第拾伍話 天上天下
妖鬼との死闘から二日が過ぎた。その間、私といえば雷玄さんの買ってきたご飯を食べ、そして眠っていただけ。これといった戦闘もなく、おかげで身体はすっかり……というほどでもないけれど、十分なほどに回復していた。
「ねぇ、香織。ちょっと来てください」
「ん? どうした?」
柔らかい口調で、そして駆け足で寄ってくる香織の姿がどうしようもなく愛おしかった。まだ私を心配しているのか、その瞳はどこかまだ潤んで見える。
「雷玄さんに買ってきてもらったんです。ほら、ウサギのキーホルダー」
「……え、それだけ?」
「えぇ、それだけですよ」
私が揺らして見せたのは白いモフモフとした小さなウサギ。可愛さに紛れた奇妙さがなかなか面白い。実際には私が頼んだのではなく、雷玄さんが面白いものを見つけたとくれたものだが。
「可愛いでしょう? 一つ差し上げます。よかったら持っていてください」
「え、あぁ。まぁ……持っておくけどさ」
どこか乗り気ではない、というよりも一種の落胆。何かお願いをされると思っていたのだろう。その落差でなんとも言えない虚無感だった。
「ちなみに私とペアルックです」
「あ、大事にします」
どこに付けようかな。武器には付けられないし……影に忍ばせておくのももったいない。紛失することもなかろうが、身近に触れていたい。ならば懐にでも仕舞っておこうか。
「おーう、飛鳥。調子はどうだ?」
「上々ですよ、雷玄さん」
「そうか、そうだろうな」
相変わらず大きく太い声で廃屋に入ってきたのは雷玄さんだった。ビニール袋を持っているところを見るに、どこか買い物に行ってくれていたらしい。
「ほら、飛鳥。復活祝いだ」
「あ! ありがとうございます!」
袋から出されたのは三切れの苺のケーキ。プラスチックのフォークを使い、私たちはそれを食べ進めた。甘さの中に、時折り見える酸味が実に良い。
「どうでした? 狩連の方は。何か動きは……」
「ねぇな。少なくとも俺たち……っつーよりお前たちを追ってそうな雰囲気はなかった。なんだかんだ怪しまれちゃいるが、俺が組織の命に逆らったとは思ってないらしい」
「それは良かった……」
殺戮兵器・燐堂雷玄、彼が始末したと言えば誰も疑いやしない。彼がこうも自由に、そして任務を求めない姿勢には今頃疑問を持っているだろうが、よもや裏切られているとは夢にも思わないのだろう。
「つってもな、飛鳥。お前が覇境に至った以上、別に逃げ隠れる必要はねぇだろ。加えて俺もいるし、香織だって十分な戦力」
「それはそうでしょうが……わざわざ風を起こしたくはありません」
もっとも、これだけの戦力ならば堂々と動いても問題はない、と思う。誰も私たちを襲える力を持っていないのだから。それでも、そもそも私は無駄に狩連とほ関わりたくない、という気持ちもある。
「……もし私が、大々的に生存を宣言したら、どうなると思います?」
「まず俺に諸々の質問が山のように来る。次に俺が飛鳥の側についたこと、そして飛鳥が覇境になったことを伝える。始末したくともできない、そんなこんなで世界は平和、俺たちもハッピーハッピーだ」
「そうですか。できれば最後まで真面目に考えてほしかった」
とはいえ的を射ている。最強の妖狩とされる雷玄さん、加えてそれを超えたと見なされるだろう私。妖狩としても十分な力がある香織。流石にこの戦力に喧嘩を売るほど狩連もバカではない。
「……雷玄さん、決定はあなたに任せます。どっちにしても狩連はもう私たちの敵ではない」
「……そうだな。まぁ面倒なんでこのまま行くか。あまり隠れることを気にし過ぎず、バレたらそのときでいこう」
「……あ、じゃあ私の髪、黒に戻しません?」
「えぇ、似合ってるのに!」
……香織がそう言うのならもう少しこのままでいるか。何も不便というわけではない。むしろ褒めてくれるならそれはそれで……。
「香織、トランプしましょう」
「え、二人で?」
困惑気味な彼の手を引っ張り、私は廃屋に残っていたボロボロのトランプを広げた。絵柄は認識できる。ならばさほど問題は……問題は二人だとゲームにならないということか。今までしてこなかったせいで分からなかった。
「……雷玄さん、妖の方はどうでした?」
「そっちも特に。近くにゃせいぜい将境しかいなかったな。全部殺しておいたが、まぁ何も変わらず、だ」
「……そうですか」
偶然なのだろうか。覇境の妖が生まれたことは……いや、そうと結論付けるのは早計か。そうでない場合の、危険な可能性を気にしなくては。
「でもそれなら、僕たちができることも少ないですね」
「え、香織。……トランプやるんですか?」
「飛鳥がやるって言ったんじゃんか!」
いつの間にか丁寧に配られていた手札。二人ではつまらなかろうに……と思いつつ、私は手札を整えた。雷玄さんを誘えば三人に……いや、あの人はやらないか。
