第捌話 天嶺飛鳥 其の壱
◇◇◇
時は十七年前、京都の天嶺家に私は産声を上げた。父も母も妖狩、先祖もずっと妖狩。この世界には珍しくはないが、生まれたときからその生き方を宿命づけられていた。
「おぉ……可愛いな。……飛鳥だ、飛鳥。俺達の子……なぁ、聖奈?」
「はしゃぎすぎよ、涼さん。でも……えぇ、そうね。飛鳥……良い名だわ」
もちろん、そんなことを覚えているわけではない。父が撮っていたビデオ、幼い頃に何度も見たことがある。弱々しくも、嬉しそうな泣き声ばかりで、私の声はほとんど聞こえなかったが。
「ママー! 見て見て! お絵描きを描いたの!」
「あらあら、上手ね。真ん中にいるのは飛鳥かしら?」
「そう! こっちがママで、こっちがパパ! 二人ともあやかしと戦ってるんだ」
それは生まれてから四年が経ったある日のこと。裏紙にクレヨンで描いた家族の絵、お世辞にも上手とは言えないような、汚い絵だ。それでも母は私を気遣ってか、それとも嬉しかったからか、それを上手だと言ってくれた。
「ねっ、パパも見て!」
「おぉ、飛鳥。将来は画家さんかなぁ!」
「ぬー……お髭じょりじょりやめて!」
父は子煩悩の、いわゆる親バカな人だった。何をしても私を褒め、私を撫でてくれた。そんな父の大きく硬い、けれど柔らかなその手が大好きだった。
「だめだよっ! 飛鳥はパパたちと同じあやかしがりになるんだから!」
「ははっ、そうかそうか。そんなに羨ましいものかね」
「だってみんなを守るヒーローじゃん! 飛鳥もね、いっぱいあやかしをやっつけて、いっぱい守るんだ!」
描いた絵を離さないように強く抱え、そのまま頭を膝に預けた。天井の光が眩しいが、父がそれを隠してくれる。
両親の戦う姿はほとんど見たことはない。一度か二度か、遠くから眺めたことはあった。私にとってそれは、悪と戦う正義のヒーローのようだった。
「ねぇ、パパ。雷玄が言ってたよ。パパははきょうって言うめっちゃ強い人なんだって」
「飛鳥ー。雷玄さんでしょ。女の子は口調は丁寧にするものよ」
「はーい」
父が優しい……というより甘い分、母は厳しく強かった。もっとも、私には甘く、その分だけ父に厳しかったのだが。どちらにも甘い父は尻に敷かれるタイプだったのだと、後になって気づいた。
「うーん……確かにパパは強いよ。人間の中だと、一番強いんじゃないかな」
「うはぁー!」
覇境の妖狩は、この数十年では天嶺涼、つまり私の父を除いて他にはいなかった。それだけ特別で、それだけ強かった。このときの私は、その本当の凄さなど微塵も分からなかったが。
「だからね、飛鳥ね、パパたちみたいにいっぱいあやかし殺して……」
「飛鳥ー」
「……倒してね。いつかパパたちを助けるんだ!」
「はっはっ! それは嬉しいな」
そんなおかしなことを言うほどに、幼い私は夢に満ちていた。よもや彼らに並ぶなど、今では考えられないが。それでも当時は、心の底から両親の手伝いをしたいと思っていたのは事実。
「いいかい、飛鳥。妖は人間が生み出してしまったものだ。確かに悪の存在だけどね、倒すっていうのは責任なんだよ。殺すんじゃない。帰すんだ。元の世界にね」
「……お家に帰してあげるの?」
「そうだよ。お家が良いものかは分からないけどね、それが責任なんだ」
「……せきにん……」
妖とは、人の思念によるもの。影の世界とはどんなものなのか、そんなものは分からないけれど、それでも引き出したのは私たち人間だ。だから元の姿に戻す。
「じゃあ飛鳥が、せきにんもって戦えばいいんだ!」
「ふふ、そうだよ。ほら、今日はもう寝なさい。明日また、雷玄との訓練があるんだろ?」
「うん!」
父が私を膝から下ろすと、私はすぐに瞼が重くなる。それが合図なのだろう。もう寝る時間なのだと、身体に刻まれている。絵を描いた紙は棚に置き、睡眠前の水を飲んだ。
「おやすみ! ママ、一緒に寝よ!」
「そうね、おいで。今日はなんの絵本を読もっか」
「飛鳥、良かったらパパが一緒に寝てあげるよ?」
「パパはじょりじょりだからイヤ!」
パタパタと足音を響かせ、そのままベッドに飛びついた。母の手を握る手は、夢に落ちるまで緩めない。朗読する母の声は、子守唄のように優しく響いた。
翌朝、私の隣は少し寂しかった。朝の冷たい空気が布団の中に入り込み、勝手に瞼が開かれた。
「飛鳥、おはよ」
「ん……ママもおはよう」
