第弐話 柳香織
東京の街並みはすっかり遠くなり、ビルや家屋の瓦礫が並んでいた。今のところ、近くに妖の気配はない。もちろん、生きた人間の気配も。死体はあるが。
「……ねぇ、妖って言うと和風っぽいけどさ……もしかして、日本だけの怪物だったりする?」
「はい。影の世界に踏み入ったのは日本だけですから。影踏とか影絵とか……影送りとか、あるでしょう? アレらによって影の世界、つまり妖の世界と現が繋がったんです。古来は海外にも現れていたようですが」
「へぇ……」
特に平安以前、妖の数も今よりずっと少なかった時代、アジアを中心に諸外国に存在したという記録はあるらしい。ただ平安時代を境に妖の出現数は急増し、今では日本にしか生まれない。
一応、日本で生まれた妖が海外に移動する、なんていうこともないことはない。が、幸運にも日本は島国だ。大抵の場合は大陸に上陸する前に討伐することができる。
「そんなことより、まずはあなたに知識を叩き込まなければ」
「お、お願いします!」
何から教えたものか……妖、結界、虚影……一つずつ教えるか。
「まず妖と妖狩の等級について話しておきます。とは言ってもそう複雑なものでもないので安心して。下から無境、兵境、将境、王境、覇境の五つ。あなたを襲った妖虎は将境、そして私は王境です」
「へぇ。何かその……基準みたいなのはあるの?」
「妖に関しては単純に妖力の量による区分です。無境は雑魚、妖力を持たない人間にすら攻撃することはありません。兵境は人を襲いますが、妖狩ならばいくらでも対処できます。将境以上は普通の人間が遭遇したらまず死にますが……詳しい基準はその都度教えます」
「じゃあ、僕は本当の本当にピンチだったわけだ。ありがとね! 改めて」
「そんなことはいいんですよ。どうでも」
人が良いのかなんなのか、そんな状況でもなかろうに。悪い気はしないからこれ以上の否定もしないが。
「まずあなたには兵境の妖を狩れる程度には強くなってもらいます。とはいっても、妖力を扱えれば戦えるようにはなるでしょう」
「……そもそもさ、妖力って何さ」
そうか、そこからか。分かってはいたが、元一般人に妖のことを教えるのは骨が折れる。
「一度お話しましたが、妖力とは心の影の力。あなたが本来持つ心と、その裏とのギャップ……とでも言いましょうか」
「つまり……どういうこと?」
「言ってしまえば死の間際に溢れ出る感情によるもの、ですかね。あなたが妖力を持ったのは、そもそもの素質があった、というのと、妖虎に襲われて死にゆく人間を間近で見たからでしょう」
「あ、あぁ……」
……嫌な景色を思い出させてしまったか? 人が死ぬのは当然だろうに……というのは私の価値観か。けれどこれからは香織にも慣れてもらわなければいけない。
「まずは妖力を感じるのです。そうすればいずれ扱えるようになるでしょうから。鍛錬あるのみです」
「そこは脳筋なんだね」
「難しいのは妖力を持つことですから。もっとも、私のような生まれつきの妖狩はそう苦労することもないのですが。妖力を使えれば妖と戦えます。そして虚影を得ることも……」
「虚影?」
「心の影が形成する武器……妖力の極地とでも思ってください。発現すること自体はさほど難しいわけでもありませんが」
実際、妖力が何なのか、それを理解できれば虚影の覚醒など流れるようにできるだろう。ただ後天的な妖狩に会うのはこれが初めてだからなんとも……。
「何はともあれ、まだ妖力を扱えないあなたには早い話です。とりあえず……あちらの家屋で夜を過ごしましょう。影界を張ります」
「また知らない言葉が出てきたよ」
「要は認識阻害の結界です。妖力を使って影を広げることで気配を消すものですが……今は対人間用に少々形を変えますか」
扱いきれていない香織の妖力を隠すことはできない、つまり鼻の利く妖には居場所がバレてしまう。ただ王境の私の妖力もあるから寄りつくようなこともないだろう。ならば隠すのは視界でいい。
人間が妖力を感知できないわけではないのだが、妖のように妖力の質を嗅ぎ分けるのは得意ではない。大小は分かるだろうが、私たちの妖力であることがバレるわけでもない。
「……色んなことができるんだね、妖力っていうのは」
「万能な力でもないですがね。むしろ影の方が有用ですが」
綿の飛び出したソファに香織を座らせ、影から取り出した非常食をいくつか手渡した。容量は私の体重と同じだが、便利なのはこちらの方だ。妖力が精神的な影の力というだけあって、その幅広さは計り知れない。
「スゴっ! 影ってそういうもんなんだ!」
「そういうものです。私の場合は少し特殊……というかまた次元が違いますが」
私は妖力の総量は並外れて多い。そしてその半分以上を影に吸い取られているのだが、それゆえに影はなかなかどうして私の思い通りに動いてくれる。影に妖力を吸われるのは……これは影冥刀によるものだからまた別の話か。
「それを食べながらで構いません。私から、何か力を感じますか?」
「……妖力ってこと? これといって……」
「そうですか……では……」
「来い、『影冥刀』」
床に落ちた影から出現する、確かな質量を持った黒い刀。この飾り気のない一振りは、我ながら私らしいなと思う。
「これが私の虚影、影冥刀です。妖力の塊……というとまた少し違いますが、濃密な妖力を纏った存在です。これで、何か感じませんか?」
「……感じないこともないけど……これが妖力かと言われると……」
難しいな。香織にはさほど才能がないのか、あるいは……。いや、まさか私に教える才がないなど、そんなことはない。ならば何か……妖力を間近で感じる方法は……
