第拾壱話 夢見心地
「……はっ、はっ……。こ、ここは……」
久しく目を開くと、見慣れた、と言うと違うが、一度か二度は見たことのある景色が広がっていた。恐らく京都の離れの狩連支部。
冷たい岩造りの床と天井、格子で隔てられた空間。酷い夢を見た……。汗が張りついて異常に寒い。
「ぐぁっ……痛てて……」
腹の辺りを主に、全身が痛かった。骨の砕けた痛み、肉の裂けた痛み、それから血の足りない浮遊感。痛みで動けない上に、手足は錠で繋がれて物理的にも身動きを取るのはまず不可能。脱出なんてできやしない。
しかし違和感。なぜ私は生きている? てっきり殺され、処分されるとばかり……。狩連が反逆者を生け捕りにするとは考えづらい。とするならば……。
「げほっ……げほっ。雷玄さん、私、生きてますよ……」
「……だろうな」
私の苦労も知らず、のんびりとやって来たのは雷玄さん、私を殺しかけた張本人だ。恨むまでもないが、気持ちの良いものでもない。
身体が重いのは痛みのせいか? ……いや、違うな。今の今まで、私は夢を見ていた。嫌な夢、そして大切な記憶。そうだ。私はもう、生きていてはいけない。あまりに失いすぎた。もう疲れた。もう、このまま……。
「いや……」
思えば心残りは一つあったか。私が生きているのならば、香織もわざわざ殺されてはいないだろうが……彼は優しい子だ。私を殺されて、黙っているはずがない。
「なぜ……殺さなかったんですか」
奥歯がギリギリと軋んだ。この後に待っているのは、拷問か、処刑か。怖くはないが、殺されていた方が楽だった。あんなことを思い出す必要もなかったし……雷玄さんの実力があれば、いくら疲れていても首を捻るくらいはできたろうに。
「死にたかったのか?」
「……どうでしょう」
死にたくはない、それが本音ではある。香織が一人でこの道を歩けるようになるまで、私が守ってやりたかったから。今度こそ、ちゃんと守りたかったから。死ぬということは、つまりそれができなかったということだ。
「いやなに、思い返してみれば、殺せとは一言も貰っていなかったなと」
「……は?」
「邪魔だ、目障りだとは言っていたがな。だからどうしろとは言われていない」
「屁理屈じゃないですか……」
私は紛れもなく反逆者。狩連が私の命を狙うのは必然。それをこの人は……。
「そもそもなぁ、察してくださいと言われても、分からんことはあらぁな。ちゃんと殺してほしいなら殺してこいって言えってんだ」
「……」
彼は任務には忠実だと、アレ以上後悔しないために忠実だと思っていた。……基本は忠実だろうが、まさかこんな屁理屈をつけてくるとは……。
「……私としてはありがたいですがね。いいんですか? 上の意向に背けば……あなただって処刑対象になるでしょう」
「はっはっ、馬鹿なことを言うじゃねぇか。なら逆に尋ねるが、俺を処刑できる存在がいるか?」
「……いないこともないでしょう」
個人で雷玄さんに敵う存在は、そりゃあいないだろう。紛うことなき最強、そんな男を殺せる個人はいない。そう、あくまで個人ならば。
「理由を話してください。なぜ私を殺さなかった」
「お前は死にたくなかったんだろ? だから殺さなかった」
「……舐めてます?」
「あぁ、舐めてるよ」
癪に障る……なのに言い返せない。彼が勝者で私は敗者、ならば私がどうこう言える立場ではない。ないのだが……。
「何が目的ですか。殺しにきて……生かして。けれど捕まえて……」
「……飛鳥、お前は妖狩を辞めろ」
「……は?」
私の耳がおかしくなったのか? 今なんと……妖狩を辞めろと言ったのか? 妖と戦うだけの力を持ちながら……この世界から退けと……?
