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k-73 第二十二条(第一項)




 身延駅前に、カッパと菊と京子先生と石郷岡(いしごおか)の四人が到着したのは十五時三十分だった。


「あ、いた!」


 ラーナが手を振った。

 モルフェのリアキャリアには見事に荷物が積み上げられていて、キーコンとボーアもすでにバイクに跨って待ち構えていた。


「遅かったじゃん! 聖地巡礼、とっくに終わったよ?」


「砂金掘りが予想以上に面白くてね……」


 カッパが頭をかいた。


「菊ちゃんに金歯を作ってあげたくて、砂金掘りしてた!」


 一同が大笑いした。


「なんで金歯!」


「だってほら、田舎者のシンボルって言えば金歯だべ」


 菊が誇らしそうに言うと、また笑いが起きた。


 石郷岡だけが、力なく笑っていた。

 笑う元気があるかどうか、という状態だった。


(原付は疲れる……カッパさんが朝に言っていた。なるほど、これほどとは思わなかった)


 笠寺を出た朝の四時が、もう遥か彼方のことのように感じられた。


   *


 国道三〇〇号の本栖みち——通称「甲州いろは坂」——を登った。

 急勾配とカーブが延々と続き、紅葉の残りが夕日に赤く染まっていた。美しいとは思った。思ったが、それを味わう余裕が石郷岡にはなかった。


 十六時十五分、中之倉トンネルを抜けた。


 その瞬間だった。


 トンネルを出た先に、本栖湖が広がっていた。

 湖の向こうに富士山が、夕暮れの空を背景に大きく、静かに立っていた。


「……」


 石郷岡は思わずK50を停めた。

 言葉が出なかった。


 ラーナが隣に並んで、静かに言った。


「良いね。ここ」


「ああ……」


「私も初めて原付旅をした時に感動した景色って、何も言えなかったよ」


 ラーナは少しだけ誇らしそうに笑って、先へ走り出した。


 石郷岡は今日一日の疲れを忘れて、もう少しだけその場に立ち続けた。


   *


 浩庵キャンプ場に着いたのは、十六時ちょうどだった。


 ラーナとキーコンとボーアはすでにテントを設営し終えて、インスタントコーヒーを飲んでいた。聖地巡礼を終えた三人は余裕綽々だった。


「カッパたち、遅かったね」


「砂金掘りが面白かったんだよ! って、さっき言ったじゃん!」


「アハハ。金歯の分は採れたの?」


「採れてない!」


 全員でまた笑った。


 石郷岡は笑いながら、自分のテントを広げ始めた。


 ところが。


 テントを広げたのはいいが、どこから手をつければいいのか、全くわからなかった。


 同封されていた説明書を取り出してみた。紙切れ一枚に、簡単なイラストで手順が書かれているだけだった。


(これで組めというのか……)


 安物のテントだった。石郷岡は自覚していた。急いでネットで買ったのがまずかった。


 そんな石郷岡を見かねた京子先生が近づいてきた。


「あ、そのポールを先に一本に繋いだ方がいいですよ。そして、ポールが二本になったらクロスして、内テントをポールに吊り下げるだけです」


「な、なるほど……」


 京子先生に教わりながら、なんとかテントを張り終えた。


 石郷岡はその場でへたり込んだ。


 疲労がピークだった。もう限界だった。腕が、足が、背中が、全部一斉に重くなった。


 京子先生がそっと声をかけた。


「石郷岡さん、もう眠った方がいいんじゃないですか。相当、つらそうですが……」


 石郷岡が腕時計を見ると、まだ十七時を回ったところだった。

 それでも、石郷岡は無言でうなずいた。


 テントにもぐり込んで、シュラフを引き寄せた。

 外ではまだ皆の声がしている。焚き火の支度をしているらしかった。


(原付は疲れる……)


 カッパが朝に笑いながら言っていた一言が、頭の中でゆっくり繰り返された。


 石郷岡は泥のように眠った。


   *


 目が覚めると、辺りが静まり返っていた。


 テントから這い出すと、本栖湖の湖面に星が映っていた。

 時計を見た。深夜の二時だった。


(こんな時間か……)


