k-74 VIVANT案件
翌朝。
一同は浜松市の「本田宗一郎ものづくり伝承館」の前に立っていた。
キーコンとボーアと京子先生は、建物を見上げながら神妙な面持ちをしていた。
何かを知っている者の顔だった。
カッパとラーナは、しばらく無言で伝承館の扉を見つめていた。
やがて、二人は顔を見合わせた。
頷いた。
扉を開いた。
菊は、そんな二人の背中を見て、ただ優しく微笑んでいた。
石郷岡は、その場の空気がどことなくおかしいと感じていた。
何かある。何かが、ある。
だが、何が「ある」のかが、全くわからなかった。
石郷岡は黙って、全員の後に続いた。
*
館内に入ると、カッパが声を上げた。
「うわっ! これが本田さん? 凄くおじいちゃんになってる!」
写真の中の本田宗一郎は、白髪で、皺が深く刻まれた、老年の顔をしていた。
「そっただもんだ」
菊がしみじみと言った。
「本田の旦那が世に出だのはカブ作ってからだもの。だいぶ遅咲ぎの技術屋だはんでなぁ。あんた達と出会った頃ぁ、もう三十代の後半だったんだぉ」
カッパとラーナは写真の前から動かなかった。
しばらくして、カッパの目から涙が一筋、流れた。
ラーナも、唇をきゅっと結んで、目を赤くしていた。
石郷岡は、その光景を眺めながら、首を傾げた。
(なぜ、泣いている……?)
他の部員たちは、誰も不思議そうにしていなかった。
キーコンはただ静かに立っていた。ボーアは古いバイクの展示を見ながらも、時折二人の方を気にしていた。京子先生は目を細めて、何かを噛みしめているような顔をしていた。
伝承館のスタッフが菊に近づいてきて、深々と頭を下げた。
「菊さん、お久しぶりです。お変わりなく……」
「んだ、ありがとうなぁ。また来てしまったぞぃ」
顔見知りだった。
スタッフが菊に向ける目は、単なる常連客への挨拶ではなかった。もっと深い、何かを含んだ眼差しだった。
石郷岡はますます混乱した。
*
カッパとラーナが展示バイクの方へ移動したところで、菊が石郷岡の袖をそっと引いた。
「石郷岡の旦那……ちょっと良いがの」
菊は石郷岡を部員たちから少し離れた場所へ連れ出した。
そして、声を潜めた。
「あの子だぢぁな……本田の旦那の隠し子の子なんだぉ。どうか察してけねが。……してな、わだすぁ、本田の旦那の愛人だったんだよ」
石郷岡は固まった。
「は?」
「内緒だぉ」
菊はにっこりと笑った。
石郷岡はしばらく、何も言えなかった。
今回の視察で一番驚いた。
オイル切れよりも。パンクよりも。カレーヌードルよりも。
だが、確かに、これでこの重々しい空気感の正体が——なんとなく——理解できた気がした。
(そうか……本田宗一郎のDNAが、あの行動力の正体か。彼女らがバイクに乗るのは当然の流れだったわけか……)
静岡のバイパスを颯爽と抜け、オイルが切れればホームセンターへ走り、パンクすれば自転車屋を探し出した。あの底知れない実行力の根っこに、本田宗一郎という偉人の血が流れていたのか。
石郷岡は深く、深く、納得した。
(……ん? それにしては、カッパさんがSUZUKIで、ラーナさんはYAMAHAじゃないか)
石郷岡は首を傾げた。
(……あ、そうか。愛人の孫だと悟られないための、カモフラージュか……!)
石郷岡はひとりで完璧に合点がいった。
菊だけが、石郷岡の横で、ほくそ笑んでいた。
*
本田宗一郎ものづくり伝承館を後にして、一同は「スズキ歴史館」へ向かった。
館内に入った瞬間、カッパが変わった。
伝承館では終始しおらしく、涙を拭いながら古いバイクを眺めていたあのカッパが——突然覚醒した。
「SUZUKIに敗北の二文字は無い!!」
「カッパさん、声が大きいですよ」
京子先生が小声で制したが、カッパは全く聞いていなかった。
目が輝いていた。頬が紅潮していた。足早にあちこちの展示を見て回り、次々と写真を撮っている。
(な、なぜ……さっきまであんなに大人しかったのに……)
石郷岡が戸惑っていると、周囲を見渡して、気づいた。
館内の至るところに、カッパと同じ目をした人間がいた。
老若男女、様々な年齢の来館者が、展示バイクの前で同じような顔をして、同じような声で騒いでいた。
(これが……スズ菌に感染するということか)
石郷岡はゆっくりと理解した。
(麻薬よりも危険かもしれない……)
そして、ふと、石郷岡の脳内で何かが切り替わった。
(待て。このスズ菌こそ、我々教育委員会の真の敵ではないのか?)
