第参話 冥牙砲
「クァ……クゥ!」
「はっ……!」
空中を舞う小型の妖、捉えられない速さでもない。妖力を捉えた香織ならば、さほど苦労することもないはず。殺すという意思があれば……。
「痛った! 刺してくるじゃん!」
「蜂ですから」
……香織は運動神経はよくなさそうだ。ただ無闇に拳を振るだけで、狙いを定めていない。妖力を纏えば身体能力も高まるだろうに、それでもなお動きが鈍い。
「く……そっ!」
大振り……やっぱり実戦は早かったかな。もう少し私が直々に訓練してあげた方がよかっただろうか。……やれやれ、虫は気持ちが悪いんだが……。
「……っ! 核はコイツだな!」
「ん……?」
香織が手を伸ばしたのは群れの中央、やや大きな蜂。百蜂の妖力の源なわけだが……見破ったのか。案外、よく見えてるじゃないか。
「……ヤメッ……」
「……っ!」
あぁ、参ったな。意外と長く生きていたタイプか。香織はどこか優しいから……震えるその手を見ると言うまでもなく。
「ギャッ……!」
「香織、妖の鳴き声になど耳を貸してはなりません」
「……っ」
虫は嫌いだと言うのに、なぜ私が潰さなくてはならないのか……。いや、今は仕方ない。香織もこれが初めてだろうから。
「ねぇ……妖って喋るものなの……?」
「言ったでしょう? 妖とは人の思念より生まれるもの、言葉を発するのも珍しくはありません」
百蜂の影に濡れた香織の手……冷たいな。まったく、こちらは嫌々百蜂に触れ、この手で直接潰したというのに。どれだけ気持ちの悪いものだったか。
「……よく頑張りました。すみません、もう少し、順を追うべきでしたね」
香織の細い首が折れない程度に、強く頭を撫でた。これで多少はマシになってくれればいいのだが……そう簡単でもないのかな。
「気をつけなさい。心の芯を折られると、妖力を扱えなくなります。というのも、心が源となる力ですから」
「うん……分かった。大丈夫だよ、覚悟はできた。やっとだけど」
「えぇ、それなら良かった」
強いな、意外と。……? いや、普通か。甘さは要らない。たとえ彼に対してでも、私は甘さなど……吐き気がするほど要らぬ話だ。……それなのに、悪い気もしない。
◇◇◇
「……ねぇ、僕達ってどこに向かってるの?」
「うん? あぁ、言ってませんでしたか」
荒野を彷徨って早数日、周辺の景色は一切変わってはいない。いや、変わってはいるのだけれど、どこも倒れたビルだから景色の違いが出ないのだ。
「どこにも向かってはいませんよ。強いて言うなら、あなたが妖力を完璧に扱えるようになるまで、結界には近づかないようにしてるだけ、ですかね」
「結界っていうと……五都市のことだよね?」
五都市、それは一般には日本の『生きている五つの都市』のことを指すが、その実態は狩連が魔除けの大結界を張っている都市のことだ。沖縄、京都、名古屋、東京、北海道……一応、中継するために小規模な結界を張っている集落もあるにはあるが、中心はこの五つとなる。
「よく考えたら、都市を行き来する飛行機とかも妖狩が守ってたりするんでしょ?」
「いえ、飛行機の速度とその高度を襲える妖などほとんど存在しませんから、管轄しているだけですよ。強力な妖は飛行機でも墜落させることはできますが、わざわざそんな力を使ってまで襲いもしませんし」
妖狩が守護するのはせいぜい海を渡る船くらいなものだ。私はそんな依頼を受けたこともないが。
「……僕ってさ、それなりに妖力を扱えてると思うんだけど」
「もっと妖力を支配できないと、妖を惹きつけるだけなんですよ。持ち主がないと言いますか、漂っているだけと言いますか……」
どんな妖も、こんな妖力では警戒すらしない。飴が転がっているようなもので、つまるところ、妖狩の妖力ではない、ということだ。
「まぁ、焦ることはありません。妖力を引き出せた以上、さほど難しいことでも……?」
「どうした? 飛鳥?」
