k-51 わかさゆえ
青と白の世界を飛び続けていた百式の前方に、目的地が見えてきた。
その瞬間、三沢基地では高射砲が空へと向けられた。
カッパはそれに気づかず、インターコムで機内アナウンスを始めた。
「えー、こちら機長のカッパです。本日は『百式』にご搭乗いただき、誠にありがとうございます。えー、ただいま当機は、順調に青森県上空を巡航中です。三沢基地へは、あと数分で着陸態勢に入ります」
「当機は現在、最高速度……えーと、とにかく凄まじい速度で飛行しておりまして、えー、前方には白い滑走路が見えてまいりました。お客様におかれましては、えー、安全ベルトをお締めになり……」
「カッパ! 安全ベルトなんてないよ!」
「あ、そっか。えー、安全ベルトの代わりにお互いをしっかりと抱きしめてお待ちください。なお、当機は着陸の際、かなりの確率で真っ二つになる恐れがございます。万が一の際は、雪の中にダイブして、そのままかまくら作りに移行してください」
「アハハハ! かまくら作る気満々だね!」
菊が複座で大笑いした。
「それでは、着陸までもう少々お待ちください。本日は、この『雪だらけ』の三沢空港をご利用いただき、本当に……本当にありがとうございます!」
*
カッパが眼下を見て、困惑した。
「あれ? 変だな……あれが三沢基地? フライトシミュレーターとは全然違う!」
シミュレーターで見ていた三沢は、機能的でグレーのコンクリートが続く場所だった。
でも、眼下に広がる本物の三沢は、雪の中に無理やり切り拓かれた傷跡のようだった。
滑走路が見当たらない。
アスファルトがない。
あるのは真っ白な平原と、等間隔に突き刺された目印の杭だけだった。
格納庫もガラス張りの管制塔もなく、雪の重みに耐えた平屋の木造庁舎と、カモフラージュの網を被せた掩体壕が防風林に溶け込んでいた。
(ここで、本当に誰かが生きているんだ)
カッパの胸を突いたのは、シミュレーターでは決して再現できない、生活と戦争が混ざり合った圧倒的な生々しさだった。
その時、無線が入った。
「こちら三沢飛行場指揮所。正体不明機に告ぐ。貴機は当基地の管制圏内に無許可で侵入している。速やかに機番号と所属を明らかにせよ。応答なき場合は敵機とみなし、地上砲火を開始する!」
三人がギョッとした。
菊が咄嗟に無線を取った。
「私は三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所第十工場から逃げてきました! 撃たないで下さい!」
「君は女か!? 何故、女が新司偵に乗っている?」
「この百式には女の子しか乗ってません! 名古屋の笠寺は空襲で壊滅状態になりました!」
「なんだと!? 名古屋が? 少し待て!」
飛行指揮所では大人たちが確認作業に追われていた。
「あの新司偵を着陸させてもいいのですか? スパイの可能性もありますよ!」
「迎撃態勢のまま警戒を怠るな! 女が新司偵を操縦できるはずがない!」
しかし、名古屋の空襲が正しい情報であることが確認された。
「君たちの所属を言え! 即答出来なければ迎撃する!」
カッパは複座に無茶を承知で提案した。
「仕方ない! こうなったら海に胴体着陸しよう! 高射砲で撃たれるよりマシ!」
「待って! カッパ! 私に任せて! ここはクアトロ大佐を信じてみようよ! だって、これは百式なんでしょ?」
ラーナが無線を取った。
「迎撃するな! この席を借りたい!」
「議会の方と、この管制塔から見ている日本国軍人の方には、突然の無礼を許して頂きたい。私はYAMAHAのビーノ・モルフェを駆る者であります。私はかつてただの女子高生という名で呼ばれた事もある乙女だ。私はこの場を借りて、モルフェの遺志を継ぐ者として語りたい。もちろん、ただのラーナとしてではなく、YAMAHAモルフェの子としてである」
「YAMAHAモルフェの遺志は、メリケンのような欲望に根差したものではない。人が宇宙に出たのは、地球が人間の重みで沈むのを避けるためだった。人は長い間、この地球という揺り籠の中で戯れてきた。しかし! 時は既に人類を地球から巣立たせる時が来たのだ! その後に至って何故人類同士が戦い、地球を汚染しなければならないのだ!」
指揮所の小林中尉が困惑した顔で呟いた。
「……言葉の意味はよくわからんが、君たちが軍とは無関係の少女だと言う事だけはよく伝わった! 少し待て」
「司令! これはやはりただの女学生なのでは? 言動がかなり子供のものですが?」
