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k-17 モレ注意

 ランチタイムが終わった中休みのことだった。


 クレアおばさんがカッパに向かって、何気なく言った。


「カッパ、原付の免許を取るつもりはない? あんたの学校だと定期券も毎月一万円くらいだろ? 原付の免許を取れたら、私のモレをあげるわよ」


「へ? モレ? 免許?」


 突然の申し出に、カッパは固まった。


「いいじゃない〜。原付で通学できるようになれば、月のガソリン代も二千円位でお釣りくるんじゃないかな〜?」


 モト子が横から言った。


「は? 二千円!? なんでそんなに安いんですか!」


「私のモレは2stだから燃費は悪いんだけどね。それでも交通費は安くなるのは間違いないわよ」


 2stという言葉の意味はわからなかった。

 でも、毎月一万円かかっていた交通費が安くなること、学校が終わったあと駅まで歩かなくてよくなること、それだけで十分かなり良い話だとカッパには理解できた。


「モレはいくらで譲ってくれるんですか?」


「お金なんていらないわよ! そもそも古すぎて査定なんてないのよ。捨てるにもお金がかかるくらいなのよ」


「タダで良いんですか!」


「と言っても、自賠責とか自分で払わなくちゃいけないわよ。あとはお母さんが車を持ってるから任意保険も千円以下よ。免許費用が一万円くらいかな?」


「え? そんなに安いんですか!」


「そうよ! それに一日で取れるのよ?」


「一日!?」


 カッパはクレアおばさんに詰め寄った。


「じゃあ免許取れたらモレを貰えるんですね! 私、取ります! モレで通学します!」


「まあ、頑張んなさい! 原付免許は結構合格率も低いからね!」


 そう言って、クレアおばさんは帰っていった。


   *


「ネットで過去問を調べてみなよ。車の運転とかしたことないカッパには、かなり難しいと思うよ」


 花に言われて、カッパはスマホで過去問を検索してみた。


 さっぱりわからなかった。


 普段は自転車にこそ乗っていたが、道交法など一度も気にしたことがない。

 このまま試験を受けても合格できる未来が、全く見えなかった。


 そっとスマホを閉じて、諦めようとしたその時、モト子が言った。


「Vタックさんは元教師だから、Vタックさんに勉強を教えてもらいなさい。私からLINEしておくからね」


   *


 翌週から、カッパにVタックの特別授業が始まった。


 夜間学校に通うカッパが昼間に空いている時間を使って、アハロの事務所でホワイトボードの前に座った。


「カッパちゃん、暗記しようとしない方がいいよ〜」


「どうしてですか?」


「暗記じゃなくて知識として学ぶと忘れないよ〜。こないだの旅行の事は忘れないだろう〜。それと同じで、心で経験したことは忘れないんだなぁ〜。人間って不思議だねぇ〜」


「はい! 北海道の事、全部覚えてます! 写真も沢山撮ったし」


「撮った写真は友達に見せたのかい?」


「いえ……お母さんだけに見せました……。私、友達いないから……」


「そうなのかい……。それは寂しいね〜。それなら、カッパちゃん。ブログを始めてみたらどうだろう〜。まずはこないだの旅行の事をブログに書いてごらんなさい。必ず、それを誰かが読んでくれるからねぇ〜」


「ブログですか……。私に書けますか? 作文とか苦手ですよ……」


「苦手かどうかは書いてみないと分からないんだよ? 原付も同じ。乗ってみないと乗れるかどうかも分からないよ?」


「……そうですよね。やってみなくちゃ分かりませんよね!」


「まずはこないだの旅行の事を自分の言葉で書いてごらん。文章を書こうとするんじゃなく、カッパちゃんが誰かに聞かせたいお土産話を語るように書くと、きっとスラスラ書けるはずだよ〜」