「お前ら、そろそろふざけるのも大概にしとけ」
「はーい」
「え、僕ふざけてたの?」
広げられたカードを片付け、そのまま立ち上がった。すっかり身体は軽い。もう戦える。誰とでも、もう大丈夫だ。
「で、どこ行くんです?」
「どこっつってもな、別にやることもねぇだろ。とりあえず結界の外で妖を……っ!?」
そのとき、南の方に巨大な妖力が出現した。恐らくは大阪、それなりの距離がある。その量や質からするに王境だろう。珍しくもないが……。
「今まで隠れていたか……生まれたばかりで王境だとしたら面倒ですね。早いところ片付けましょう」
「あぁ、そうだな。お前ら、走れるか?」
「僕は平気ですけど……」
「私も平気ですよ。ご心配なく」
彼らの不安も分かる。が、大丈夫だ。強がりではなく、もう傷は十分に癒えている。少なくとも大阪まで走り、そこで王境と戦う程度なら何の問題もない。
そこから走ったのは十分か十五分、流れるような視界の中、やっと辿り着いたのは山のような大きなダム。亀裂が入り、すっかり枯れたように見えるが、申し訳程度の雨水が底には溜まっていた。
「さて、登るか」
「うおっ」
「わっ、ちょ!」
私の腰……それと香織の腰も。雷玄さんは私たちを抱えてその壁を駆け上がった。速い……速いが。もう少し躊躇ってほしかった。
「ほら、てっぺんだ」
「……女の子はもっと丁寧に扱うものですよ」
「そうか、悪いな」
酔ったわけでもないが、胃の中がかき混ぜられたようで居心地は悪い。妖を倒して休もう、そう思って視界を持ち上げた。
「クルル……」
「……あれ?」
四足獣がダムの縁を優雅に歩き、枯れた葉に食らいついている。高さは四メートル前後、そして体長はそれ以上。そしてその半分ほどの大きさにもなる大きな角、真っ青な代表に赤黒い斑点。
「鹿死ですね」
「あぁ、珍しいな」
鹿の姿の妖。正確には物怪の一種だが、アレは少しタイプが違う。生まれたてだから人の魂を取り込んでいない、というだけでなく……。
「鹿死って?」
「見ての通り、鹿の妖です。ただ普通の妖と違い、アレは攻撃性はさほどない」
「……じゃあ倒さなくていいってこと?」
「いえ、そういうわけではないです」
確かに、滅多に人を襲うことはない。少なくとも積極的には。ただ、あまりに濃い血の匂いを嗅ぎ取ったとき、あるいはあまりに飢えているときならば人を襲うこともある。血の味を覚えた後は無条件に襲うこともあり、放置するわけにもいかない。
「幸い、アレはまだ弱い。今のうちに倒して……」
「……飛鳥?」
背筋に蛇が這うような冷たさが走った。今はまだ、鹿死は強くない。というのも、血の味を覚えていない鹿死は、妖力の割に異常に脆いからだ。だから倒すのは難しくないし、それ自体は問題でもない。が……。
「……雷玄さん、将境の妖を倒したと言いましたね? その中に、蛇の妖はいましたか?」
「……っ! あぁ、そういうことか。そういう話なら、大蛇はいたな。……いや、まさか……」
「あり得ない話ではないですよ。以前は記録によると……二百年は昔のことでしょう?」
あってはならない、そして同時にあり得る。可能性として捨てきれないが……いや、まず間違いなく、アレは殺してはならない。そう考えた方が、妖鬼が生まれたことに合点がいく。
「……あの、何かマズいの?」
……そうか、香織は知らないか。妖と、妖狩の歴史なんて。マズいのかと聞かれると……マズいなんて話ではない。
「アレを倒せば、龍が生まれます」
「……え、龍?」
「えぇ、龍です」
特定の妖が死ねば生まれる、特殊な妖だ。龍もまた正確に言えば妖だが、伝承による話が本当ならば、もはやそんなことは関係ない。通れば街が滅びる。
「妖鬼の持つ龍の鱗、大蛇の持つ龍の胴体、そして鹿死の持つ龍の角。パーツは揃っています。だからアレだけは倒してはなりません」
「えぇ……じゃあどうするのさ」
「問題ありません。たぶん、一ヶ月もすれば降臨阻止となるでしょう」
だから、一ヶ月はアレを見守る必要がある。最後が鹿死で良かった。妖鬼か大蛇ならば、狩らなければ、戦わなければならなかったから。鹿死は見守っていれば、それでいい。
「ふーん……あ、じゃあ僕が柵でも作っておこうか? 妖力を抑えれば妖力の回復の方が早いだろうから、たぶん消費もしないし」
「……いえ、やめておきましょう。下手に刺激して暴れられると参りますから」
柵で囲えば見張りも簡単だが、その分リスクもある。私たちが交代できちんと一ヶ月見張れば……龍の降臨も止められるだろう。そう思っていた。
例えば鹿死を狩ろうとする妖狩がいたとして、それを止めるのはわけない。万が一にも、妖同士で争いを始めたとしても、私たちなら止められる。ただもし、私たちを含め、この一帯を消し去ろうとするほどの破壊行為が起こったとすれば……?
