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k-16 十六歳の日常

 五月五日。


 帰りのフェリーは終日、海の上だった。


 夕食の豪華バイキングを楽しみながら、花とカッパが並んで座っていた。


「朝、目が覚めたら、ついに名古屋だよ。カッパはいい思い出できた?」


「はい! 夢なら覚めないで欲しいです!」


「五月病で学校休まないでね」


「休むというか……既にもう辞めたい……」


「アハハハ! やっぱりそうだよね〜。でも、明日からはいやでも日常が始まるよ! お互い気持ちを切り替えていこう! 私も今回の旅は本当に夢みたいだったからね。明日から日常に戻るのが少しだけウンザリするよ。ずっとあてのない旅をしてた頃が懐かしいな」


「いいですね。私もそんな非日常をずっと続けてみたいです」


 二人は、フェリーの最後の夜を過ごした。


   *


 五月六日。


 名古屋港に着いたのは午前十時半だった。


 オデッセイの窓から、見慣れた名古屋の景色が流れていく。

 カッパはぼーっとそれを眺めていた。


(……北海道が、もう遠い)


 ホッキカレーの味。

 セイコーマートのフライドチキン。

 大沼のBBQの炭の香り。

 函館の坂道の石畳。

 そして、太平洋の上の満月。


 全部が、昨日のことみたいで、でも遠くなっていく。


 アハロに着いた。


「ただいま!」


 全員が元気よく声を上げると、留守番を頼んでいた鈴菌とミミーが出迎えてくれた。


 鈴菌がモト子に深刻な顔で話しかけた。


「すまん……。リフォームを全て終われなかったぜ」


「そんな事、別にいいわよ」


 モト子が厨房を覗いた。

 手付かずだったはずの勝手口に、完璧なドライブスルーの窓口が仕上がっていた。


「でも、もう完璧に終わってるように見えるわよ? 明日からドライブスルーを展開できそうだけど……」


「あぁ、ドライブスルーの方は完璧に仕上げたさ。ただ、地下室がまだだ。予想外の事が起こってな……。地下室はほぼ手付かずだ」


「地下室? 地下室なんて聞いてないけど? 不動産屋さんからも地下室があるなんて聞いてないわよ?」


 その瞬間、花が思い出したように叫んだ。


「あっ! あの時の古い煉瓦! まさか、あの煉瓦は地下室の煉瓦……?」


「花ちん、何か知ってるの?」


「じ、実は内装工事の時に床の掃除を本田くんとしていたら、床下から文字の書かれた煉瓦を見つけたんです。でも、めんどくさくてそのままにしてたっけ……」


 鈴菌が皆を床下の煉瓦のところへ案内した。


「ここの煉瓦を撤去したら、ご覧の通り地下への階段が出てきた。まあ、手っ取り早く降りてみるか」


   *


 地下一階は六畳程度の広さがあった。

 鉄筋コンクリートで四方が固められていて、倉庫としても使えそうな空間だった。


「あら、こんなところに地下室があったのね。物置として使えそうね」


「まあ、ここなら倉庫としては手頃だな。ただ、まだ部屋がある」


 鈴菌が地下室の床にある鉄の扉を持ち上げた。

 中にはハシゴが見えていた。


 さらに地下二階があった。


 鈴菌が先に降りて、続いてモト子、花、カッパの順に降りた。


 窓がない。

 真っ暗だ。

 隣の人の顔も見えない。

 地下一階から差し込む光だけが、唯一の明かりだった。


「暗いわね。ここは明かりがないの?」


「今つけるが、驚くなよ」


 鈴菌が明かりを灯した。


 裸電球がいくつか、暗闇を切り裂いた。


 三人は、言葉を失った。


   *


「……嘘、でしょ」


 モト子が、震える手で口を覆った。


 そこにいたのは、一〇〇式司令部偵察機 三型。


 錆が、一つもなかった。

 まるで昨日、格納庫に入れられたばかりのような光沢を放っている。

 機首から風防、尾翼へと流れるラインは、空気の抵抗をあざ笑うように滑らかで、あまりにも美しかった。


「……きれい」


 花が、吸い寄せられるように一歩踏み出した。

 幕末の志士たちの熱風に触れてきた彼女の目には、その銀翼が、単なる兵器ではなく、当時のエンジニアたちが「美しさ」という名の極限性能を追求した末の「祈り」のように見えた。


