第拾参話 影冥刀
奈々生ではない。間違いなく。ただ、彼を形成する要素は確かに奈々生だった。それも間違いない。
「……まず間違いなく妖だと思いますが……」
だからこそ分からない。奈々生のことを知っている妖など存在しない。私の記憶を見て、その容姿を模倣した可能性も否定はできないが……私と出会って生きながらえている妖もいないはずだ。
「たとえばさ、幻覚を見せる能力を持った妖狩って可能性は?」
「いえ、それはない。狩連の規定により、原則として市民を巻き込むのは禁じられていますから」
「……じゃあ狩連を抜けた妖狩とか」
「それもないでしょう。反逆者がわざわざ私たちを狙う動機がない」
だから消去法で妖だろう、という結論だ。その線も薄く感じてしまうが、人間よりはよっぽどあり得る。
「もう一度会えば、何か分かるかもしれません。厄介なのは、そこそこ強そうだということですね」
「そうだなぁ。ありゃ王境、能力によっては覇境もあり得るレベルだ」
正面衝突ならば私たちの敵わない相手ではない。なんなら雷玄さん一人でも対処はできるかもしれない。ただヤツの違和感、これを見つけるまでは戦いたくもない。
「ただ……ずいぶんと余裕を持っていましたからね。私たちを相手に勝つ自信があるのでしょう」
「……そうかぁ? 三人で戦えば、勝てねぇ相手じゃないだろ」
もしかしたら、奈々生の容姿を使うことで私や雷玄さんの判断を鈍らせる魂胆なのかもしれない。確かに有効だろうが……そう思うと無性に腹が立ってきた。奈々生の身体を使って、そんな下劣なことを……万死に値する。
「雷玄さん、香織。ヤツと戦うとき、お二人は手を出さないでください。私が倒します」
「……分かった。お前のケジメはお前がつけろ」
「感謝します」
こういうときの雷玄さんは粋だ。男らしいというか、漢らしいというか。師匠としてこちらの意気を尊重してくれる。酒飲みの中年とは思えない。
「……でも飛鳥が危なかったら助けるからね」
「ふふ、えぇ。ぜひお願いします」
対する香織は、相変わらず女々しく、そして優しい。どこまでも思いやりに溢れている。彼は強くなっても普通の青年のように、何より私の安全を守ろうとしてくれる。雷玄さんと香織が支えてくれれば、私は安心して私をまっとうできる。
「そうと決まれば、早速戻りましょうか。流石にあれだけの騒ぎを起こしたら結界を出ているでしょうが……」
「まぁ近くにはいるだろうな。知らせてみるか?」
どうやって? という疑問を置き去りに、雷玄さんは香織の背中を叩いた。何をするのか、理解した香織は冥牙砲の銃口を天に向けた。小さな妖力、けれど確かな熱を帯び、天へと突き進む。
「……なるほど、信号みたいなものですか」
言ってしまえば位置を知らせる煙のような役割。本来なら追っ手にも居場所を伝えかねないが、良くか悪くか、近くの妖狩は京都のいざこざに集中しているはず。ならばこの信号で集まるのはただ一人……。
「ははっ、おいおい。わざわざ呼ぶなんて、余裕か?」
「よく言いますよ。元より見つけていたくせに」
突如として現れたのは、相変わらず奈々生の姿をした何者か。妖力を見ても分からない。穏やかさはありつつも……感じないはずの黒さが見えるような気もする。
「……何者ですか、あなたは?」
「鳴雷奈々生、ご存知だろ?」
「奈々生はあなたのような汚い存在ではありません」
影が揺れる。いつでも虚影は取り出せる。が、相手が何なのか、それを知らなければ私の刃が鈍ってしまう。
「……飛鳥、俺たちゃ……」
「えぇ、離れていてください。香織も、今は……」
「……うん。危なかったら助けに入るよ」
「えぇ、迷惑かけます」
背後の音が遠ざかる。今ここにいるのは私と彼だけ。負ける気はない。奈々生を騙る者など……。そう思いつつ、どうしても手が震えてしまう。
「ははっ、舐められてるのかな。君程度が、僕と戦うなんて……っ!」
「来い!『影冥刀』」
刹那、奈々生は私に殴りかかってきた。私は影冥刀でそれを受ける。激しい音、人間の手ではない。指の一本一本がまるで凶器。少しでも触れれば、そこから肌を抉られるであろうという恐怖。
