k-22 週末に行こう!
梅雨の土曜日の夕方。
夕陽が本笠寺の古いアーケードを斜めに差し込んで、アスファルトを琥珀色に染め上げていた。
白いフィアット500が、細い路地をトコトコと進んでいく。
「……ねえ、お母さん。あそこ、見て」
助手席のラーナが指差したのは、かつて家電店だった「ベリーズホーエー」の色褪せた看板だ。
今はベトナムの国旗がはためいて、異国のスパイスの香りが漂うその建物の前を、フィアットはゆっくりと通り過ぎた。
「あら、懐かしいわね。昔はあそこで冷蔵庫やテレビを選んでいたのに。今はまるで、ドラマのセットみたいに寂れてしまったのね……」
ジリーノがハンドルを軽く切りながら微笑んだ。
すると、建物のすぐ先の植え込みに、夕日に照らされて怪しく、けれど愛嬌たっぷりに光る「それ」が現れた。
手書きの、カラフルな「飛び出し注意」のカエルたちだ。
「……ふふっ。カエルがいっぱい。私たちを歓迎してくれてるみたい」
ラーナが窓の外を見つめ、青い瞳を細めた。
カエルの看板の横を通り抜ける瞬間、フィアットのエンジン音が、カエルたちの合唱に応えるように小さく弾けた。
「カッパ、今頃アハロで準備してるかな。花さんの美味しい夕飯、待ちきれないよ」
「そうね。お腹を空かせたラーナとお母さんのために、きっと最高のディナーを用意してくれているわ」
*
フィアット500がアハロの前に停まった。
ジリーノとラーナが車を降りて、店の前を見上げた。
高射砲が二門、雨に濡れた石畳の横に鎮座している。
「随分、趣味がいい店ね」
「そうなの?」
「えぇ。この街は戦争中、空襲を受けてたのよ。まさにこの辺りにはこんな高射砲がたくさんあったのよ」
「へぇ〜。ここが空襲されたなんて知らなかった〜」
「まあ、貴女たちがそれを知る必要も無いのかもしれないわね」
二人は意気揚々と引き戸を押した。
*
「カッパ!」
ラーナが声を上げた。
ちょうどカッパがカウンターの中でエスプレッソマシンに向かっていた。
真剣な顔で、慎重にラテ・アートを描いている。
ラーナは、友達の働く姿に釘付けになった。
あの無口でどこか人見知りだった女の子が、今はきびきびとした動きでカウンターの中に立っている。
「ラーナ。邪魔しちゃダメよ。さあ、席に座りましょう」
ジリーノに促されて、二人はテーブル席に着いた。
モト子がメニューを渡した。
「ラテを二つ。食前にお願いします」
ジリーノがメニューを見る前にオーダーした。
モト子がカッパにオーダーを通すと、カッパは笑顔で頷いてエスプレッソマシンを動かし始めた。
やがて完成したラテが、二人の前に運ばれてきた。
カップの上に、カエルとオタマジャクシのラテ・アートが描かれていた。
「ママ! 凄い! カッパが描いたんだよ!」
「凄いわね。貴女の友達は。同い年なのに、もうこんなことができるのね〜」
二人はラテを飲みながら、忙しそうに動き回るカッパを目で追った。
*
メニューを眺めていたジリーノが、店内の黒板を見た。
日替わりディナーAは「イワシハンバーグ」、Bは「せんべい汁」と書かれていた。
「ラーナ、今夜はイワシのハンバーグみたいだね。どうする?」
「ねぇ、ママ、せんべい汁って何?」
「さあ? お煎餅が入ったスープかしら? 何かの罰ゲームで食べるものかしらね?」
その会話を聞いていたモト子が、すかさずテーブルに来た。
「お煎餅と言っても、よく見る米菓の煎餅ではなく、鍋に入れるための特別なお煎餅なの。それから、このせんべい汁にもイワシは使われていますよ」
「え? AもBもイワシ料理なの?」
「そうなんですよ。でも、親子で頼むならせんべい汁がオススメよ。これは青森県の郷土料理だから、もう二度と食べられないかもしれませんから」
