第拾捌話 王
妖とは、影の世界の住民である。人の思念により生まれ、現へと出現する。平安よりその数は急増し、江戸には全盛となった。現代日本、ほとんどの都市が壊滅したのは、何も戦争ゆえではない。それも要素の一つではあるが、あくまで主な理由は、妖が日本を蹂躙したからだった。
「んー……香織……」
「どうしたの、いつもよりなんか……」
崩壊した京都、もはや街は消え、ただひたすらに平らな土地になっていた。天王山との激闘も終わり、静かな世界。私は頭を……全身の体重を香織に預けていた。
「男の子はね、頑張った女の子を褒めるものです」
「ふふ、褒めてるじゃんか」
「じゃあもっと甘えさせて」
膝の上から見上げる彼は、前より少しだけ大人っぽく見えて、少しだけカッコよく見えた。そんな彼の柔らかな頬に触れるとその熱が、確かにそこにいるんだと教えてくれる。それが何よりも嬉しい。
「ねぇ、何分もこうしてるけどさ、そろそろどこか行かないの? 屋根があるところでも……どこでもさ」
「疲れちゃったの。だからもう少しこのままでいさせて」
「……仕方ないな」
撫でてくれるその手のひらに額を押しつけた。龍の妖力はあまりにも多い。影が吸収してもしきれないほどに。だからだろうか、いつまでも身体は重かったし、なかなか疲労も抜けなかった。
「ねぇ、このあとはどうするの? 僕ももう……妖狩として強くなってさ、飛鳥は覇境だもんね」
「んー……」
記憶を辿り、彼との約束を思い返す。香織が妖と戦えるようになるまで私が守る。そう誓った。……もう香織は守られる存在でもない。将境か……王境に片足を踏み入れている。もう立派な妖狩だ。
「ふふっ、強くなりましたね」
「……うん、おかげさまでね」
寂しそうに歪んだ顔を見ると、どうしようもなく胸が締めつけられる。天王山……龍という妖を倒した以上、当分は覇境の妖は出ない。王境の妖が出ても、今の彼なら問題なく対処するだろう。均衡が戻ったんだ。やっと、私の元を離れても……。
「……飛鳥?」
「ねぇ、わがままを言ってもいいですか?」
「わがまま?」
瞳の奥が熱い、痛い。弱音だよ、コレは。紛うことなき、私の弱さ。昔は捨てていた人間らしさ。その感情が、今はたまらなく愛おしい。そして大切だ。
「まだ私と一緒にいてください。……私を置いて行かないで」
「っ……うん。もちろん。当たり前じゃないか。……でも、飛鳥がそう言ってくれて嬉しいよ」
吐息の重なる距離、そこまで香織は顔を近づけた。膝の上、目の前には香織の匂い。視界いっぱいに彼がいて、その隅には未だに慣れない金色が座っている。
「しかし……参りましたね」
「……何が?」
彼の顔が離れていくことが、どうしようもなく悲しく、恐ろしい。が、何も目の前から消えるわけではない。ここにいてくれるのだから……。
「京都がこうなっちゃ、狩連もまともに機能しないでしょう。妖狩が上手く機能しなくなれば……私たちのようなフリーな存在が忙しくなりますね」
「……飛鳥が狩連を牽引しちゃえばいいじゃんか。覇境の妖狩、妖狩の王様だよ」
「ふふ、そんな子どもみたいな」
けれど、そんな言葉が妙に心に落ちた。私は人間の中では最強だろう。間違いなく。実力は分からないが、かつての父と同じ立場になったんだ。組織を気にするべきか、否か。分からない。どちらの方が妖を狩ることができるのか、そして人を助けられるのか。
「……香織が支えてくれるなら……そうですね。再建の手伝いくらい……してみるのもいいかもしれません」
「ははっ、飛鳥らしいや」
心機一転、それが今なのだろう。私がいれば、目の前の問題は大抵、解決できる。香織がいれば、私が挫けそうなときにも助けてくれる。そう思うと……。
「無敵ですね、私たち二人なら」
「……うん、そうだね。無敵で最強だよ」
もう一度、彼の頬に手を伸ばした。香織の笑顔は太陽のように眩しい。そこにあるようで、手の届かないほど遠くにも見える。雷玄さんも見守ってくれているだろうか。大好きな父と母も……奈々生も、見守ってくれてるといいな。
「ねぇ、そろそろ行かない? どっかさ……」
「もうちょっと……影が落ち着いたら。焦らなくても、妖に襲われることはありませんよ」
ここにはついさっきまで龍がいたんだ。覇境の……さらに最上位に君臨する存在が。そしてそこで、私たちが戦闘していた。そんな妖力の残る場所に、わざわざ足を運ぼうとする妖などいるわけがない。知能があってもなくても、ただ本能が恐怖しているはず。
「……まぁそれもそっか。僕でも近づかないよ」
