第拾陸話 仕事人
「はぁ、はぁ……なんて大きさ……っ!」
龍はそのまま、その長い身体を天に向けた。十メートル、二十メートル……五十メートル。いや、そんな程度ではない。雲を掴み、空を溶かした。飛んでいたはずの戦闘機も、いつしか消えてなくなっている。
「狩連も……迷惑なことをしてくれましたね」
「こんなことなら、俺が裏切ったことも、飛鳥が覇境に至ったことも伝えた方が良かったかもな」
狩連は雷玄さんを怪しがり、私と彼を始末するために軍をも動かした。そして偶然にも、私たちは鹿死と同じ場所にいてしまった。なんてタイミングの悪い……。
「追いましょう。アレに勝手にされると……」
都市が滅ぶ。対抗戦力を失えば世界さえも。……破壊衝動はさほどないだろうから、あくまで動く災害という扱いだろうが……それでもあまりに危険すぎる。
「げほっ、ほっ……ゔぇっ!」
「香織!?」
どこかへ去ろうとする龍を追ったそのとき、突然に香織が倒れ込んだ。いや、突然ではない。龍の妖力に当てられたのだ。彼は将境、あるいはせいぜい王境の下位、アレを間近にすれば当然……。
「香織! 大丈夫です、落ち着いて」
過呼吸になった彼の背を優しく撫でる。毒を吐き出させるように、緊張をほぐすように。妖力の薄い者には、あの存在そのものが毒になるらしい。……香織も強いのだけどな。
「はぁっ、はぁっ……」
「大丈夫、大丈夫ですよ」
爛れた右手で優しく、割れ物を扱うように触れた。大丈夫、それは私に言い聞かせている言葉でもある。背筋が凍ったように痛い、頭が変に響いている。鼓膜が損傷したせいか、心音もおかしな音に聞こえる。
「うっ……。ごめん、良くなってきた」
「えぇ、それは良かった」
そう言いつつ、まだその顔は青かった。そして同時に、多少の凛々しさを取り戻している。香織は強い。実力に見合わないほどに。
「いいですか? 無茶はなさらないで。私は十分に守られています。気負わないでください」
「っ……うん。ありがとう」
私は迷わずに香織を抱擁した。肩に顎を乗せ、そして背中を両手で包む。彼の体温は心地良い程度に熱いかった。焦りを払い、冷静に。私も落ち着きを充電した。
「さて、どうしましょうか……」
「どうするも何も……なぁ」
龍が向かったのは京都の方面。運が悪かったら大結界を壊してしまう。そうなれば大勢が死ぬ。許せることではないが、無謀に立ち向かっても私たちの死体が増えるだけ。ただ……。
「幸い、龍は相当の高所を飛んでいました。結界を壊すこともないでしょう」
「まぁ……隠れてこその結界だもんな」
結界は妖を寄せつけない。つまり認識阻害効果がある。たとえ龍とは言っても、妖である以上、それを認知はしないはず。少なくとも、あれだけ上空を飛んでいたのならば。
とはいえ、追わないわけにもいかない。私たちは走り出し、そのまま作戦会議に移行した。わざわざ京都から来た道を戻るとは……。
「香織、撃ち落とせると思いますか?」
「……いや、無理だね。僕の冥牙砲も……今の射程は三十メートルが限界だよ。至近距離で当てたとして、そもそも有効打にならない気がする」
「ですよね……」
そもそも、飛ばれていては届きすらしない。引きずり落とすか、あるいはそこまで赴くか。どちらも現実的ではない。
「雷玄さんの、投擲はどうですか?」
「届きはするだろうが……有効打にゃならねぇな。俺の手を離れちまったらさほどの殺傷力は望めねぇから……」
致命的なほどに手がない。かつては強力な妖狩が力を合わせて痛み分けになったとか。江戸時代の終わり、当時は今より妖狩は多かったらしいから……。
「いまの時代で戦える相手じゃないですよ。王境なんて数える程度にしかいない」
「……僕、もしかして役に立たないんじゃ……」
自信のなさそうな、そして申し訳なさそうな弱々しい声。久しく聞くその音色に、針でも刺されたように胸が痛かった。香織は頑張ってくれている。そんな彼には一緒に戦ってほしい。隣で支えてほしい。……が。
「厳しいことを言いますが、正直、戦力には数えられません」
「……そうだよね」