「これ、飛行機なの? ……鳥よりも、ずっと鳥みたいだ」


 カッパが呟いた。

 花のモトラや、モト子のDT50とは、次元が違う。

 時速六三〇キロ。

 かつて日本軍最速を誇り、米軍をして「第二次大戦で最も美しい」と言わしめたそのシルエットが、地下の静寂の中で今にも空へ駆け上がりそうな生命力に満ちていた。


「見ろ、モト子。このカウリングの曲線。……一切の無駄がないだろ」


 鈴菌の目が、かつてないほど鋭く、そして優しく光った。


「戦後、SR-71に繋がる戦略偵察機の魂が、ここに眠ってたんだ」


   *


 鈴菌は、新司偵の主翼の付け根を指でなぞった。


「見てみろ、カッパ。このリベットの打ち方。空気の壁を滑るためだけに、職人が一つ一つ、魂を削って面一に仕上げてやがる」


「……生きてるよ。まだ、死んでない」


 花が直感した。

 函館で春猪の想いを受け取った時と同じ感覚だ。

 この機体は、ただ隠されていたのではない。

 いつか、再びこの美しさを理解する者が現れるのを、じっと待っていたのだ。


「鈴菌さん、これ……動くの?」


 カッパの問いに、鈴菌はしばらく黙っていた。

 やがて、震える手でピトー管に触れて、ニヤリと笑った。


「当たり前だ。三菱の久保富夫が作った機体だぞ?」


「いいか、カッパ。これが『三菱』の、そして戦後『スズキ』が受け継いだ執念の音だ。……耳の穴かっぽじって聴けよ!」


 慣性始動機の甲高い金属音が地下室に響き渡り、臨界点に達した瞬間、鈴菌がクラッチを繋いだ。


 ――ドォォォォン!!


 一四段星型複列空冷エンジン「ハー211」の二基が、八十年の眠りを叩き起こされた怒号を上げた。


 三翅プロペラが叩き出す猛烈な後方気流が、台風どころではない「壁」となってカッパの全身を叩きつけた。


 エメラルドグリーンのウインドブレーカーがパンパンに膨らみ、フードが弾け飛ぶ。

 花とカッパの黒髪が全方位へと爆発した。

 視界が真っ白になり、呼吸さえも大気に奪われる。


 二人は必死に足を踏ん張ったが、体ごと数メートル後方へ押し流された。


(なに、これ……! 息が、できない……!)


 でも、その絶望的な風圧の中で、花とカッパの心は激しく震えていた。


 頬を打つのは、熱を帯びた生々しいエンジンの吐息だ。


「すごい……! すごいよ、鈴菌さん!!」


 叫んだ言葉は、爆音にかき消されて自分にさえ聞こえない。

 目を開けていられないほどの風圧。

 叩きつけられるオイルの飛沫。

 でも、花とカッパは笑っていた。


「……鈴菌さん。私、わかった気がするよ。『速い』ってことは、それだけで『自由』なんですね」


 鈴菌は黙って頷いて、懐中電灯を消した。


   *


 やがて、エンジンが止まった。


 急激な静寂の中、焼けたオイルの香りと熱気だけが現実を証明していた。


 鈴菌が操縦席から這い出してきた。その顔には、深い敬意を帯びた「覚悟」が刻まれていた。


「……おい、全員聴け。これは、見なかったことにしよう」


「こいつは、三菱の、そして日本のエンジニアたちが極限まで削ぎ落として作り上げた奇跡だ。……今さら博物館のガラス越しに並べて、薄っぺらな知識の晒し者になんてしたくない。俺たちの手で再び闇に返してやるのが、最高にイカした遊び心ってもんだろ」


 カッパが大きく頷いた。

 この風圧は、自分たちだけの秘密。それだけで、一生分の宝物だと思ったから。


「当たり前よ! 鈴菌、たまには良いこと言うわね」


 モト子がパンパンと手を叩いた。


「これを公表なんてしてみなさいよ、調査だ保存だって、このアハロを解体しなきゃ取り出せなくなるじゃない! 私の城を壊されてたまるもんですか。……これは絶対に極秘。アハロの地下には、何もなかった。いいわね?」