西に四キロ……いや、五キロほどだろうか。この妖力は将境、それも妖虎よりはよっぽど強い。今の香織には荷が重いだろうが……妖を放っておくわけにもいかないか。
「妖が出たようです。行くよ、殺しに」
「わ、分かった! 僕が戦えばいいんだよね?」
「……最初のうちは任せましょうかね」
妖力で脚を強化しながら、その地にただ走り抜ける。私が殺そうかとも思ったが、香織にその気があるならやらせてみるのも悪くはないかもしれない。
地は神奈川の片田舎。ここもまた崩壊した古民家が並び、血に汚れた田畑が広がっている。そして草の伸びた小道の先に、飢えた妖が彷徨っていた。
「……黒鬼、ですかね。将境、妖虎よりは少し強そうです」
少し、とは言ったものの、妖力だけで言えば二倍ほどだと思った方がいい。つまり硬さと腕力が高く、知能も高いだろう。鬼、というか人型の妖は人語を完全に扱う程度には賢い。
「やはりアレは私が殺します。今のあなたが殺せるような相手では……」
「いや、僕にやらせてくれ」
「っ! 馬鹿なことを仰らないでください! あのレベルは妖力だけで殺せるものではない。虚影が発現すらしてないあなたでは……」
……いや、私は何を熱くなっている。別に、香織が殺されたっていいじゃないか。力及ばず妖に殺される、この世界ではよくあることだ。
「……あなたが死にそうになったら私が助けに入ります。いいですね? これ以上の譲歩はしませんよ」
「うん、ありがとう」
彼が気を失ったら、そのとき助けに行けばいい。そうだ。もしかしたら死にかけることで虚影が発現するかもしれない。そもそも私が出れば簡単に殺せるんだ。何も……心配することもない。
「いいですか? 虚影とは心と影の具現化とでも思ってください。どんな武器となるか、それは発現するまで分かりませんが、とにかく、心を影から強く引き出すことです」
「……あんま分かんないけど、分かった……!」
怒り、殺意、悲しみ、哀れみ。あるいは温情か、喜びか。己を形作る感情を、影から引きずり出さなければならない。
黒鬼に寄る香織の背中を、ただ見守るしかなかった。私があまり近づいては、それは彼の戦いではなくなる。
「……おいで、『影冥刀』。いつでも出られるように……」
私は影から自身の虚影を取り出した。手が震える。怖いのか? 何が? 分からない。少なくとも今まで、こんなことはなかった。
「ふぅ……」
「ン? オォ、人間カ。……妖狩カ? ソレニシテハ美味ソウナ妖力ダナ」
「喋れんのか……やっぱり」
「ン……ン。アッチノ女ハ貴様ノ仲間カ? アノ者ハ強イナ……フフ、マァイイ」
卑しい視線を流しつつ、影冥刀にかけた手を強くした。香織を人質にでもするつもりだろうか。舐められたものだ、それで私を殺せると思っているとは。
「今っ! お前の相手は僕だ!」
二メートルを超えるその巨躯に、香織は怯むことなく襲いかかった。妖力を纏わせた拳が、黒鬼の頬を直撃する。体格も妖力も何倍もある相手と迷わず戦うとは……やはり彼の強さも認めざるを得ない。
「ククッ……悪クハナイ。思ッタヨリ、妖力ヲ扱エルデナイカ」
「……っ!」
黒鬼の岩のような拳が香織の腹に衝突した。痛い……見ているだけで。あの細く、強化も弱い身体では骨も内臓も無傷では済まない。
「がはっ……はぁ、はぁ」
「タダヤハリ、雑魚ダナ。コノ我ニ挑ムノハ無謀ダッタ……カ!」
「ぐぁあ!」
香織は蹴り飛ばされ、崩れた家に身体を打ちつけた。私の手が、おかしいほどに震えている。心臓がうるさく響く。ダメだ。まだ、香織を見守らなくては……。
「虫唾ガ走ルンダヨ! 雑魚ノクセニ、一丁前ニ! 戦エルト思ッテイル!」
「ぐっ……うっ!」
蹴られ、打ちつけられ……ビクビクと跳ねる香織の身体からは、まるで噴水のように赤黒い液体が噴き出した。骨が砕け、肉に刺さっているのだろう。嫌な音がここまで響く。
「ふぅー……!」
深呼吸だ、深呼吸をしろ。私は何に怒っている? 香織が黒鬼に抵抗もできないほど弱いことにか? それとも妖が《《一丁前》》に人語を使っていることにか? いや、どちらも違う。私が許せないのはそんなつまらぬことではない。