 他の面々のテントはすべて静かだった。焚き火は炭になって、かすかに赤い光を残している。


 石郷岡は立ち上がりかけて、足元に気づいた。


 自分のテントの前に、カレーヌードルが一つ置かれていた。

 横に小さな付箋が貼ってあった。


「おじさんへ。起きたら食べてね。コンロそこにあるから。 ——カッパ」


 石郷岡はしばらくその付箋を眺めた。


「……そういえば、腹が減った」


 コンロを借りて湯を沸かし、カレーヌードルに熱湯を注いだ。

 三分後、石郷岡は寒空の下でカレーヌードルを啜った。


「美味い……」


 湖の向こうに富士山の黒いシルエットが浮かんでいた。


 夢中で食べた。あっという間に完食した。


 石郷岡は湖を眺めながら、今日一日のことを、静かに思い返していた。


   *


 豊橋付近で夜が明けた瞬間、ハンドサインだけでラーナとカッパが先頭を入れ替えた。

 石郷岡は、その動作の意味を後になってようやく理解した。


 静岡のバイパス群。原付一種が通行できない区間だらけの道を、ラーナが四組に分けて走った。

 石郷岡はカッパの後ろをついていくだけで精一杯だったが、それでも、ラーナが先行するボーアに抜け道を丁寧に教えながら全員を導く様子は見えていた。


 ツーストオイルが切れた。カッパはすぐにホームセンターを検索して走り、十分で戻ってきた。

 パンクした。カッパはすぐに自転車屋を検索して案内した。


 全員が、問題に直面した瞬間、動いた。

 狼狽える者が一人もいなかった。


(これは経験値の差などではない——)


 今日、自転車屋の前でそう思った言葉が、また浮かんできた。


 免許を取らせない。

 それが三ない運動の建前だ。

 安全のため、教育のため、という大義名分で、長い年月をかけて積み上げてきた慣習だ。


 だが、今日、石郷岡が目にしたのは何だったか。


 十六歳の少女が、土地勘のない静岡の街で、バイクのフォーメーションを組み、オイルを補充し、パンクの対処を指示し、後輩を案内した。


 免許を持っているから、できた。

 乗ってきたから、できた。

 走ってきた時間が、そのまま実力になっていた。


 もし、三ない運動が続いていたら——。


 石郷岡の頭の中で、一つの条文が浮かんだ。


【第二十二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する】


 日本の法律では、十六歳から原付免許が取れる。

 それは事実だ。法律が認めていることだ。


 ところが三ない運動はその権利を、高校生から事実上、奪ってきた。

 免許を取らせない。乗らせない。


 では、高校生はカブに乗れない。

 カブに乗れないということは——新聞配達のバイトができない。郵便の補助もできない。カブを使う仕事すべてに、高校生のうちから就けなくなる。


 それは、職業選択の自由を奪っていることではないか。


 石郷岡は、そこまで考えて、背筋が冷たくなった。


(もし、日本全国の高校生が集団訴訟を起こしたら……)


 間違いなく三ない運動は即時撤廃されるだろう。

 さらに言えば、過去に遡って被害者への賠償問題に発展するかもしれない。

 そうなれば教育委員会自体が——。


 石郷岡はそれ以上、想像するのをやめた。


 ヨーロッパでは、多い国で高校生の四十パーセントが原付免許を持っているという。十代のうちから国境を原付で越える若者も珍しくない。


 日本の三ない運動など、ヨーロッパから見ればナンセンスの一言だろう。


 石郷岡は深夜の湖畔で、カレーヌードルの空容器を手の中で転がしながら、静かに結論を出した。


 Vタックに促されるままに視察に来て、本当に良かった。


 あのヨンキュウ部の部員たちを、自分の目で見られて、本当に良かった。


 石郷岡は再びテントにもぐり込んだ。


(明日もハードな一日になる……)