「それじゃそれにします。二つお願いします」
*
しばらくして、料理が運ばれてきた。
二つ頼んだはずなのに、大きな土鍋が一つ、どんとテーブルに置かれた。
「汁って書いてたのに鍋だった!」
「本当にビックリね。でも、凄く美味しそう……」
料理を運んできたカッパが説明した。
「具材のオカワリは自由だからね。まだ食べられるならオカワリしてね。せんべいも足りなければどんどん追加して良いからね! それと、〆の時は呼んでくれたら最後は味噌煮込みうどんにするから、〆の時も必ず呼ばなきゃダメだよ!」
二人は土鍋をじっと見つめた。
鍋の縁に塗られた八丁味噌の練り味噌が、ふつふつとした湯気の中で焦げた香りを立ち上らせている。
大粒の牡蠣、名古屋コーチンの切り身、ふわふわのイワシつみれ、白菜と長ねぎ。
そして、スープの中でじっくりと旨味を吸い込んでいる、おつゆ煎餅。
「……ちょっと待って。これ、汁ってレベルじゃないわよ! 完全なる『要塞』じゃない!」
ラーナが身を乗り出した。
「本当ね……。でも、この味噌の焼ける匂い、抗えないわ……」
ジリーノが震える手で蓮華を取り、土手を少し崩してスープを一口啜った。
「…………っ!!」
二人の顔が、同時に跳ね上がった。
「……何これ、濃い! なのに、後味がすごく綺麗! 牡蠣のミルクが味噌に溶け出して、脳に直接『旨い』って信号が送られてくるんだけど!」
ラーナが叫びながら、大粒の牡蠣を頬張った。
ぷりっと弾けた瞬間に溢れる、海の精髄。
「……この『おつゆ煎餅』。……すごいわ。……味噌を吸って、外はとろっとしてるのに、芯にはちゃんと歯ごたえが残ってる。まるで計算され尽くした精密部品のよう……」
名古屋コーチンの弾力ある肉質、ふわふわのイワシつみれ。
それらをクタクタになった白菜が優しく包み込む。
守口大根のシャキシャキ感が、濃厚な味噌の重奏を絶妙にリセットして、次の一口への加速を促す。
「ああっ、もう無い! せんべい、どこに行ったの!? 私の胃袋が、もっと具材を投入しろって叫んでる!」
ラーナが空になった取り皿を掲げて、カッパを呼んだ。
「カッパちゃん! オカワリ! 牡蠣と、せんべいと、あとそのイワシのつみれも全部追加して! 私、今日ここで完食されるまで帰らないから!」
「……私も。……この味噌の土手、全部崩して、最後まで味わい尽くしたいわ……」
カッパが追加の具材を運んで来た。
二人は示し合わせたかのように、一気に鍋へ投入した。
ガレージに響くのは、土鍋のぐつぐつという音と、二人の歓喜の声だった。
*
何度目かのオカワリを経て、ようやく二人が〆のオーダーをした。
「カッパ、〆をお願い! もうお腹いっぱいだけど、うどんも食べてみたい!」
カッパがうどんを用意して鍋に投入した。
具材のすべてのエキスが溶け出した漆黒のスープに、太めのうどんが沈んでいく。
せんべいから溶け出した小麦の成分がスープにとろみをつけていて、うどんにこれでもかというほど絡みつく。
最後に生卵をポトンと落として、半熟になったところで完成だ。
「……嘘でしょ。お腹いっぱいのはずなのに、この香りで胃袋が強制再起動したんだけど……!」
ラーナが身を乗り出して、半熟の卵の黄身に箸を突き立てた。
トロリと溢れ出した黄金色が、味噌を纏ったうどんに絡みつく。
「…………っ!!」
「……何これ、濃縮の極み……! 鶏も、イワシも、牡蠣も……全部の『エキス』がうどんに吸い込まれてる!」
「……卵。……この卵が、凶暴な味噌をマイルドに包み込んで……最高。……ダイエット? なにそれ、美味しいの?」
最後の一滴、一欠片のおつゆ煎餅までを浚い尽くした時、二人の手から同時に箸がポトリと落ちた。