「香織から離れなさい、妖風情が……!」
「クァッ……! 速イナッ……!」
影冥刀を完全に抜いたその一瞬、黒鬼の懐に潜り込んでその刃を首めがけて真っ直ぐ振った。斬ったのは首の半分ほど、こんなものでは斬り足りない。命を狩るという意味でも、それ以上の意味でも。
刃を空に、低く構えた。香織はもはや呼吸をするだけの塊だ。ここには意識も痛覚も……。
「めちゃめちゃに蹴りやがってよぉ……がふっ……」
「……っ! 香織! 意識が!?」
「下がってくれ、飛鳥……。まだ僕のターンだろ……?」
「……無茶を仰るのは変わりませんか……」
もはや私には毒づくほどの余裕もない。今すぐに黒鬼を、私の手で葬ってやりたいが、それはどうやら望まれていないらしい。
「三度目はありませんよ」
「あぁ、これで終わらせる」
「何ヲゴチャゴチャト……」
私は影冥刀を影に戻した。もはやこれは必要ないだろう。たとえそのレベルに成ったとして、将境に勝てる保証もないのだが……今の香織ならば問題もない。
「……ナッ!?」
「来い!『冥牙砲』」
香織の影が作ったのは、漆黒の拳銃らしき虚影。死に目に遭って心と影の本質に触れたのだろう。
虚影の発現、それは一種の高揚感をももたらす。今の香織は傷の痛みも、死の恐怖も覚えてはいないだろう。あるのはただ、その力を振るいたいという純粋な欲望。
「上げてくぞ! 黒鬼!」
「グハハ! 死ニ損ナイガ! 精々我ヲ楽シマセロヨ!」
妖の本領、『影纏い』。己の影を見に纏い、身体能力を底上げする術だ。つまり香織を《《敵》》として認識している。
対する香織は驚くほどにただ静寂だった。世界の流れを遅く感じているのか、何もかもを見透かすようなその目は、いわゆる『ゾーン』に入った状態だった。
「クソッ……! スバシッコイ!」
「……」
黒鬼の大きな拳を足場にしながら、煽るように観察を続けていた。手の動き、妖力の流れ、そして生じる隙。先ほどまでの香織からは考えられないほどに軽やかで、そして……。
「穿て!」
「冥貫!」
「カッ……!?」
彼の虚影から放たれたのは妖力の塊……光線に近いものだった。一分の隙を突いて脳天を貫き、その巨躯を地面に倒した。先ほどまでの彼とは違う、捕食者のような視線も、疲労のせいか、いつもの気の抜けたものに戻った。
「はぁ、はぁ……。痛ったい……。めっちゃ痛い……!」
「でしょうね。骨もほとんど折れてるのでは?」
アドレナリンも切れたのだろうか。それならそれで安心だ。壊れた身体でこれ以上、動こうともしないだろう。
「お疲れ様です。まさか虚影を発現させるとは、驚きましたよ」
「なっ……飛鳥……」
「安心なさい。妖力を全身に流せば回復も早くなります」
有無を言わさず香織の頭を膝に置き、まだ熱の冷めない額を撫でた。私は一体……何をしているのか。別に、硬い地面に寝転がしてもいいだろうに。
「香織の虚影、アレは恐らく『妖力を発射する』ものですね。速度もそれなりで、なかなか良い力だと思いますよ」
「……でも……飛鳥の影冥刀と比べると……威力が全然ないよ」
「それは当然でしょう。次元が違いますから」
香織の虚影は発現したばかり、つまりまだ一次覚醒だ。私の虚影と肩を並べるには、もう少し成長しなければ……。ただそんな必要がなければいいのだけど。
「とにかく、今は少し寝なさい。妖が寄ってきたら私が殺しておきますから」
「……うん、分かった」
頑固だった彼が、すっかり素直になってしまった。疲労のせいかな。良いとも悪いとも言えない。
「本当に、よく頑張りました」
深い眠りに落ちた彼には、私の声など届いていないだろう。私自身も驚くような、心の底からの本音。それは彼には聞かれない方がいいのかもしれない。
これで香織も、立派な妖狩に……いや、そう簡単にもいかないだろうな。何にせよ、今は束の間の休息を……。