「うむ。私にも子供の戯言にしか聞こえん! もしも、そうなら何故、あの子らは新司偵を飛ばせたんだ?……まあ、良い。会ってみればわかるだろ……」
「百式乙女! 降りてきても良いぞ。ウチの司令が優しい人で良かったな!」
「やった! 凄いよ! ラーナ!」
「ね? 百式は百年後でも飛べるんだもん! クアトロさんの言葉を信じてよかったね!」
*
しかし直後、指揮所に最悪の無線が届いた。
「あの〜、私、着陸を成功したことがありません……」
「「は?」」
「えっと、フライトシミュレーター……って言ってもわからないよね……えっと〜、あ!そうだ!模擬訓練しかした事がありません! しかも、その模擬訓練でも成功したことがありません!」
小林中尉と甲斐司令が頭を抱えた。
甲斐司令が小林中尉へ困惑気味に指示を出した。
「これは墜落の可能性も考えて燃料を使い切ってからの着陸だな。まずは燃料を全て使い切れ!」
小林中尉は神妙な面持ちで無線で語りかける。
「百式乙女! まずは燃料を使い切れ! 燃料が空ならもしも着陸を失敗しても炎上はしない! せいぜい機体が折れるくらいだ! だから、まずは燃料を使い切れ!」
「ここで旋回してても良いの?」
「そうだ! 我々が見えるところで旋回しろ! 無線も絶対に切るなよ!」
「あ! そうだ! 笠寺の基地から書類を預かってきたよ! 上から落とそうか? 着陸を失敗したら燃えちゃうかもしれないよね?」
「大丈夫だ! 必ず上手くいく! 着陸してから我々に渡してくれ!」
「は〜い!」
こうして、百式乙女の死の旋回が始まった。
*
「カッパ、燃料は沢山あるの?」
「うん! まだ五分の一も残ってる!」
「ずっと同じ方向で回ってると目が回らない?」
「大丈夫! 青と白しか見えてないから回ってる感覚もないや! ポルコはこんな風に不思議な空で豚になっちゃったんだよね……」
「そうだね。私たちもこのままだと豚になりそうだね……」
「どうして豚になるの?」
「わかんない! でも、ポルコはこんな風に不思議な空の上で豚になっちゃったんだよ。豚になったけど、飛行機乗りを続けたんだ。だから、飛べない豚はただの豚なの」
菊はカッパが映画の話をしているとは思っていなかった。
「カッパも豚になるの?」
「ならないよ! ポルコは好きだけど豚は嫌だよ!」
「カッパが豚になったらセイコーマートのカツ丼も食べられなくなるね!」
「え? 二人はカツ丼を食べたことあるの!?」
「菊、北海道では毎日がカツ丼なのだよ! 逆に北海道にはカツ丼以外のご飯はありませ〜ん!」
「え? 嘘でしょ? 絶対に嘘だよ……ね? ラーナ! カッパ! 嘘なんだよね?」
「菊ちゃん! 残念ながら本当のことだよ! ただし、函館だけはカツ丼じゃなくてやきとり弁当なんだよ!」
「やきとり弁当? どうしてお弁当に焼き鳥を入れちゃうの! それも嘘でしょ!」
「菊! やきとり弁当で驚いてちゃダメよ! 北海道には焼きそば弁当もあるんだよ!」
「あの焼いてない焼きそば? 焼いてない焼きそばのお弁当なの?」
指揮所の小林中尉が乙女たちのたわいもない会話を無線で聴きながら、切ない顔で呟いた。
「司令……あの子たち生きて欲しいですね……」
「そうだな……」
*
「ねぇねぇ、菊ちゃん! 青森の実家はどんなところ? 八甲田山ってスキー場とかある?」
「は? まさか八甲田山でスキーをするつもりなの?」
「ダメなの?」
「ダメではないけど……昔、兵隊さんが雪中行軍をしてて二百人が全滅した山だよ?」
「「は?」」
「そんな恐ろしい所が菊ちゃんの実家なの? 本当にそこに人は住んでるの!?」
「麓は大丈夫よ! まあ、大雪の日は家からも出られないこともあるけどさ!」
「嘘! ウソだよね?」
「本当だよ! 本当に雪が降りすぎて玄関から出られなくなることなんてよくあることだよ?」
「玄関から出られないならどうやって外に出るの?」
「二階からバフって飛び降りるの!」
「バフって?」
「そう! バフって! 首まで雪に埋まるから面白いんだよ!」
「菊、カッパ、早く帰ろう!」
「「帰ろう!」」
その時、小林中尉の声が無線に入った。
「えー、大変言いにくいのだが……君たちの遺言を聞いておかなくてはならないんだ……何か身内に遺したい言葉があればこちらできちんと録音してやる。燃料が尽きる前によく考えるように……」
三人は悩まず即答した。
「「「死にたくない!!」」」
*
甲斐司令がヤシマ飛曹長に出動を命じた。
すぐに九九式艦上爆撃機が百式の隣に現れた。
「着陸は隣で随伴飛行している九九式艦上爆撃機が教える! ヤシマ飛曹長から着陸のコツを習え!」