額に熱が触れる。母が起こしに来るときは、いつも額に口づけをしてくれた。任務で会えない日も多く、ただそれだけでその一日は嬉しい気分だった。
「今日はトーストを作ってるからね、顔洗ってきなさい」
「うん、あいあと」
洗面台までヨタヨタと歩き、そこで顔を洗い、歯を磨く。なんてことのない日常。誰もがするようなルーティン。
「さっぱりしたね。さ、熱いうちに食べなね」
「うん、いただきます」
テーブルに広げられたのはトーストとサラダ、ヨーグルトとミルクティー。いかにもな朝食が丁寧に並べられている。子どもながらに嬉しいと思うけれど、それだけに寂しくも思う。
「ねぇ、ママたちはいつ帰ってくるの?」
「はは、勘が鋭くなったわね。うーん……明後日には戻ってくるかな。寂しいよね、ごめんね」
「……うん」
ズボラな母が料理を凝っているときは、決まって家を空けるときだった。私に対する謝罪なのか、それとも前払いのご褒美なのか。
「飛鳥は大丈夫だよ。強いもん」
「……そうね、ありがとう。帰ったらいっぱい遊んであげるからね」
「うん、約束だよ!」
頬をいっぱい丸めながら、そして高い声を出した。構ってくれる、甘やかしてくれる。そう思えば一時の我慢も難しいものではなかった。
「じゃあ良い子にして、燐堂さんとの訓練、頑張るのよ」
「うん、早くママとパパみたいに強くならなきゃいけないもんね」
ヨーグルトを流し込み、食器を片付けてもらってから母を見送った。父はすでに出発していて、これから合流するらしい。依頼や任務となると、調査や討伐後の後片付けも重要となる。それだけに帰るのは、普段よりも遅くなるのだ。
あっという間に時間は流れ、雷玄さんが家にやってきた。父と母とは昔から交流があったらしく、私の面倒をよく見てくれた。遊び相手でもないけれど、親のいないときには親代わり……いや、兄のような存在だった。
「ねぇ、雷玄さん」
「燐堂師匠って呼べって。それか燐堂先生って」
「でもママは雷玄さんって呼びなさいって」
「え、聖奈さんが?」
困ったような、悩むような、そんな表情。師匠とは呼ばせたいけれど、母がそう言ったのならそれでもいいか、というような諦めの混ざったような顔だった。
「雷玄さんはさ、強くなるためならどうしたらいいと思う?」
「なんだそりゃ。そんなん涼さんとかに聞いた方がタメになるだろ」
「せかんどおぴにおんってやつだよ」
「どこで覚えたんだ、そんな言葉」
父も母も、詳しいことはほとんど教えてくれなかった。私がまだ幼かったからだ。だからいつも、飛鳥なら勝手に強くなれると、そうとしか言わなかった。
「……今みたいに素振りをしてれば強くなるよ」
「本当!? じゃあ飛鳥、がんばるっ!」
一、二、三。一回振るごとに声を出した。子どもの身体には重く感じるような竹刀も、強くなるためだと思えば、苦しいものでもない。父と母のためだと思えば。
「痛っ……!」
「ん? おいおい、マメができてんじゃねぇか。ほら、見せろ」
「ん……」
半ば強引に竹刀を奪われ、その小さな右手を取られた。雷玄さんの強い力に逆らえない。ただされるがまま、包帯を巻かれた。
「無茶するなよ、ガキんちょなんだからよ」
「ガキんちょじゃないよ。ようりょくだって使えるもん!」
「はいはい、そうですね。ガキんちょ」
「むむ……っ!」
雷玄さんの流すような反応に、私の腑は煮えくり返った。もっともな反応ではあろうが、明らかに下に見られ、侮られるのは気に入らなかった。
「くらえー! ざんげきー!」
「何やってんだ」
「ぶへっ……!」
雷玄さんに思いっきり振り下ろした竹刀、しかしこの小さな身体では、ただの遊戯でしかなかった。防御もしていないただの筋肉に、私の竹刀は弾かれ、私自身も跳ね飛ばされた。
「う、うぐ……」
痛い。擦りむいた……わけではない。大した怪我があるでもないのに、倒れたというだけで無性に痛かった。その痛みに耐えかねて、瞳は勝手に湿っていく。
「う……うぁああ!」
「お、おい、泣くな。お前は強いから。ほら……飴ちゃんでもやるからさ」
「わぁー!」
「……ちょろ」
目の前に突如として現れたミルク味の飴、それを認識しただけで、不思議と痛みは引いていく。子どもの身体とは不思議なもので、並立して考えることはできないらしい。
「ねぇ、雷玄さんはパパたちが好きなの?」
「うん? 何を急に……」
束の間の休憩時間、私は舌の上でミルクの飴玉を転がしながらそんなことを尋ねた。理由があったわけではない。ただふと、思いついただけの問い。