「っ!?」
「感じるでしょう? 今のあなた、一番妖力が溢れてますよ。私の妖力とあなたの妖力が、互いに反発しています」
勢いよく振った刃、それは香織の首に触れ、一筋の赤い線を作った。いや、正確には触れる直前、つまり流血など錯覚だ。けれど香織は、間違いなく首を斬られる恐怖を感じている。
「はっ……はっ……。そんな……メチャクチャな……」
「感じるか、感じないか。今はそれを尋ねているのです」
震える指先、声、そして引き攣る口元。少しやり過ぎたか? しかし最も効率的なのはこのやり方だろう。実戦を除けば、だが。
「……なんか……感じる。……頭の奥から溢れ出す……溢れ出しているような力が……」
「えぇ、それが妖力です。……それが心の影です。忘れないように、その妖力を放出し続けなさい」
シャワーのバルブを捻るように、妖力の出し方や調整の仕方を知らなければならない。全てはその後だ。とりあえず妖力を自在に放出することができたのなら、いくらでもやりようはある。
「む……むむ……」
「力むのではなく、自然に。感情をそのまま表に流すようにするのです」
「……そう言う飛鳥はあまり感情を表に出さないじゃない」
「私はすでに妖力を扱えますから。ほら、そんな減らず口だと……」
妖力が萎んでいく。確かにそう思ったのだが……。どうやら私は、香織のことを侮っていたらしい。私より力がないからと、何もできないダメな少年だとばかり。
「コツは、掴めましたか?」
「なんとなく……」
「それで構いません。影とは曖昧なものです」
嬉しい、と言うのかな。私の指導が身を結んだからなのか、それとも香織が成功してくれたからなのか。ずっと昔、似たような感覚になったことがある気がする。
「なれば今日は寝なさい。最初の放出で妖力の大半を流出したようですから」
「……飛鳥もちゃんと寝るの?」
「もう少しは起きていますが、寝ますよ、ちゃんと。影界に異常があれば起きられますから」
妖力をほとんど使ってしまえば疲労も相当だろうに……。そんな状態でなお、私の心配か。ふふっ、青二才が、生意気なものだ。
「ねぇ、飛鳥。君はどうして妖狩になったの?」
「私は生まれついての妖狩ですが?」
「あぁ、いや、そうじゃなくてさ。それを仕事にしたの? っていう意味」
「……さて、どうだったかな。そんな理由はとうの昔に失った気がしますが」
言うなれば力があるから、だろうな。それだけの力があって……。元は目的もあったわけだが、それを達成してからは特に意味のないこと。達成した、と言えるのかは分からないが。
「うわっ」
「つまらないことを言ってないで寝なさい。明日は実戦ですよ」
強引に香織の頭を倒した感覚が、妙に左手にこべりつく。何かが怖かったのか? ……分からんな。記憶なんてものは大した意味もない。今この時間というのも、記憶の一部でしかない。……夜の影に冷やされてしまったかな。
◇◇◇
「香織、起きてください。……香織!」
「うわっ! はぁ……はぁ……」
空は快晴、ときどき妖。この部屋を包む私の影も、そろそろ地に降りたいと文句を垂れる頃合いだ。
「うなされていましたが、大丈夫ですか?」
「……平気だよ。ちょっと……昨日のことが……」
なかなか脳が追いつかないのかな。それもそうか。昨日の妖虎の現場は、流石に刺激が強かったろう。……人の肉や骨が散乱しても、心が動じなくなったのはいつからだったか。
「もう少し、休んでいても構いませんよ。私はあなたの心労が分かりませんから……」
「……いや、行こう。夢で動じるような男じゃないよ、僕は」
「そうですか。思いの外、タフですね」
慰めの言葉でもかけた方がいいだろうか。……いや、やめておこう。心の奥ではさほど心配しているわけでもないし、それなのに口先が勝手をしたらそれはそれで失礼だろうから。
「早速、実戦に行きましょう」
「妖と戦うってことね! どんなヤツ?」
「このまま進めば会えるでしょう」
香織は妖力を捉えたからと言って、扱えると言えるほどではない。無境ならば何の問題もなしに勝てるだろうけれど、妖の餌であることには未だ変わらない。
進行方向を変えず、ただ南西に直進。苔むし、蔦の蔓延った静かな古い都市を抜けながら、瓦礫の影に身を潜ませた。
「えーっと、アレが?」
「はい、アレです」
視界の先にいるのは無数の小さな妖。群れのように見えるが、実際には一つの存在。
「アレは百蜂と呼ばれる妖です。等級は兵境、強くはありません」
「……僕、武器ないけど」
「……妖力があるでしょう?」
「あ、素手ってことなのね」
あの程度ならば虚影は必要ない。加えて、虚影、つまり独自の武器が発現していない香織に下手に武器を持たせて癖をつけてはならない。
「いいですか。今回はたとえ何が起こったとしても、私は助けに入ったりはしません。あなたの力だけで勝利を掴みなさい」
「分かったけど……なんで助けてくれないの?」
「私は虫が嫌いなんです」
頭、胴、腹。その奇妙な形はまだ許す。百歩譲ってギリギリ許す。しかし六本足はダメだ。変な軌道で空を飛ぶのもダメだ。デカい目もダメだ。私は虫が嫌い。妖よりもずっと嫌いだ。
「スゴい怒りを感じるけど……まぁ分かったよ。今回は頑張る」
「えぇ、アレを倒せれば褒めてあげます」
「……というと?」
「ナデナデしてあげます」
そうだ、私のためにも頑張ってくれ。香織だって、私のような美少女に褒めてもらえるならやる気も出るというものだ。
「よっし! やる気出てきた!」
そう、それでいい。その気さえあればあの程度の妖など簡単に殺せるだろう。