 花もクレアおばさんもカッパも、迷わず首を縦に振った。


「そんな事よりも鈴菌! ロマンに浸ってる暇はないわよ。……勝手口のドライブスルー、早く使い方を教えなさい!」


 あまりの切り替えの早さに、鈴菌がポカンと口を開けた。


「……フン、わかってるよ。こっちだ。段差は〇・五ミリ以下に抑えてある。原付だろうが大型だろうが、スロットルを回したままピックアップできる世界一の勝手口だぞ」


   *


 新司偵の再封印が決まった数日後。


 地下空間には、以前とは違う「生命の気配」が満ちていた。


 機体のすぐ横に整然と並べられたのは、大量の樽と、白い布に包まれたチーズの塊だった。


「……花ちん。これ、本気?」


「ええ。ここ、一年中温度が一定で、湿度も完璧なんです。幕末の蔵よりも条件がいいんですよ」


 花は、割烹着姿で誇らしげに糠床をかき混ぜながら言った。


 偵察機のジュラルミンの肌に、ほのかに香る糠とカマンベールの匂い。

 世界最速を誇った銀翼は今や、最高級の漬物置き場兼チーズ工房へと、その余生を転換させていた。


「おい、花。機体に塩分がつかないように、養生は〇・五ミリの隙間もなく徹底しろよ」


「わかってますって、鈴菌さん。……でも、この子の横に置いておくと、なんだか美味しくなる気がするんです。八十年前の速さが、発酵を助けてくれるっていうか」


 モト子も地下に降りてきて、熟成中のチーズを一つ手に取り、満足げに頷いた。


「いいわね、これ。アハロの朝食で出しましょう。名前は……『笠寺・地下熟成』で決まりね!」


   *


 五月の雨が、西之門の路地を濡らしていた。


 アハロの前に、二門の高射砲が鎮座していた。


 近所のおばあちゃんが、傘を差しながら花に話しかけてきた。


「あら、アハロさん。今度は立派な大砲を置いたのね。さすが歴史の街、笠寺だわ」


「ええ、まあ……ちょっとした飾りですよ」


 モト子が砲身に「本日の日替わりランチ:ホッキカレー」のメニューを吊るしながら答えた。


 カッパは、エメラルドグリーンのウインドブレーカーを着たまま、その光景を呆然と眺めていた。


「……ねえ、鈴菌さん。これ、本当に誰も疑わないの?」


「言っただろ。ここは笠寺だ。高射砲の歴史があるこの街で、これを本物だと疑う奴は、よっぽどのマニアか、俺たちみたいな変人だけだ」


 鈴菌は砲架のグリスアップをしながらニヤリと笑った。


「本物は、あまりに堂々としていると背景になる。……これぞ究極の遊び心による迷彩だ」


 カッパはその高射砲の隙間に、自分の自転車を停めた。


 一五〇〇馬力の偵察機が地下でチーズを守り、七センチの高射砲が地上でランチメニューを掲げている。


「……なんだか、私のウインドブレーカーがエメラルドグリーンなのも、この街じゃ普通に見えてきたよ」


 カッパは、少しだけ誇らしくなった。


 一円単位で節約して、時給一五〇〇円で稼いで、週末はアハロを支える。


 自分もまた、この笠寺という不思議な要塞の一部なのだ、と。


「よし! また北海道に行くためにも、今日は高射砲の影で、花さんのお料理をしっかり売るよ!」


 カッパの声が、雨の笠寺の路地に響いた。


 誰もが「ニセモノ」だと信じている「ホンモノ」に見守られながら、アハロの日常は、今日も〇・三ミリの狂いもなく進んでいく。


 五月病にもならずに、カッパの十六歳の日常は続いていた。








この元ネタは『原付転生reverse』の

【reverse 78 西之門の廃墟と、誰も信じない幕末話】のほんの一コマです。

笠寺はロマンがありますよね。

こんな笠寺にはよくある話です。

これが笠寺の日常なのです。

この街で古い物件をお探しの方はお気をつけ下さいませ。

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