「えぇ、ですから、そう焦らないでください。大丈夫。もうすぐ私の影も、きちんと天王山の妖力を吸収するはずです」
私も香織も、疲労でほとんど動けやしない。ならばここを去るより、ここに残っていた方がよっぽど安全だ。妖は近寄らない。狩連が崩壊した以上、妖狩もわざわざこんな場所にはやって来ない。
「それにしても……強かったな、二人とも。僕はサポートにしかなれなかったよ」
「香織……」
「僕も覇境になりたいな。ちゃんと並んで戦えるように……いざってときに……」
彼の悩みはもっともだ。もしも覇境……いや、王境上位の妖と敵対したとき、単独で戦えるのか、という不安。強さが足りないのでは、という怖さ。
「香織、私たちはあなたに助けられました。あなたのそのサポートに」
「……そうかな」
「えぇ、そうです。それにこの短い間に、すっかり逞しくなられて、誇らしいんですよ、私は。……私は強い。個人ならば特に、そして今の時代なら圧倒的に。だから私の足りないところは単純な強さじゃない」
だからこそ、私が彼に求めているのは何も強さではない。が、それを言うのは酷だろう。強さがほしいときもある。それが支えになることもある。私がそうだったように。
「香織は私にない強さを持っています。十分に。……だから私を支えるというなら、もう十分なんですよ。まぁ、そう言っても止まらないでしょうが」
「……そっか。そう言ってくれると気が楽だ」
憑き物が落ちたように、さらに眩しい笑顔を見せた。香織はたぶん、これからも強くなるために努力をするのだろう。彼なりに、私の隣に立つために。自己肯定感がどうという話ではなく、己の強さに満足するために。
「……さて、そろそろ行きますか」
「お、平気かい?」
そう言いながら、私は身体を起こした。名残惜しいが、いつまでも彼の膝を枕にしておくわけにもいかない。影が妖力を全て吸ってくれたようだし、前のようにしばしの放浪をするのも悪くはない。
「平気ですよ。おかげさまで」
行くとは言うが、どこに行こうか。京都は潰れ、ここから一番近い大結界は名古屋だ。寝泊まりは小結界の集落か、あるいは今まで通り結界外の廃屋か。どちらも目的地とは言えないか。
「そうだ、東京の……圭のところにでも行きましょうか」
「あぁ、喫茶店の! いいじゃん! 久しぶりに東京に帰って……」
二度と来るなとは言われたが、行って怒る彼女でもない。覇境になったことを伝えれば、不器用ながらに褒めてくれるだろう。そしたら前みたいにケーキでも注文しよう。
東京は奈々生の生まれた土地で、今は何より香織の故郷。そして、私と香織の始まりの地。目的地としてはおあつらえ向きの良い場所だ。狩連のことを考えるのは、それからでも遅くはない。
「圭は良い人なんですよ。私を拾ってくれて……」
「ははっ、何度も聞いたし、僕も少しは面識もあるよ」
最初に香織が立ち上がり、それからその手を取って、私が立ち上がった。両手、背中、腰、両脚。上から順に伸ばしてみた。血が一気に流れ出し、ジーンと熱が広がった。
「くっ……ふあぁ。よし、行きましょうか。目的地は東……」
「……飛鳥?」
東の方向に歩き出そうとしたその瞬間、ガクンと右の膝が地面についた。突然の脱力、私は思っていた以上に疲労が溜まっていたらしい。
「ははっ、すみません。肩を貸して……っ」
「ちょ、ちょっと、やっぱりもう少し休んでこ?」
彼の肩に手を回そうとした瞬間、次は左の膝が崩れた。そして順に腰、両腕、そして全身の力が抜けていく。
「あぁ……すみません。案外、回復してなかったようで……」
「いや、仕方ないよ。飛鳥は天王山と正面から戦ってたんだから」
もう少し、私は私の身体を大切にしなければならなそうだ。香織を安心させるためにも、そして私のためにも。今まで通りとはいかない。今が変わるときなんだ。
「ふぅ……すみません。次はもっと、肉体の回復の方に……」
そう言って言葉を止めた。違和感、これは本当に疲労なのだろうか? 影は確かに妖力を取り込んだ。その影から妖力を引き出し、私の回復速度も跳ね上がっているはず。それなのに今の私は……。
「はぁ、はぁ……っ?」
「……香織?」
何が痛むでもない。けれど異質な違和感。力が抜けていくような……いや、そんな話ではない。影が、妖力が弱まっている。何かに吸われるように……剥ぎ取られるように……。
「はっ、はっ……!」
「飛鳥っ!? どうしたの!?」
分からない……分からないが。今、何かが起こっている。何かが抜かれている。何が? この感覚は妖力だ……いや、何の術も行使していない。それなのにこれは……私の妖力が、私の影に吸われて……いや、違う……!
