としての本能が、石郷岡の胸の中でひっそりと燃え上がっていた。





本栖高校の校則について:

本文中の校則は創作上のものです。実際の本栖高校付近の校則とは異なります。ただし、原付免許を許可しながらも通学以外の使用を実質的に制限している高校は、全国に少なからず存在します。「免許を取れる」ことと「自由に乗れる」ことは、残念ながら別の話なのです。


ヨンキュウ部が「すんなり認められた」理由:

夜間学校という特殊な環境、働きながら通う生徒の存在、そしてラーナが部活申請時に「原付で旅することの意味」を的確に語れたこと。この三つが重なって初めて、あの部活は生まれました。偶然と必然が絶妙に重なった、奇跡に近い話です。


石郷岡の立場:

文化庁調査官。Vタックの教え子。そして今は、カッパにとっての「変なオジサン」。カッパは今も、この男が何者なのかを知らない。それで、ちょうど良かった——のかもしれない。

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