「やはり妖か……。……ん?」
「なんだ、それは?」
違和感。というのも、影から生まれたはずの虚影が……影冥刀が、その黒さを失っていた。白銀の色、影を落とした一振りの……。妖を狩るだけの刀、それは変わらないが。
「なるほど、三次覚醒」
一次覚醒は心の影の顕現、二次覚醒は影の深化、三次覚醒は影の克服、そして超越……そして資質。それが分かりやすくその姿に現れていた。思えば父の虚影も白かった。私が初めて……母の容姿の次に綺麗だと思ったもの。
「あなたを斬ります。奈々生の皮を被った、忌々しき妖よ」
私の輝く刃を、その白く柔らかい首に向けた。手が震える。覚悟を決めても、目の前の男は確かに奈々生の姿。私の大切だった人。……そしてそれを踏み躙っている悪の塊。
「ははっ……参ったね。もうちょっと惑わされてくれると思ったんだけど……」
「幻覚を操る術か」
私と彼の周囲を包んだのは白く濃い霧。視界不良で妖力の感知も乱される。が、これも恐らく幻覚だろう。そして香織たちの目にも何かしらの幻が見えているはず。
「失敗しましたかね。これでは増援も呼べないではありませんか」
「大人しく死ぬなら、何も苦しいことにはならないよ」
彼の影が揺らぐ。虚影ではない。影そのものを刀の形に……影纏いの一種だ。影を練り上げ、腕に纏う。それができるということは……。
「幻覚の能力ということも踏まえると、覇境ですかね」
「あぁ、そうだね。随分強くなったから」
変わらず声だけは良い。それだけに穏やかではない。斬るぞ……私が、私が奈々生を……!
「夜威!」
「くっ……なかなか……!」
空に飛び上がり、力いっぱいに刀を振り下ろした。交差する刀、上から叩き落とす勢い。彼の足元がひび割れ、崩れる。力が漲るようだ。影冥刀を持つだけで、影から力が供給されるような……。
「うざってぇっ!」
「くぁっ……!」
そんな力を持ってしても、いとも容易く跳ね飛ばされた。どこから現れたか、岩に背中を打ちつける。そして彼の姿は霧に消えた。幻覚……厄介この上ない。幸いにも、ヤツの戦闘スタイルは近距離だ。出てくるところを狙えば……。
「どうどう!」
「うぐっ……!」
今度は彼が斬りかかってきた。私が下、彼が上。刃の交わる音が痛い。とっさに剣筋を横に逸らし、そこを抜け出した。大地が割れ、何メートルもの裂け目ができた。
「……またですか」
距離を取れば姿は見えなくなる。そしてその怪力をまともに受ければ潰されるだろう。良いことといえば、ヤツ自身は幻ではないという……。
「……?」
違和感。ヤツの力は幻覚、ならば惑わすこともできるはず。それなのに今は、私の感覚を多少狂わすだけの霧。それにこの霧の感覚は……。
「飛鳥、もっとお淑やかにしなさい……」
「っ! はぁ、はぁ」
耳元に聞こえた声、影冥刀を背後に振った。この感覚……あまりにも懐かしい。忘れるわけがない。それと同時に頭の中を覗かれるような……これは……。
「そう怒るな、飛鳥。俺たちの可愛い飛鳥……」
「黙れっ!」
斬っても斬っても手応えがない。違う、そもそも見えてすらいない。霧の中にいすぎた。これは幻覚じゃない。いや、正確には幻覚ではあるが、もっと根本的な……。
「妖鬼か! 貴様はっ!」
「ははっ、やっと思い出しタカ」
私の記憶が叩き起こされる。私の記憶を、ヤツは私に攻撃させようと。……怪力だけじゃない。ただでさえまともに戦えば苦しい相手なのに……。
「そウ、俺は妖鬼、夢ヲ具現化スル鬼ダ。コノ十年……イヤ、九年ホドカ、俺モ強クナッタ……」
「貴様っ……!」
鋭く大きい二本角、龍の鱗を持った鬼。鬼であり、さらに龍にも近い妖。確かに妖力も増え、姿も進化しているように見える。ただその穢らわしい顔を忘れるわけもない。
「アノ日、マジニ死ヌトコロダッタ。影ニ斬ラレタガ所詮ハガキ、オ前ノ詰メガ甘いカッタノサ」
そう話しながら、妖鬼の顔は揺らいだ。奈々生だけではない。父と母、私の精神を崩すための記憶をそこに具現化していた。私の記憶を読まれている。私の夢を……目の前で……。
「コレハ復讐ダ! 貴様ガコノ俺ヲ苦シメタコトヘノ……ッ!」