そんなことを伝えるのが、妙に苦しかった。逃がしたいからではない。けれど事実、彼の力では決して届かない。それだけの圧倒的な差。当然だ。現状では私や雷玄さんでさえ相手になるのかどうか……そのレベルなのだから。
「とはいえ、できることもあるかもしれません。香織の観察眼は目を見張るものがあります。戦いとは何も、力だけじゃない」
「っ! そっか、そうだね!」
それもまた、私の本心だった。お世辞でもないし、同情でもない。そんなことで命を懸けてくれとは言わない。私にはただ、彼が必要だった。
「影は? 飛鳥が影を斬れば、龍も倒せるんじゃない?」
「……見たところ、龍は影を持っていません」
「なんでよ!? 妖でしょ? アレでも……」
妖ではある。他の妖と同じ、影から生まれた……影の世界からやってきた存在だ。それは揺るがない事実。
そして同時に、アレは普通ではない。妖であって妖ではない。もっと根源的、あるいは超越的なものだ。言うなればアレは……。
「龍ってのは妖の終着点とも言える。言うなれば影を克服し、超越した存在。人間で言うところの三次覚醒ってやつさ」
妖を超えた妖。だから異質。確かに覇境、だが妖鬼と同列に考えてはならない。私とも同列に考えてはならない。
「じゃあどうやって勝つのさ」
「分からん。まず間違いなく、あの妖力に阻まれて半端な攻撃は効かんだろ。それを超えても硬い鱗が待ってる」
「妖鬼の鱗も硬かった。それ以上と考えると……参りますね」
影さえあれば、それを斬ってお終いだった。防御無視、硬さなど関係ないのだから。そして空も飛んでいる。相性が……あまりに最悪。
「……もうすぐ京都に着きます。心の準備……を……」
その光景に、不意に速度が緩んだ。ジリジリと遅くなり、そして停止する。破れた結界、鏡のように反射する血の海。そして燃え盛り、崩壊するビルや家屋。
「……壊されましたか」
自分でも驚くほどに、心は穏やかだった。いや、前から私は知らぬ人の死には鈍かったが、それでもなお。たぶん、この光景を覚悟していたからだ。龍が出た以上、人が死なないなんてことはあり得ない。
「っ……飛鳥、雷玄さん! 生きてる人、探そう!」
「……えぇ、そうですね」
香織も前ほどの怒りは見せていない。龍の力を目の当たりにしたんだ。誰も災害にそれほどの怒りを見せはしない。ただ、今できる助命を、彼はそれを選んだんだ。
「……! 飛鳥! こっち、人の気配がある!」
「分かりました! 今向かいます!」
瓦礫の山に足を進めながら、思考は別のところに置いた。なぜ、結界が破壊されたのか。龍の飛んでいた高さ、あの高さで結界に触れることはない。あの高さで結界を気にするわけが……。
「天嶺……飛鳥……!」
「うっ……ごほっ!」
「飛鳥っ!?」
知らぬ間に、私の腹を何かが貫いていた。黒い矢尻。溢れた血がそれを伝い、同時にその矢は影に溶けた。……『虚影』。そうだ。この惨状で、普通の人間が生きているわけがない。
「げほっ、ゔ……」
「飛鳥、飛鳥!」
血が流れ、膝から力が抜ける。迂闊だった。もっと警戒をすべきだった。思考など、二の次で……。
「お前っ……飛鳥を……っ!」
「お、落ち着きなさい、香織。……その方は……意識が混濁してます」
焦点の合わない瞳。正常な思考能力などそこにはない。敵がいたから射った。私の敵かもしれないが、ただの仕事人だ。私は傷口を必死に押さえながら、妖力で彼を威圧した。
「……助けてやりなさい。それがあなたでしょう、香織?」
「で、でも……飛鳥……」
「大丈夫、死にはしません……」
傷口、部分的に影を纏い、止血する。痛いし消耗はする。戦闘を前にこれは苦しいが……仕方ない。
そして分かったこともある。龍が京都を壊した理由、それは単純だ。人間が攻撃したから、それだけだろう。刺激したんだ。彼か……あるいはそれ以外の妖狩が。ただそうとなれば……見方を変えれば好都合。
「来い!『影冥刀』」
前よりさらに白さに磨きがかかっていた。白銀に輝く刃は、綺麗に街の赤色を反射していた。それは今から斬る、という決意の表れでもある。
「グァッカッカッ」
「……来ましたか」