「………………動けない」
ラーナが椅子の背もたれに深く体を預けて、天井を見上げた。
「……私も。……指一本、動かしたくない。……このままアハロの床で寝かせて……」
ジリーノがテーブルに突っ伏した。
*
「……ラーナ、日替わりディナーにはデザートもつくんだけど平気?」
カッパが空になった土鍋を下げながら微笑んだ。
それを聞いた二人は本気で悩んだが、断る決心がつかなかった。
「「いただきます」」
声を揃えて答えた。
すぐに運ばれてきた濃厚なバニラアイスを、二人は口直しにゆっくりと食べた。
「最後にアイスクリームなんて、本当に気が利いてるわね。この店は本当にレベルが高いのね。また来週もここに来ましょうか!」
「うん! 来週の旬な食材が今から楽しみだよ! でも、本当に食べすぎて動きたくないね!」
「本当にそうね。このまま横になりたいわ〜」
それを聞いたカッパが、二人に告げた。
「ラーナ、今夜なら二階の個室が空いてるから泊まれるよ?」
「は? 泊まれるってどういうこと?」
「ここはカフェと宿もやってるのよ。今夜なら個室が空いてるの。泊まってけば? ゴールデンウィークにリフォームしたばかりだよ!」
「本当に泊まれるの? おいくら?」
「二人で四千円。一人二千円なんだ。原付で来てくれたら五百円なんだよ! 凄い安いよね」
「ママ! 泊まりたい! ねぇ! お願い!」
ラーナがせがんだ。
ジリーノが少し考えてから、カッパに提案した。
「カッパちゃん、今夜はラーナと二人で泊まってくれる? 私は帰るけど、ラーナはここへ置いてくわ。明日の朝、また迎えに来るわね」
「え? 私がラーナと?」
「うん! それが良い! カッパ! 二人で泊まろうよ!」
「うん、そうだね! 実は私もここの宿には泊まったこと無かったから泊まりたい! 店長に聞いてくる!」
*
こうして、その夜はカッパとラーナが二階の個室へ泊まることが決まった。
ジリーノが帰ると、ラーナは梅雨で閑散としたアハロの中を一人でウロウロし始めた。
二階のロビー。
三階の屋根裏部屋の女子エリア。
ハンモック。
ガレージの端っこ。
「このハンモック、最高……!」
ラーナが屋根裏のハンモックに寝転んで、天井を見上げた。
古い町工場の倉庫だったはずの空間が、今は柔らかいハンモックとベッドで満たされている。
(カッパって、こんな場所で働いてたんだ)
ラーナは、カッパが学校の話をほとんどしない理由がわかった気がした。
学校より、ここの方がずっと豊かな世界だ。
夜九時を過ぎると、カッパの勤務が終わった。
二人はアハロの客室用の浴衣に着替えて、二階の個室へ入った。
リフォームされたばかりの白い壁。
清潔なベッドが二つ。
窓の外では、梅雨の雨がしとしとと降り続けている。
ラーナがベッドに飛び込んで、天井を見た。
「ねえ、カッパ。こんな友達と泊まる夜って、初めてだよ」
「……私も」
カッパが静かに言った。
「あのさ、正直に言うと、私、友達って作り方がよくわからなくて。ずっと一人だったから」
「私も似たようなもんだよ。転校が多かったから、いつも途中で終わっちゃうんだよね、友達」
二人は天井を見上げたまま、しばらく黙っていた。
雨の音が窓を叩く。
「……ねえ、カッパ。来週も来て良い?」
「いつでも来て」
「じゃあ、毎週来る」
「来い来い」
ラーナが笑った。
カッパも笑った。
梅雨の夜が、二人の笑い声を静かに包んでいた。
アハロの二階の個室に、梅雨の閑散期をほんの少しだけ明るくする灯りが、夜更けまで灯っていた。
FIAT 500 1.2 8V
型式 31212
最高出力 69ps / 5,500rpm