「99式だってさ。百式のお姉さんだね!」
「うん! 百式のお姉さんだ! あの子も二人乗りだ!」
「でも、99式の人は後ろに乗ってるよ? 前に誰も乗ってないね」
「お姉さんは後ろでも操縦できるのかな?」
「教官って言ってたから教習所の車みたいに助手席にもペダルが付いてるのかなぁ?」
「おい! 小娘たち! よくここまで飛んできたな! 早速だが滑走路は目視してるか? 雪で滑走路の境目が見えないだろ?」
「はい! ぜんぜんわかりません!」
「今、隊員たちが灰をまくからじきに見えるようになる! その前に着陸するための姿勢の練習をするぞ! 俺の後ろを着いてくるだけで良い! 余計なことを考えずに、ただ九九式の後ろだけ見て着いてこい!」
九九式の後ろに百式がピタリと並んだ。
「いいか、小娘! 地面を『踏む』と思うな! 雪の布団にそっと足を滑り込ませるんだ!」
前方の九九式がぐいと機首を下げた。
「カッパ、見て! お姉さんの足が……!」
次の瞬間、九九式のタイヤが雪煙をサッと跳ね上げた。
接地したかと思えば、機体はふわりと浮き上がり、再び高度を上げた。
「……触った? 今、地面に触ったよね!?」
シミュレーターでは、あんな風に触れた瞬間に機体は跳ね踊り、真っ二つになるはずだった。
でもヤシマの機体は、氷の上のスケーターのように滑らかだった。
「ぼんやりするな! 次はお前の番だ! 俺の描いたシュプールをなぞれ!」
カッパは震える手で操縦桿を押し、百式の鼻先を九九式の尾翼に釘付けにした。
後ろを向いたヤシマと目が合った。
その眼光が「怖がるな、俺を見ろ」と無言で語っていた。
「いくよ、百式ちゃん……お姉さんの真似して……!」
速度を落とし、フラップが風を孕んだ。
地表の白が、猛スピードで足元を流れていく。
ヤシマの機体が、再び雪面に「トン」と優しくキスをした。
その直後、カッパの足の裏に、機体を通じてかすかな振動が伝わった。
ザザッ。
雪を噛む、乾いた音。
「……当たった! 今、当たったよラーナ!」
「浮いて、カッパ! すぐに機首を上げて!」
スロットルを押し込んで、再び冬の空へ舞い上がった。
それを繰り返すたびに、カッパの恐怖は薄れていった。
ヤシマが何度も何度も雪面に美しい一文字の線を刻んでは浮き上がる。
その背中を追ううちに、カッパの体が地面との距離感を、数字ではなく音と振動で覚え始めていた。
「……よし、少しはマシな面構えになったな」
下には、兵士たちが命がけでまいた灰が、滑走路の輪郭をうっすらと描き出していた。
「さあ、仕上げだ小娘。次の一撃で、その銀色の腹を雪の中に沈めてやる。俺に遅れるなよ!」
九九式の主翼が大きく振られた。
*
「百式乙女! 燃料はどうだ?」
「もうそろそろガス欠です! もう降りても良い?」
「早く降りてこい! もうすぐ日が暮れるぞ。基地の飯は美味いぞ」
「俺の後に続け! 百式!」
「はい! 九九式!」
カッパは百式のエンジンを止めた。
突然、機内が無音になった。
「カッパ? エンスト? 早くエンジンを動かして!」
カッパは静かに深呼吸して、複座の二人に語りかけた。
「大丈夫! この子は速さ全振りな子なの。エンジンなんていらないのよ。久保さんが竹ひごでグライダーを作ってくれたでしょ? 完璧な設計の飛行機は動力がなくても飛び続けるのよ。鈴菌さんも言ってた。百式は最も美しい機体だって。九九式のようにふんわりと着陸するには動力なんていらなかったんだ! 今ならわかるよ! この子は何もしなくても自然の力だけで降りられたんだ! 鈴菌さんはそれを知ってたんだ。百式は百年後も飛べる! 理想的なフォルムだから百式は落ちない!」
ヒューン……
最速の戦闘機が、風切り音だけを纏って、静かに滑るように地面へと舞い降りた。
竹ひごで作った模型飛行機のように、ふんわりと。
三人には着地の瞬間がわからなかった。
気づいたら、百式は止まっていた。
百式が三人の乙女を優しく包み込んで、静かに三沢の雪原に降り立っていた。
*
九九式から飛び降りたヤシマ飛曹長が百式へ走ってきた。
「娘! 無事か?」
ハッチを開けた三人の顔が、眩しいほど笑顔だった。
三人が百式を降りると、ラーナがヤシマ飛曹長へ書類ケースを手渡した。
「これ、笠寺の基地の書類だそうです。フッ、認めたくないものだな、自分自身の若さ故の過ちというものを」
ヤシマが丁寧に敬礼してそれを受け取った。
三人の乙女もヤシマの真似をして敬礼して、微笑んだ。
三沢基地の雪原に、三人の乙女が並んでいた。
長かった一日が、ようやく幕を閉じた。