「かっ……はっ、はぁ……うっ!」
「ちょっ……飛鳥!」
崩れるように倒れ込み、香織の胸に全ての体重を倒した。息が苦しい。身体が重い。私の影は妖力を吸い尽くし、そして私を飛び出した。いや、吸ったのではない。取り戻したのだ。やっと、降臨できる最低限のレベルに……。
「お前……は……っ!」
「ふむ……久方ぶりの現よの」
「何……アレ……」
忘れる訳もない。二本の角、鱗はなく、洗練された肉体。十二年前の……私の記憶を火に沈めた存在。妖の祖にして、最強。原点にして頂点。終着点である龍とはまた異質の……圧倒的な格。その別名……。
「影の妖・酒呑童子……!!」
妖とは影から生まれるもの。つまりそれそのもの……妖そのものの名を冠する存在。まさか、まさかそんな存在が……。
「私の影に……潜んでいたとは……っ!」
「久しいな、お前も。儂にトドメを刺した……そう思っていたろう?」
信じたくはない。けれど合点はいく。私の影が妖力を吸っていたこと。影冥刀に影を支配する力があったこと。そして……妖の奥義である『影纏い』を支えたこと。全て……全て私の影に……!
「はぁ……はぁ……酒呑……」
「飛鳥……落ち着いて!」
「来い!『冥牙砲』」
妖力のほとんどを吸い取られたせいか、私の生命力も底が見えていた。呼吸をするだけで身体が軋み、ただいるだけで汗が滲んだ。視界はだんだんと光を捉えることができずに……。
それを止めてくれたのが香織だった。残っていたほとんどの妖力を、彼の命に支障が出ない程度に私に移してくれた。
「はっ……、はぁ。ありが……」
「無理に喋らないで……飛鳥……」
当然、香織も平気ではない。息は上がり、頭は痛む。それでも今、二人とも生きている。
「……さて、心して聞きたまえ。小娘よ」
「っ……」
「儂はこれから、妖を率いてこの国を滅ぼす。そして妖だけの世界を作ろう」
聞き捨てならない、聞くしかない。最悪の気分だが、この場を支配しているのは私でも香織でもなく、ヤツだ。
「ただお主には恩もある。お主がいなければ、儂は死んでいたろうからな。だから選択肢を与える。儂を見逃して生きながらえるか、妖狩として、儂に挑み、殺されるか」
「そんなの……っ!」
いや、ここで挑むのはバカのやることだ。相手は妖の王、勝てる相手ではない。……それでも私は、妖狩の天嶺飛鳥だ。人間の、天嶺飛鳥だ。幸いにも、ヤツは降臨直後、万全ではない。
「私たちは妖狩だ。……ねぇ、香織」
「あぁ……もちろん」
「だろうな」
私は迷わず影冥刀を抜いた。いくらか見慣れた白銀の刃、しかし妖力のせいか、絶妙に不恰好だった。体力はない。妖力もない。息も絶え絶え、ギロチンの刃が触れてる気分だ。……それでも……ヤツは妖。そして両親の仇……!
「お前を斬る。酒呑……っ!?」
「がっ……」
かろうじて捉えられた一閃。ただの妖力の塊。反応もできなかった。そして最悪。それは香織の胸を……。
「え……っ? 香織……?」
「ふむ……威力が出んな」
積み上げたものも、崩れるのはあまりに一瞬。音が耳に入るよりもずっと早く、香織は糸の切れた人形のようにただ静かに崩れ落ちた。流れているのは確かに赤い血。それも流れる速度が尋常ではない。酒呑童子の妖力は、目で追うよりも先に、香織の心臓を貫いていた。




