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k-53 あの日の夏

 菊の実家には女性しか住んでいなかった。


 菊の祖母であるアヤメ(六十六)。

 函館から疎開してきた坂本家の直(八十六)、嘉代(五十七)、直美(三十七)、リリン(十六)の四人。


 カッパとラーナはリリンと直美に出会った瞬間、腰が抜けるほど驚いた。


「リリーさん! 晴衣さん! どうして!?」


「え? 私はリリーじゃなくてリリンだよ?」


「ハルイは私の曽祖母ですが……」


 あまりにも夏休みに共に北海道で過ごしたリリーと晴衣にそっくりな二人を見て、カッパとラーナは唖然としていた。


「か、か、カッパ! これってリリーさんと晴衣さんのおばあちゃん……なんだよね……」


「うん……絶対にそう!」


 こうして、カッパとラーナの疎開生活が始まった。


   *


 十二月の横内の夜明けは漆黒だった。


 室温は氷点下で、吐く息が白くなる。


「……寒すぎて身体が凍りそうだよ。バゴーンと一瞬で部屋が暖まるエアコンが欲しい……」


 嘉代と直美が凍りついた囲炉裏に火を入れる間、カッパは防寒着を全部着たまま震えていた。


 朝食は糧飯だった。

 わずかな米に大根や野沢菜、干した山菜を混ぜたもの。

 八十六歳の直おばあちゃんには、まず一番温かいお椀が出された。


 雪かきが始まると、三沢の防寒着を着た三人が必死にスコップを振るった。

 一晩で五十センチ以上積もることもあると菊が言っていたが、本当だった。


「これ、ダイエットどころじゃないわね。全身筋肉痛よ!」


 薪の確保、配給所への往復、もんぺの繕い物、遮光カーテンの準備。

 女性だけの家で、やることは際限なく続いた。


 でも、夕飯の時間だけは違った。


 三沢の兵士たちが背負わせてくれた荷物を、嘉代が広げてくれた。


「こんな大きな鮭を三沢から背負ってきたのかい?」


「そうだよ。本当はヒメマスが欲しかったんだけど、新巻鮭の方が日持ちするんだって」


「よくこんなに兵隊さんも持たせてくれたわね。カッパちゃんには新巻鮭三本でしょ、ラーナちゃんにはお餅十キロでしょ、菊ちゃんにはお芋十キロ……よくここまで歩いてきたわね。三人とも偉かったわね」


 嘉代がそう言って三人を褒めてくれた。


 三人の乙女は、やっと報われた気がした。


「カッパさん、ありがとうね」


 直おばあちゃんが目を細めた。


 女たちの顔に笑顔が戻っていた。


 囲炉裏の火の周りで、直おばあちゃんが「龍馬伯父様」の話をポツポツと語り始めた。


 カッパには未来の歴史教科書の内容が頭にあった。

 でも直おばあちゃんの記憶は、教科書の言葉とは全く違う温度を持っていた。

 囲炉裏の火の中で、二つの時間が混ざり合っていた。


   *


 夜、四人の乙女が川の字に並んで寝ていた。


 外では地吹雪が「ゴー」と鳴り響いていた。

 窓がカタカタと揺れていた。


「明日は積もるかな?」


「積もるよ」


「二階から飛び込める?」


 カッパとラーナはニヤニヤしながら眠りについた。


   *


 翌朝、玄関が開かなくなっていた。


 カッパとラーナと菊とリリンは喜んで防寒着を着て二階へと上がった。


 菊がまず手本として、二階から真っ白の世界へダイブした。


 バフ!


 菊は直立状態で首まで雪に埋まっていた。


 続いてリリンも飛び込んで、菊の隣で首まで埋まった。

 二人がケタケタと笑っていた。


 そして、カッパとラーナが同時に飛び込んだ。


   *


 硬い。


 雪ではなかった。


 アスファルトの上に立っていた。


 二人は顔を見合わせた。


 見覚えのある鳥居がそこにあった。

 バイクを持ったライダーたちが行き交っていた。


「ここってバイク神社?」


「うん……バイク神社だね……それよりも暑い! 軍隊の防寒着が暑すぎてヤバい!」


 二人は急いで防寒着を脱いだ。


 夏の空気が二人を包んでいた。

 名古屋の夏の、あのベタついた空気だった。


 ポケットの中でスマホが眠っていた。

 久しぶりに電源を入れると、あの日の日付が表示された。


 過去へ飛ばされた、あの夏の日のままだった。


「あれは夢じゃないよね……」


「うん、だってあの日と違う服を着てるもの……」


「そうだよね……軍隊の防寒着だもんね……それに……」


 カッパが駐車場を指さした。


「モレが無いもん……」


「モルフェも昔に置いてきちゃった……」


 二人はしばらく、駐車場を見つめていた。


 モレとモルフェがいたはずの場所に、別のバイクが停まっていた。


 菊は今もあの雪の中で、首まで埋まったまま二人を待っているかもしれなかった。


 ラーナが母親に電話をかけた。


 ジリーノはすぐに来てくれた。


 フィアット500が大歳神社の前に停まると、カッパとラーナは助手席と後部座席に滑り込んだ。


 今まで堪えていた涙が、溢れた。


「二人とも、何があったの?」


 ジリーノが尋ねたが、二人は声を出せなかった。


 ジリーノは訳ありなことを察して、アハロへ向かった。


   *


 フィアット500がアハロの前に着いた。


「二人ともアハロに着いたわよ。何があったのかを話してちょうだい。二人のバイクは何処へやったの?」


 ジリーノに促されて二人が車から降りると、カッパとラーナは店前の高射砲を見上げた。


 夏の日差しを浴びた二門の高射砲が、陽炎の中に揺らいでいた。


 その瞬間、二人はますます泣いた。


 あの日の笠寺の格納庫が浮かんだ。

 傾斜に並んでいた高射砲が浮かんだ。

 陸雄が高射砲を空に向かって撃ち続けていた姿が浮かんだ。


 カッパとラーナが高射砲を見て泣き崩れていた。


 ジリーノは困惑した顔で二人を見つめていた。


 アハロの高射砲は、夏の光の中で静かに立っていた。


 いつもと同じ場所に、いつもと同じ姿で。


 でも、二人にとってはもう、ただの飾り物ではなかった。



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