k-21 梅雨に唱えば
とうとう笠寺にも梅雨が来た。
原付通学をしているカッパにとって、一年で最も辛い季節だ。
それでもカッパは、雨合羽を着てモレで通学していた。
今更、電車で通うという選択肢は、カッパの中には存在しなかった。
*
梅雨の水曜日。
学校の駐輪場にモレを停めて、雨合羽を脱いでいると、背後から声がかかった。
「貴女、カッパなのに合羽を着てるんだね。ウフフ。凄く面白いね」
振り返ると、金髪の美少女が微笑んでいた。
一年A組の、ラーナだ。
入学式の日から気になっていたクラスメイトだが、まだ一度も話したことがなかった。
「うん、雨の日でも合羽さえあれば平気なの」
カッパはクラスメイトと初めて会話することに戸惑いながらも、なんとか答えた。
「私はラーナ。貴女はカッパって言うんだよね? せっかく同じクラスなんだし、仲良くなって貰えるかな?」
「え? 私が!?」
「ダメ?」
「べ、別にいいけど……」
「貴女は家は遠いの?」
「笠寺駅の近く」
「結構遠いんだね。私も隣の緑区のオオタカだよ」
「あ、そうなんだ。それじゃ電車通学?」
「普段はお母さんが車で送り迎えしてくれるの。お母さんの都合が悪い時だけ電車だよ」
二人は一緒に教室へと入っていった。
カッパは初めてクラスメイトと仲良くなったことが、少しだけ嬉しかった。
*
昼休みになると、二人は一緒にお弁当を食べることになった。
カッパが机の上に花の手作り弁当を広げた。
ラーナはコンビニで買ってきたパンを取り出した。
弁当箱を開けると、今日は入梅イワシの蒲焼弁当だった。
カッパは数日前の、アハロでの会話を思い出した。
宮満鮮魚店の店主が、大きな声で花に話しかけていた。
「花ちゃん! 今、イワシが捕れ過ぎて値がつかないんだよ! またアハロなら上手く使ってくれるんじゃねぇかと思ってよぉ〜」
「イワシならいくらあっても困らないからモト子さんの許可さえあればいくらでも持ってきてもいいですよ!」
「さすが花ちゃん! 話が早い! 早速モト子さんに交渉してみるよ! トラック一台分届けるぜ!」
(あの時のイワシだ! 宮満さんは今はイワシの旬だって言ってたなぁ)
弁当箱を開けると、大葉の緑と紅生姜の赤が、地味なはずのイワシを鮮やかに彩っていた。
甘辛いタレの匂いが、教室に広がった。
早速食べようとすると、ラーナがお弁当をガン見していた。
「一口食べる?」
ラーナが何度も頷いたので、カッパが弁当箱ごと手渡した。
ラーナが一口食べた瞬間、碧眼がカッと見開かれた。
「…………っ!?」
生臭さが、微塵もない。
あるのは、梅雨の時期特有のとろけるようなイワシの脂の甘み。
それが甘辛いタレと絡み合って、口の中で広がった。
「……な、何これ。……ふわっふわ。……え、これ本当にイワシ? マジで?」
一口噛むたびに、タレの染みた白米が欲しくなる。
ラーナの箸が止まるどころか、どんどん速くなっていった。
「ちょっと、ご飯……! このタレの染みたところ、最高……! 大葉の香りが鼻に抜けて、全然くどくない!」
パクッ、モグモグ、パクッ。
普段はコンビニのパンしか食べていないはずの彼女が、周囲の視線も忘れて無心でカッパの弁当を食べ進めていた。
イワシ、ご飯、卵焼き、筑前煮。
その完璧なバランスに、ラーナの手が止まらない。
「……ふぅ。……あ」
気づいた時には、弁当箱の中身が半分消えていた。
ラーナが、口角に一粒の胡麻をつけたまま、顔を真っ赤にして固まった。
「……ごめん。……私、何やって……」
「アハハ、ラーナ。私の分まで食べちゃってるじゃん!」
ラーナがハッとして、自分のパンをカッパに差し出した。
カッパがパンを受け取ると「今日は交換だね」と言ったので、ラーナも心置きなく残りの蒲焼弁当を平らげた。
「これ自分で作ってるの?」
「まさか! 私のバイト先のコックさんが毎日作ってくれるの」
「バイトしてるの?」
「うん。笠寺のI have a low exhaustって店。店名が長いから、よくアハロって呼ばれてるんだ」
「ふ〜ん。じゃあ、その店に行けばまたこの蒲焼が食べられるんだね?」
「この蒲焼はメニューには無いよ?」
「え? なんでさ! こんなに美味しいのに」
「なんか今、イワシが捕れ過ぎて値がつかないって魚屋さんが言ってたから、うちのコックさんが日替わりメニューでイワシを使ってるんだよ。日替わりだから、明日にはもう無くなってるんだよね〜」
「そ、そんなぁ〜」
「でも、魚屋さんがトラック一台分のイワシを持ってくるって言ってたから、頼めば作ってくれるかもね」