「そうか」
妖鬼うるさい口を影を飛ばして斬り裂いた。私の影は揺らぎ、脚を這い上がる。脚、腕と纏い、白い刀身は再び黒に染まった。黒い装束の中、染められた髪だけが視界の隅に輝いている。
「ッ……? ソノ姿ハ……オ前ハ人間デハ……」
「間違えないでください。これは私の復讐です。奈々生の……」
奈々生の弔い。これ以上、妖鬼に利用されることがあってはならない。気持ちを固めろ。揺らぐな。私は私、奈々生は奈々生、妖鬼は妖鬼、夢は夢。
「アァ、構ワヌサ。最後ニ立ッタ方ノ勝チダ!」
「行くよ、影冥刀」
低く構え、そう語りかける。手に馴染んだ刃、そして慣れた顔の妖。私の記憶を利用されたからなんだ。私は強い。感情を捨てろ。柄が血に滲んでいる、その事実だけでいい。
「影閃・彼岸月!」
「オット、危ナイ」
一閃の刃、妖鬼は跳び上がってそれを避けた。当たれば斬れる、その確信があった。だが当然、それが難しい。
「飛鳥、やめなさい」
「ひゃっ! 飛鳥! 虫が飛んで……」
「っ……! 黙りなさい!」
声は霧の奥から私の集中を乱そうとする。この声は妖鬼を斬るまで止まらない。けれどどこかで、まだこの声を聞きたがる私もいる。集中だ、集中。影冥刀を鞘に収め、精神を研ぎ澄ます。
「終ワラセルゾ! 人間!」
「桃源郷!」
一層濃い霧に包まれた。一寸先の光さえ捉えられない、白い影の中。そしてその霧の妖力が、私の肌を刺している。全身が赤く滲む。痛い、なんてものじゃない。けれど、この状況は最高だ。
「潰レロ……ッ!」
巨大な妖力が目の前に現れた。両手で影の大剣を今、振り下ろそうとしているはず。風圧が来る。見えないが、間違いなく……。
「百鬼夜行!」
「ヌッ……!」
抜刀、大剣を受け止めた。重い、腕が軋む。まるで爆発が起こったような、そんな力。一秒でも遅れたら私の頭が割れていたろう。そして、このままでも押し負け、潰される。
「グハハッ! コノママ貴様ヲ……ッ!?」
油断、妖鬼は全ての力をその一太刀に込めていた。だが私は違う。影冥刀は影を支配する刃。霧が濃いということは、つまりそれだけ影も濃いということ。ここは空間そのものが影になっていた。
「常夜平定!」
「ヌ……グオォオ!」
妖鬼の生み出した白い霧が、全て主人に牙を剥いた。私を刺していた小さな刃が、妖鬼を喰い尽くす斬撃そのものに。一秒、二秒と経つごとに妖鬼の身体は斬り刻まれた。ただ硬い。鱗が異様に……。
「カ……解除ッ!」
「く……っ!」
瞬間、霧は大爆発を起こした。真っ赤に染まった視界、恐らくは夢の世界から現実世界へ戻る際の落差、そのエネルギーの暴発。そのようなものだろう。影纏いで保護していなければ身体を抉られていたろう。
「……賢明です」
血に染まり、仰向けに転がった様子がよく見えた。霧は晴れた、妖鬼の術が解除されたのだ。当然、影が無くなれば斬撃も止む。ただ少し、遅かったな。
「ま……待ってくれ、飛鳥」
「……またそれですか」
大爆発の跡、大穴の空いた大地。妖鬼の姿は消え、そこには新しく奈々生の姿があった。今度は成長した姿ではなく、死んだときと同じ年齢の姿。
分かったことは、妖鬼は奈々生の身体しか具現化できない、ということだ。父も母も、私の記憶にしかないから不可能なのだろう。妖鬼が実際に食べたからか、あるいは直接見たからか……夢の具現化とは大層だが、所詮はその程度。
「深い因縁でした。……さようなら、今度こそ」
「……飛鳥! 頼む!」
「っ……! 懲りない……」
妖鬼に跨り、その首を突き刺そうとした瞬間、影冥刀が少し逸れた。首の皮を斬り、大地に突き刺さる。奈々生ではない。新しい顔は香織のものだった。腹立たしい。人の記憶を保身のために……それが何より腹立たしい。
「あなたは妖鬼だ。それに誇りさえ持っていた……あなたは奈々生でも香織でもない……っ!」
「待っ……」
そのまま影冥刀を横に振り、その細く柔い首を落とした。まるで人間のような血を流す。けれどそれも一瞬のこと、すぐに身体は鬼に戻った。二本の角、龍の鱗。私の白い刃は、その間だけ赤く見えた。