 そう思った瞬間には、もう眠っていた。


   *


 翌朝、六時。


 朝もやに煙る本栖湖と、千円札の裏の「逆さ富士」を拝んで、一同は浩庵キャンプ場を後にした。


 荷物の積み込みをしていたラーナに、一人の少女が声をかけてきた。


「おはようございます。このスクーター、ビーノなの?」


 ラーナはその少女が同世代と見て、すぐに笑顔で答えた。


「うん! ビーノの姉妹機のビーノモルフェ! カゴのついたビーノ!」


「私もビーノで来たんだ! ほら、あそこの水色のビーノ」


 少女が指差す先に、爽やかな水色のビーノが停まっていた。お互い同世代だったのですぐに自己紹介をして仲良くなった。


「伊勢リンのビーノって限定カラーだよね? すごく人気あるやつだ!」


「うん! でも、カゴのついたビーノがあるなんて知らなかったよ。それに、こんな便利なリアキャリアが付いてるんだね。良いな〜」


「あ、このリアキャリアは私が設計して、あそこのモンキーに乗ってるキーコンが作ったんだよ! もうすぐ浜松のショップで売ると思うから、簡単に買えるようになるよ!」


 伊勢リンと名乗った少女は目を丸くした。


「ねぇねぇ! ラーナって何者なの? どうしてリアキャリアなんて自作できるの?」


「私は原付の部活の部長なの!」


 ラーナはドヤ顔で答えた。


「原付の部活? 嘘でしょ?」


「本当だよ? ほら、あそこのMBXの人が顧問の先生。私は夜間学校だから免許が取れたんだ。四十九ccの部活だから、四十九部——ヨンキュウ部って言うんだよ。名古屋まで来ることがあれば声かけてよ!」


「うん! 必ず声かけるよ。荷造り中にごめんね!」


 二人はLINEを交換した。

 伊勢リンは自分のテントへ戻っていった。


 ラーナはモルフェのハンドルを握りながら、その背中を見送った。


「良いビーノに乗ってた」


 それだけ言って、スタートの合図を出した。


   *


 帰路は、来た道を逆に戻った。


 国道三〇〇号の豪快なダウンヒル、富士川の雄大な流れ、由比の薩埵峠、安倍川橋、宇津ノ谷峠の旧道——。

 原付泣かせの静岡を、今度は南へ向かって走り抜けた。


 大井川を越えたあたりで、石郷岡が少しだけ遅れ始めた。

 カッパが後方を確認して、速度を落として並んだ。


「オジサン、大丈夫?」


「……まあまあだ」


「無理しないでね。浜松まで、もう少しだから」


 カッパはそれだけ言って、石郷岡の斜め前をゆっくり走り続けた。

 先導でも追走でもない、ちょうど良い距離だった。


 掛川を過ぎると、茶畑が広がった。

 夕日に照らされた茶畑の緑が、どこまでも続いていた。


 石郷岡は走りながら、その景色を、今度はちゃんと目に収めた。


   *


 浜松の「はまきたプラザホテル」に全員が到着したのは、十七時ちょうどだった。


 ロビーに荷物を下ろし、ヘルメットを脱いだ瞬間、石郷岡は深く息を吐いた。


 カッパが横に来て、ニッと笑った。


「オジサン、生きてた?」


「……生きてた」


「良かった。ご飯食べたら復活するよ。絶対」


 カッパはそう言って、さっさとラーナたちの方へ歩いていった。


 石郷岡はその背中を眺めながら、静かに思った。


 このヨンキュウ部を、守らなければならない。


 Vタックの教え子として。文化庁の調査官として。

 そして今日、一緒に走った一人の人間として。


 石郷岡は腕時計のベルトを少しだけゆるめて、ホテルの自動ドアをくぐった。








日本国憲法 第二十二条 第一項

「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」


三ない運動(免許を取らせない・バイクを買わせない・バイクに乗らせない)は、1970年代後半から日本の高校教育の現場に広まった慣習です。法的根拠のない「申し合わせ」であるにもかかわらず、長年にわたって高校生の原付免許取得を事実上阻んできました。16歳から合法的に取得できる権利を、教育の名のもとに制限し続けてきたこの運動が、憲法の定める職業選択の自由とどう向き合うのか——石郷岡が深夜の本栖湖畔で気づいてしまったのは、そういうことでした。



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