空を割り、まるで神のようにそこから降りてきたのは相変わらず巨大な、緑色の龍。熱い妖力が痛い。ただいるだけ、それだけでこの場は……。
「人ノ子ヨ……オ主ラニ恨ミハナイガ。我ニ挑ンダコト……水ニハ流センナ」
「……まったく、厄介なことをしてくれました」
目の前にわざわざ降り立ち、龍は堂々と宣言した。鬼が喋るんだ、龍が言語を操ることに違和感はないが……いやに尊大に聞こえた。言葉は分かる。が、節々に感じる異質さが、化け物であることを語っていた。
「宵堕!」
「グォ……ッ!」
「雷玄さん……!?」
雷玄さんが突如頭上から現れ、龍の建物のごとく太さの首に刃を立てた。虚影の鋭さも、重力による加速も加えた一撃。願わくば、それで首も落ちて……。
「……ですよね」
「クックッ……威勢ノイイ!」
「っ……!?」
地面に押さえつけられたまま、開かれた大きな口。胃の奥……いや、もっと別の場所から込み上がった妖力の塊……。
「咆炎!」
「熱っ……! 僕の冥牙砲の上位互換じゃん!」
口から放たれたのは熱線。大地を溶かし、円状に抉られた……いや、消し去られた跡が地平線まで続いている。まともに触れれば、どんな防御も焼き尽くされる。
「っ、香織! 一度離れます!」
「えっ……なん……」
「竜巻塒」
言い終わる直前、龍の渦巻く身体から空気の圧が押し出された。迷わず香織を抱き締め、すぐさま二十も三十も離れる。ただその圧は異常だった。
「ぐっ……香織、離さないで!」
「う、うん……っ!」
まるで大波に飲まれた気分だった。右も左も……上も下も分かりやしない。ただ押し出され、回転される。ただの風ではない。質量……水分を含んだ散弾銃のような……!
「くっ……あぁ」
「あ、飛鳥……」
裾を掴み、震える香織の手を包んだ。見渡せばそこは平たい土地だった。瓦礫も何も、死体も生き残りもない。ただ破壊され、そこにあるのはゼロ。
「痛っ……ぐぁっ!」
鉄筋が脚に刺さっていた。抜くと削れるような痛みが走る。影纏いは使いたくない。決定的な場面でしか……使ってはならない。いや、しかし……。
「少し、待っててください、香織」
「飛鳥……?」
影を全身に這わせる。龍は今、油断している。それで届くかどうか……。
「っ……!」
「何……!?」
脚から血を流しながら、それは一瞬。接近、抜刀。狙うは顔、それから首。一振りで、一気に……!
「百鬼夜行!」
「ヌオッ……!」
激しく衝突する音、龍の頭は後方に吹き飛んだ。斬れたか? それとも……衝突だけか? 分からない……手応えは悪くなかったが……。
「悪クナイ!」
「ぐっ……がはっ!」
効いちゃいない。首が下がったのは助走距離だ。頭突きで私に反撃するためだけの……。
「飛鳥!」
「ぐっ……くぁっ」
飛ばされる私の身体、それを受け止めたのは香織だった。硬い瓦礫ではなく、柔らかい人の手。肋がイッた。呼吸も苦しい。まるで胸を内側から殴られたみたいに……。
「飛鳥……生きてるか?」
「……雷玄さん、ご無事で……」
苦痛の中、背後から現れたのは雷玄さんだった。至近距離、あの嵐によってそうとう飛ばされたらしい。
「お前の渾身の一撃、それなら斬れるか?」
「……いえ、無理です」
さっきの一撃、百鬼夜行でも傷はつけられた。鱗を傷つける程度には。あまりに硬い、硬すぎる。それにいざとなれば、そもそも届かぬ距離に逃げられてしまう。
「……ならば影はどうだ? 影なら斬れるのか?」
「ですから、龍に影は……」
「斬れるのか?」
「……影があれば」
ただ龍には影がない。何度も探してみたが、確実に。鱗の隙間、角の下、観察はしてみた。けれどない。それは間違いない。
「……いいか。一つ、策がある」
「……え?」
「まず——」
斬れるわけがない。あの硬さは、間違いなく。ただ、それでも雷玄さんの口から語られたのは、確かに龍を斬る作戦だった。上手くいけば、斬れる作戦だった。
「ただそれは……あまりにも希望的な……」
「上手くいけば問題ない。……いや、上手くいかせる。だから気張れ」
不確定、でもやる。考えなしのような理論だが、雷玄さんならやってくれる。そして、残された道はそれしかなかった。それしか、勝つ選択はなかった。