「まぁ……そうだな。あの人たちは世話になった先輩だからな」
「せんぱい……お兄ちゃんってこと?」
「……まぁ似たようなもんだ」
説明を諦めた雷玄さんは、いつも相手に合わせてしまう。そのせいで、幼い私はしばしの間、彼が両親の弟なのだと本気で思い込んでいた。
「憧れなんだ。王境の聖奈さん。そんでもって覇境の涼さん。あの二人がいれば何とでもなる。いるだけで安心なんだ。そんな存在になりてぇ」
「ふーん」
「ふーんって何だよ」
「飛鳥と一緒! 飛鳥もパパとママみたいになりたい!」
一緒にすんじゃねぇ、と、雷玄さんは悪態をついたけれど、その顔はどこか満足げだった。仲間を見る目ではなく、庇護対象を見るような目だった。
「午後は勉強だぞ。妖と妖狩について、ちゃんと学ばないとな」
「ガーン」
「わざわざ口に出さんくていい」
座学は嫌い、強くなれないから。それでもサボることはできないのだと、彼の様子を見ればすぐに分かった。いや、逃げ出す度胸も生まれなかった。
午後の時間は、驚くほどに遅かった。日が沈んだと思ったのは二回や三回ではない。何度終わると間違ったか、何度終わることを望んだか。
「……ねぇ、雷玄さん。……帰っちゃうの?」
立ち上がり、玄関に向かおうとする彼の裾を掴み、潤んだ瞳で訴えた。寂しいから行かないでくれ、そんなことを言えるほど、私は素直ではなかった。少なくとも、親以外に対しては。
「……ごめんな、飛鳥。俺にも立場があるからな」
「……っ」
引き止める力はない。ただ熱い雫が頬を伝う。それを黙って受け入れるしかなかった。彼が行ってしまえば、私はこの家にただ一人。明るく照らしても、闇を払えない。
「代わりにほら、これを持ったけ。何かあったら助けて! って言うんだ。そしたら俺が駆けつけるからな」
「……何これ?」
「夜天って言うんだ。俺の虚影の片割れだよ。明日まで預かっておいてくれ」
子どもでも安全に持てるように、小さな玩具のようになった黒い刀。私はそれをギュッと握りしめ、目元をゴシゴシと拭った。
「分かった。飛鳥、一人で寝る」
「すまないな。暇なときなら一緒にいてやるんだけど……でも明日、ちゃんと来てやるからな」
「うん……っ!」
雷玄さんの暖かい胸元に包まれ、しばらくしたらその熱も去っていった。静かな家、聞こえるのは私の呼吸音と心音だけ。それでも小さな右手には、確かにお守りが握られている。
「怖くない。飛鳥は大人だもん……っ!」
言い聞かせるように、静かな部屋でそう呟いた。母が作り置きしてくれた夕ご飯を食べるときも、一人で風呂に入るときも、一人でベッドに飛び込むときも。私は強い、だから平気。そう言い続けた。
朝になると、すっかり不安は消え去った。窓から入り込む光のせいか、それとも右手に握ったお守りのせいか。分からないけれど、涙も朝には乾いていた。
「おーい、飛鳥ー。起きてるかー」
「あ! 今開けるね!」
律儀にドアの外から尋ねる声に、私は思わず飛び出した。会いたかったのかと問われると違うかもしれない。とにかく、確かな安心を得たかったんだ。
雷玄さんも何事もないように声をかけ、そして入ってきたけれど、そうでないことは私にも分かった。何事もないような人は、ドアの前で息を上げたりしない。私に気づかれてはいないと思ってるのかもしれないけれど……。
「今日も特訓? 飛鳥ね、昨日よりもずっと強いよ!」
「あぁ、今日はちょっと違うぞ。近所に引っ越してくる奴らがいてな、ソイツら妖狩なんだ。だから挨拶でもしておいてくれって、涼さんたちに頼まれてな」
「お友達になれるかな? 私、お友達いないから……」
「どうだろうな、近しい歳の子がいるとは聞いたが」
その日は雷玄さんが簡単な朝食を作ってくれ、そのまま外に連れ出された。隣の隣の、そのまた隣。つい先日まで工事がされていた、そこそこの広さの家だった。
雷玄さんがインターホンを鳴らし、そこから親二人と子ども一人が出てきた。親と雷玄さんが言葉を交わし、私はただ左手を彼と握ったままに立ち尽くしていた。東京から来たとか話していたが、幼い私にはよく分からなかった。
「ほら、ご挨拶しろ」
「あ、飛鳥は天嶺飛鳥って言います! 四歳です!」
「僕は鳴雷奈々生……です。六歳です」
真っ黒な髪、そして青みがかった瞳。どこか女の子っぽい名前と雰囲気だな、私が最初に抱いたのは、そんな印象だった。