「——敵——見。———する」
「……?」
私が感じ取ったのは、どこかからの妖力の揺らぎ。明確に感知したわけではない。気のせいかもしれない。けれど何かを感じた。
「……飛行機? ……いや」
「……ん? ありゃあ米軍じゃねぇか?」
空を飛んでいる黒い飛行機……いや、戦闘機。珍しいが、ない話でもない。ただ、今は戦争中でもないはず。軍事演習だろうか?
「……っ!?」
「下がって!」
小さいながらも確認できた。投下されたのは爆弾……それも一つや二つではない。空一面、雨のように降り注ぐ。
「くそっ……!」
「飛鳥! こっちに来い!」
逃げるのは間に合わない。私は香織を抱えて雷玄さんの元に、そして影の結界を張った。私と雷玄さんが妖力を共有して張った一枚の結界、それをさらに最大出力で固める。多少の熱は貫通したが、壊されることはない。
一秒、また一秒と経つたびに震動と熱は激しくなった。そしてやっとそれらが止んだとき、影は力なく足元に帰ってきた。
「はぁ、はぁ……っ!」
目の前は焼け野原。ただでさえ崩壊していたダムが、森が、ほとんど消滅していた。しかし妖力のない兵器で妖を狩ることは……。
「……あれ? 鹿死は?」
「っ! そうですか……」
目の前に妖の姿はない。考えれば分かること。わざわざ私たちを攻撃したということは、あの戦闘機は狩連からの依頼を受けたのだろう。ならば爆薬に妖力を込めることも、そう難しいことではない。
「はっはっ! 天嶺飛鳥! 燐堂雷玄! アンタらを殺せるたァ、俺ァ幸せモンだなァ!」
「あなたは……」
「……誰だ、お前?」
戦闘機から飛び降りてきたのは、恐らく王境の男。爆薬に妖力を込めたのは彼だろう。見覚えはあるような、ないような……大した交流はなかった人だろう。ただ間違いなく、私たちを始末するために送られた狩連の刺客。
「俺ァ紫藤玲司、アンタらを始末し、晴れて最強の妖狩になってやらァ!」
「……そうですか」
彼から立ち昇る熱気、そして妖力に混ざる真紅の炎。推測するに炎を操る虚影の持ち主……弱くはないが、私たちに敵うほどでもない。となると私たちを擦り減らして殺す算段だったのか。ならば元より、あの爆撃で殺すつもりは……っ!
「今すぐそこを離れてください!」
「はっ! 逃がさねェよ!」
「盛れ!『炎焼』……」
「早くそこを離れ……っ!」
彼を引き寄せようと、右手を差し伸ばしたその瞬間、下から溢れ出した炎を超える熱量に押し返された。彼のいたはずの場所は、深緑の壁が生えていた。炎を操るはずの彼は、その熱に溶かされた。
「熱……っ!」
「飛鳥!」
差し伸ばした右手が焼かれ、溶けかけたところを香織に引き戻された。熱い、なんてものではない。そしてこれは炎でもない。炎の熱でも……いや、物理的な熱ではないのだ。ただ単純に、妖力の……エネルギーの差。
「くっ……あぁ!」
「飛鳥! 大丈夫!?」
「香織! 飛鳥を連れてもっと下がれ!」
皮膚が爛れ、肉が焼けている。熱い……いや、痛い。壁ではない。目の前のこの……巨大なものは。山でもなく、それでいて幻覚でもない。これはただ一体の……。
「グギャオォオ!」
「ぐっ……!」
「うるさ……っ!」
咆哮、あるいは目覚めの呻き声。何にせよ、その巨体から発せられる音はただひたすらに轟音だった。そして轟音が響くと同時に、その巨大なものは天へと上昇していった。
妖力で鼓膜を保護しても、完全には守れない。冷たく、熱い液体が耳の中から溢れる。ただの声が、周囲を破壊し、全国を包む地震だった。
歴史上稀に見る、龍の降臨。