今まで石郷岡の警戒対象は「ヨンキュウ部」だった。しかし目の前に広がっているのは、日本全国から集まったスズ菌感染者の群れだった。規模が違う。深度が違う。
石郷岡はミュージアムショップへ目を向けた。
様々なSUZUKIグッズが並んでいる中で、一つのラバーキーホルダーだけが、異様な勢いで売れていた。
「SUZUKI 刀」のキーホルダーだった。
(刀……)
石郷岡の額に、じわりと汗が滲んだ。
(刀のキーホルダーだけが、他のグッズよりも圧倒的に売れている。これは……スズ菌感染者たちの、クーデターへの意志表示ではないのか? 何か、行動を起こすつもりなのか?)
石郷岡はそっとメモ帳を取り出して、書き留めた。
「スズキ歴史館・刀グッズ・異常な売上・要調査」
(もはや、これは教育委員会という話ではない……公安……いや——)
石郷岡の目が、静かに据わった。
(——別班案件なのでは?)
石郷岡は文化庁へ帰還した後、このスズキ歴史館を徹底的に調査することを、心の中で固く誓った。
その傍らで、カッパはラバーキーホルダーのコーナーを隅から隅まで探し回っていた。
「モレのキーホルダー……ない……」
カッパは肩を落として、しょんぼりとした顔でショップを後にした。
*
スズキ歴史館の次は、浜名湖の弁天島へ寄った。
赤い鳥居が湖の水際に立っていた。ゆるキャンでキーコンが聖地として挙げていた場所だった。
「本当にある……!」
キーコンが目を輝かせた。
夕日が弁天島の鳥居を赤く染めた。
一同はしばらく、その光景をぼんやりと眺めた。
石郷岡は湖に映る鳥居を見ながら、今回の視察のことをぼんやりと思い返していた。
長かった。
疲れた。
カレーヌードルが美味かった。
本田宗一郎の隠し子のことは、墓場まで持っていこうと思った。
スズキ歴史館の件は、別班に委ねることにした。
それで、ちょうど良かった。
*
アハロに帰還したのは、夜営業が始まったばかりの時間だった。
引き戸を開けると、店内は暖かく、コーヒーの香りがした。
カウンターの奥から、モト子が顔を上げた。
その瞬間、モト子の目が——猛禽類のように——輝いた。
「いらっしゃいませ! 店主のモト子です〜♡ カッパ、この方は?」
「石郷岡さん! 変なオジサン!」
「まあ、変なオジサンだなんて、本当に失礼な子!」
モト子はカッパをさらりと一刀両断してから、石郷岡へにっこりと笑いかけた。
「ところで石郷岡さん、ご結婚は?」
石郷岡は少し照れながら、左手を上げた。薬指にリングが光っていた。
「まあ、一応……」
モト子の目が、すうっと冷めた。
次の瞬間。
「チッ!」
小さいが、明確な舌打ちが聞こえた。
モト子はくるりと背を向けて、カウンターの中へと戻っていった。
石郷岡がきょとんとしていると、カッパが耳打ちした。
「うちの店長は独身男性以外と会話すると死ぬ病気なんだってさ」
その一言で、場が弾けた。
ラーナが笑い、キーコンが笑い、ボーアが机を叩いた。
菊は肩を揺らして笑い、京子先生は口元を手で隠しながら笑っていた。
石郷岡は一瞬だけ固まってから——つられて笑った。
(こんなに腹を抱えて笑ったのは、いつ以来だろう……)
思い出せなかった。
モト子は何事もなかったように淡々とグラスを磨いていた。
カウンターの中で、完全に仕事モードに切り替わっていた。
それがアハロのいつもの夜の光景だった。
店前の二門の高射砲が、寒空の中、冷たく月明かりに照らされていた。
本田宗一郎ものづくり伝承館(浜松市):
本田技研工業の創業者・本田宗一郎の足跡と「ものづくりの精神」を伝える施設。1948年の本田技研設立から始まるHONDAの歴史と、宗一郎自身の人間像が丁寧に展示されています。
スズキ歴史館(浜松市):
スズキ株式会社が運営する企業ミュージアム。創業からの二輪・四輪の歴史が一堂に展示されており、全国各地からスズ菌感染者……もとい、スズキ愛好家が訪れる聖地です。なお、刀(KATANA)シリーズのグッズが異常に売れているかどうかについては、文化庁による調査結果をお待ちください。
弁天島(浜名湖):
浜名湖に浮かぶ小島。赤い鳥居が湖の水際に立つ景色が有名で、ゆるキャン△の聖地としても知られています。