 カッパは北海道旅行の事を思い出した。


 フェリーで聴いたジャズライブ。

 夜の甲板で見た、信じられないほど大きな月。

 大沼公園のBBQの炭の香り。

 函館の石畳の坂道。

 仙台で食べた牛タン定食。


 確かに、誰かに伝えたかった。

 少し考えただけで、スラスラと書ける気がしてきた。


   *


 その後もVタックの免許勉強会は続いた。


 ランチタイムが終わる頃には、花が賄いと学校へ持っていく弁当を用意してくれた。


 カッパはしばらくの間、原付免許取得のために頑張った。


 そして翌週。


 カッパは平針運転免許試験場にいた。


   *


 平針の巨大な電光掲示板に、自分の番号が灯った。


 午後四時。


 新しく発行された、まだインクの匂いがしそうな免許証を手に、カッパは試験場の門を飛び出した。


「やった……。これで、私も『ライダー』だ」


 八千五十円と引き換えに手に入れた「自由」が、手の中にある。


 急いで市バスと地下鉄を乗り継いで、笠寺へ戻った。


   *


「おめでとう。カッパ。約束通りモレはカッパのモノよ。明日、早速名義変更してらっしゃい。明日の朝は花さんが区役所まで一緒に行って手続きを教えてくれるそうよ」


 クレアおばさんの言葉は、あまり耳に入ってこなかった。


 目の前のSUZUKIモレに、心が奪われていたからだ。


 今まで何度も見ていたはずなのに、ずっと見えていなかった気がした。


 改めてよく見ると、普通のスクーターとはまるで違うフォルムをしている。

 ずんぐりとして、四角くて、どこか古めかしい。


「これが……モレ……ダサいんですね……」


 ダサいとは思った。

 でも、顔がにやけてしまう。

 このモレの独特なフォルムが、今はたまらなく愛おしかった。


「クレアおばさん! 大切に乗ります! 本当にありがとうございます!」


「モレはオバサンバイクだけど、速いバイクだから気をつけなさいよ!」


 速い、という言葉の意味が、カッパにはまだわからなかった。


(原付は三十キロしか出せないはず)


 そんな初心者らしい発想しか、今のカッパにはできなかった。


   *


 翌朝。


 カッパは約束の時刻よりもかなり早くアハロに来てしまった。


「カッパ! 早すぎない? 花との約束は九時でしょ?」


 モト子が目を丸くした。


「店長もこんなに早く出勤してたんですね!」


「私は宿泊者のチェックアウトがあるからね〜。宿泊者が起きる前にはいつも出勤してるのよ」


 モト子は思わず笑ってしまった。


「どうして笑うんですか?」


「うん? ごめんね。私がDT50を買った時のことを思い出しちゃってね。初めて乗って家まで帰る時は、緊張よりもワクワクが強すぎて恐怖感なんて微塵も感じなかったのよ。DT50に乗った瞬間に、これで宗谷岬まで絶対に行ける気がしたの」


「それで、本当に行ったんですよね……最北端まで……。最北端って何があるんですか?」


「なんにもないわよ。目の前に海があるだけ」


「海だけ……」


 宗谷岬なんて海しかないなら、大沼公園の方がずっと綺麗だと思った。

 でも、モト子の顔を見ていると、なんだか羨ましかった。


 九時になる頃に花が現れた。


「花さん、ありがとうございます」


「これくらいいいのよ。私もモトラの名義変更の時は友達に教えてもらいながら手続きしたの。初めてだと何処で何をしたらいいのか分からないもんね!」


   *


 二人で南区役所まで歩いた。


 窓口で書類を記入して提出すると、係の人がカウンターの奥へ引っ込んで、しばらくして戻ってきた。


 真新しい、ピカピカのナンバープレートが差し出された。


 まさかここで貰えるとは思っていなかったカッパは、かなり驚いた。


「ここでナンバープレートが貰えるんですね!」


「そう! ビックリするよね! 私もモトラの時はビックリしたもん!」


 花がニヤニヤしながら見ていた。


 カッパは真新しい「名古屋市南区」と刻まれたナンバープレートを、両手で丁寧に受け取った。


 早くアハロに帰りたかった。


 でも花が「コンビニに寄るよ」と言った。

 コンビニで自賠責の手続きをして、シールを受け取った。


「そのシールをナンバープレートに貼るんだよ」


 カッパは丁寧に、丁寧に、シールを貼った。

 空気が入らないように、端からゆっくりと。


 その光景を、花が微笑ましく見つめていた。


   *


 アハロに着くと、ガレージの工具を使って、カッパは自分でモレにナンバープレートを取り付けた。


 ドライバーを握る手が、少し震えていた。


 ボルトを締めた。

 自賠責のシールが、プレートの上で光っている。


 カッパの名前で登録されたナンバープレートが、モレについた。


「これで、もう乗れるよ? ヘルメットはあるよね? 一緒に走ろうか!」


 花がモトラのエンジンをかけた。


 カッパもモレのエンジンを、初めてかけてみた。


 ポポポポポ……!