「そうなの? それなら近いうちにお母さんと行ってみようかな? カッパは毎日働いてるの?」
「週末だけだよ。九時から二十一時まで働いてるの」
「随分、長丁場だね」
「うん。でも、ランチタイムが終わったら夜営業までは家に帰っても良いからずっと店にいる訳じゃないんだ」
「それなら楽だね。今度の土曜日にでもお母さんと夕飯を食べに行くね!」
「うん! 来て!来て! アハロはイワシ以外も美味しいからさ!」
*
翌木曜日。
この日も二人は一緒に昼ご飯を食べた。
カッパが今日の弁当箱を開けると、ラーナがまたガン見していた。
今日は三色の包みピザ、カルツォーネだった。
「一口食べる?」
ラーナが弁当箱を受け取った。
まず手に取ったのは、少し渋い輝きを放つイワシのアンチョビ風。
ガーリックとポテトサラダと一緒に包まれた、銀色の一品だ。
「…………っ!!」
サクッという音の後、口の中に広がったのはガーリックのパンチと、ポテトサラダの甘みに溶け込んだイワシの濃厚な旨味だった。
「……何これ。アンチョビ……? でも、もっと力強いっていうか、オイルがジュワって……! コールスローが全部受け止めてて、ヤバい。これ、止まんないやつ……!」
ラーナの「一口」というリミッターが音を立てて外れた。
そのまま間髪入れずに、トマトとモッツァレラのマルゲリータへ。
「トマトとバジルが……冷めてるのにチーズがどこまでも伸びるんだけど! え、カッパちゃん、これ本当にお弁当なの!? お店で焼きたて食べてるみたい……!」
気づけば手がミートトマトのカルツォーネを掴んでいた。
肉厚なソースの力強さが、食欲をレッドゾーンまで跳ね上げる。
シャキシャキのズッキーニや、コーンとイワシのサラダを合間に挟むことで、さらに食欲がブーストされていく。
「もぐ……もぐ……っ、はぁ……」
我に返った時、弁当箱の中に残っていたのは、カッパが辛うじて死守した端っこの一切れとパプリカ一切れだけだった。
「…………あ」
ラーナが自分の指についたチーズを名残惜しそうに眺めて、それからカッパを見た。
顔が沸騰したように赤くなった。
「……ごめん。……また、やっちゃった。……でも、無理だよ。このピザ、中身が『幸せ』でパンパンなんだもん……」
「チーズはウチで作ってるんだよ。美味しいよね」
「え!? お店で作ってるって本当に?」
「そうだよ。花さんが地下室で作ってるんだ」
「ち、地下室……?」
ラーナは菓子パンをカッパに差し出しながら、アハロへの興味を深めていった。
*
翌金曜日。
さすがに学習能力のあるカッパは、この日は花に頼んでおにぎりを二人分作ってもらった。
「今日はラーナの分もあるんだよ。花さんに頼んでおにぎりを二人分作ってもらったの」
ラーナの顔が輝いた。
「嬉しい! いただきます! 今日はおにぎりなんだね!」
弁当箱の中に、三つのおにぎりが並んでいた。
ふっくらと、丁寧に結ばれている。
「これ、全部味が違うよ。好きなの食べていいよ」
ラーナが震える手でおにぎりを開けた。
まずはイワシマヨネーズ。
「……んんっ!? なにこれ、濃厚……! 市販のシーチキンが六十点なら、このイワシフレークは百二十点だよ! マヨネーズに負けないくらい、イワシの脂が甘い……!」
次にイワシチーズを頬張ると、黒胡椒の刺激とチーズのコクが追い打ちをかけた。
「チーズとイワシ、ヤバい……! 合いすぎ……! 誰、これ考えたの!? 天才?」
そして最後、梅イワシを口にした瞬間、ラーナの表情が一変した。
大葉の爽やかさと梅の酸味がイワシの脂を完璧に中和して、無限に食べられるループへと誘う。
「……あ、磯辺揚げ。……これ、……サクサク。……んっ、このナゲット! 魚なのに、お肉よりジューシー……!」
ラーナはもう周囲の目なんて気にしていなかった。
三つのおにぎりと、磯の香り豊かな副菜を、一粒の米も残さず完食した。
「……はぁぁ。……幸せすぎて、今なら空飛べる気がする」
ラーナはお腹をさすりながら、窓の外を見つめた。
「ねえ、カッパちゃん。……昨日も一昨日も思ったけど。……この『花さん』ってコックさん、イワシ一匹で、私の人生変えようとしてない……?」
「イワシが捕れ過ぎて良かったね」
二人が笑い合った。
声を上げて笑い合った。
カッパの記憶では、こんなに楽しい教室は初めてだった。
窓の外では、梅雨の空からキラキラと雨が降り注いでいた。
いやいや通っていたはずの高校生活が、こんな気持ちをくれるとは思っていなかった。
カッパはまだ笑いながら、窓の外の雨を見た。
雨がこんなにきれいに見えたのも、初めてだったかもしれない。