「かかった!」


 花のモトラとは、全く違う音だった。

 パタパタと乾いた2stの音が、路地に響いた。


「モレのアクセルはちょっとずつ開けるんだよ!」


 言われた通り、少しだけのつもりでアクセルを捻った。


 次の瞬間、オバサンスクーターには似つかわしくない加速が出た。


 前輪が、ほんの少し浮き上がりそうになった。


 カッパはすぐにアクセルを離した。


「ビックリした〜」


「だから言ったじゃん! もっとゆっくり発進しないと危ないよ。これが2stなんだって。モトラとは全く別のエンジンなんだよ」


 2stも4stも、まだよくわからなかった。

 でも、このモレが見た目ほどおとなしい機体ではないことは、身をもって理解した。


「今度はちゃんとやります! 花さん、走りましょう!」


   *


 カッパはゆっくりとアクセルを開けて走り出した。

 花のモトラが後ろからついてきた。


 笠寺の裏路地を、二台がゆっくりと走り続けた。


 石垣のそばを抜けて、踏切を渡って、また路地に入る。

 カッパはハンドルを握る手が緊張で少し汗ばんでいることに気づいた。


 だんだんと慣れてきた頃に、花が「そろそろ仕込みだから」と言ってアハロへ帰っていった。


 一人になった。


 カッパはまだ走り足りなくて、大きな通りに出てみた。


 アクセルをじわりと開けると、モレが一瞬で三十キロまで到達した。


(この子、まだまだ走れるんだ!)


 最高速度を確かめたかったが、我慢した。

 初日から捕まりたくなかった。


 今はこの、一瞬で三十キロまで到達できる喜びをモレと共に喜ぼう。

 これで、来月から定期券を買わなくてもいい。

 今はこれだけで、十分すぎるほど幸せだった。


   *


 一通り笠寺の街を走ってアハロに帰ると、ベッドメイクのために出勤していたクレアおばさんがいた。


「クレアおばさん! 名義変更してきました!」


 クレアおばさんはにこやかに笑って「良かったね」とだけ言ってくれた。


クレアおばさんは買い換えた真っ赤なスクーターをガレージに停めていた。


「これ、クレアおばさんの新しいバイクですか?」


「そうよ。良いでしょ。スクーピーっていうのよ。今度のバイクにはメットインが付いてるから便利そうでしょ?」


「メットイン……モレにはカゴ…」


カッパにはまだカゴとメットインのどちらがいいのか、よくわからなかった。


 カッパはモレから降りて、ふとリュックサックの中を探った。


 ゴールデンウィークの函館で買ったハセガワストアのステッカーが、まだ入っていた。


 モレのレッグシールドに、そっと貼り付けた。


 ステッカー一枚貼っただけなのに、なぜかモレが一段上のバイクに進化したような錯覚を覚えた。


 カッパは思わずスマホを取り出して、モレの写真を撮った。


 その時、Vタックとの勉強会のことを思い出した。


(この写真を見せる友達がいないならブログを書きなさい)


 そうだ。

 誰かが見てくれるかもしれない。

 そして、誰かにこのハセガワストアのステッカーを貼り付けたモレを自慢したい。


(入学祝いで貰ったパソコン、まだ全然使いこなせてなかった)


 早く家に帰ってブログを開設してみたくなった。


 そう思うと、一枚では全然足りなかった。

 カッパは納得いくまで、モレの写真を撮りまくった。


 正面から。

 斜めから。

 ハセガワストアのステッカーのアップ。

 ナンバープレートが映り込む角度。


 クレアおばさんとモト子が、その様子を黙って見守っていた。


 二人とも、笑っていた。


 誰もが一度は通ってきた道だ。


 初めてのバイク。

 初めてのナンバープレート。

 初めてのエンジン音。

 初めての加速。


 十六歳の女の子が、ガレージの隅でモレの写真を撮りまくっている。


 それだけのことが、この笠寺の路地裏で、今日も静かに起きていた。






HONDA クレア スクーピー


車両型式 BA-AF55

最高出力 4.9ps / 8,000rpm



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