「心を折られ、妖力もまともに扱えんだろ? 向いてねぇんだ。お前は根本的によ」
「勝手なことを仰らないでください! 今まで全ての時間を費やしてきました。力のために……妖を討つために……っ!」
「いつか死ぬぞ。俺の挑発で妖力を霧散させ……その程度では……」
「あなたには関係ないでしょう! うっ……げほっ」
声を荒げたせいか、口から血が溢れ出した。骨も臓器も、損傷した箇所はまだ治ってはいない。生きているのも不思議なほどに……けれどそれも関係ない。
「あなたに私の何を分かる!? 確かにあなたは師匠だが、親でなければ友でもない! 一度でも私のことを助けてくれたこともないくせに、戦場から遠ざけて助けるつもりか!?」
ジャラジャラと鎖がうるさい。天井が揺れる。格子も軋み、今にも崩れ去りそうなほどに……。
「……」
「遅れてばかり……私の母も! 父も! 奈々生も!! 助けてくれなかったあなたが、一体どの面を下げて……!」
壊れそうだったのは、何もこの空間だけではなかった。私の妖力に、そしてそれ以上に無理に込めた力のせいで、身体の奥からバキバキと何かの砕ける音がする。痛みも苦しい。なのに私は、落ち着くことができなかった。
「何様のつもりなんだ! 燐堂雷玄……!!」
私の溢れる妖力に耐えかねて、鎖も格子も砕け散った。天井も床も壁面も揺れ、さらには私の内側さえも揺れている。
この感情の正体はなんとなく分かる。私はもう守られる側ではない。私が守る。目の前の全てを。
守る側とは死ぬ側のことだ。私が守れば、私の大切な者は誰も死なない。守る……私が……。
「来い!『影冥刀』!」
影から抜かれた刀は、いつも以上に血に飢えていた。私の心の内を反映したのか、あるいは惨敗したゆえなのか。言い得ない黒さをその内側に秘めていた。
「影……っ!」
感情の赴くままに、私は雷玄を斬ろうとした。その胴体を真っ二つにしてやろうと。その瞬間に私を襲った違和感が、私の刃を影に呑ませた。避けようとする仕草しかない、無防備な彼。そしてかつての私とは異なる信条。影冥刀の黒さが削ぎ落とされた。
「っ……」
「はぁ……はぁ……ぐはっ、ぅはっ……」
勢いは殺せず、雷玄さんは影冥刀に殴り飛ばされた。そしてその衝撃にすら耐えられず、私の身体は壊れ始める。回復が足りていない。そしてそれ以上の異変が……。
「……強くなったな、飛鳥。すまない、お前がそこまで追い込まれたのは……全て俺のせいだ」
「……いえ、雷玄さんのせいじゃありませんよ。……私の弱さのせいです」
「そうか。……じゃあ二人の弱さのせいだな」
雷玄さんは吹き飛ばされた格好のまま、そんなことを呟いた。妖を殺すことに執着していたかつての私、人を守ることよりも、妖を殺すことだけを……。初心を忘れていた。香織と関わることで呼び起こされ始めていた私の根本的なもの。それを今、やっと取り戻せた。
「……確かに、あなたと戦っていたときの私は弱かった。……申し訳ありません、雷玄さん。言い過ぎました。あなたの傷も考えず……」
「いや、構わん。お前の傷と比べりゃあ、俺のなんざ擦り傷さ」
彼の手を引き、起き上がらせた。大きいその手が、古い記憶を呼び覚ます。彼の手に、幼い私は安心を覚えていた。
「——っ!」
「ん?」
「あーすかー!」
「っ!? か、香織!?」
天井から、全てを突き破ってきたのは香織だった。部屋を揺らすほどに大声で私の名を呼び……脚から血が出るほどに最高速度で走ってきたようだ。
「飛鳥!? 平気か!? 平気じゃないよな、でもちょっと待ってろ」
「来い!『冥牙砲』!」
「あっ、ちょっ……」
香織は私を見るや否や、安堵の表情を見せた途端に憎悪の顔で銃口を向けた。彼の心情を思えば無理もない。傷だらけになるまで戦って……ここに迎えに来てくれて……。
そう思うと、無性に私は胸が苦しくなった。悪い夢を見たときとは違う、何か満たされるような窮屈な感覚。これが何と言うのかは知らないが……。
「お前を殺すっ! 燐堂雷玄!」
「……あぁ、そうだな」
「っ……! 冥貫……」
「ちょっ、待って待って!」
全ての妖力をかき集めた一撃を雷玄さんに放とうとした瞬間、私は急いでそれを抑え込んだ。今の香織は頭が一色に染まっている。頭を一度、冷まさなければならない。
「邪魔しないで、飛鳥! あの化け物には渾身の一撃で……」
「敵じゃないから! もういいんです!」
復讐心か、あるいは恐怖心か。何かから来る敵対心を収めるために、私は香織を抱きしめた。肉と骨が痛むのを無視し、ただ彼を助けるために、力いっぱいに。
「っ!? あす……あすっ!?」
「……香織、殺すなんて言わないで。せっかく可愛らしい顔と名なのに……似合いません」
「……ご、ごめん」
私の胸に彼の顔を埋めたまま、少しだけ力を緩めた。やっと少し、落ち着いてくれた。やっと、私を見てくれた。
「安心してください。雷玄さんは敵じゃありません」
「……ならせめて、一発殴らせて……」
「私が殴りました。影冥刀で」
「影冥刀で……? な、ならいいや」
同情か憐れみか、そんな表情を雷玄さんに向けていた。香織は元の香織に戻ってくれた。私が元の飛鳥という少女に戻ったように、雷玄さんが元の燐堂雷玄に戻ったように。やっとみんな、初心に返った。
「ねぇ、香織。一体どうやって……ここ……まで……」
「飛鳥? 飛鳥っ!?」
脚に力が入らなくなった。貧血か? いや、それもあるが……身体が限界なんだ。傷はまだ治ってない。妖力は回復したが、それを一気に使ったせいで身体が驚いているのだろう。要は無茶をし過ぎた。
「はっ……はっ……」
「飛鳥! しっかりしろ!」
「大……丈夫」
呼吸が重い。苦しい。死ぬほどではないが、身動きは取れない。……幸いにも、そんな私を香織が抱えてくれている。じゃあちょっと……甘えようかな、なんて。
「疲れた……だけ。命に支障はない……」
「そ、そうは言っても……」
「いや、飛鳥は死ぬほどのダメージは負っちゃいない。言葉の通り疲れただけ、今はとにかく脱出に専念だ!」
「……分かりました」
香織はやや不服そうではあるが、私のことを第一としてくれた。危険が及ばないように雷玄さんの指示に従い、順調にその牢屋……狩連支部を抜け出した。幸いにも、雷玄さんがいるからと、警備は疎かだったらしい。当然だ。彼がいるのに襲撃する者などまずいない。
「はぁ、はぁ。……ありがと、香織」
「うん、どういたしまして。今は寝てな」
いつも以上に彼は優しく見え、そして兄のようにも見えた。私が弱っているからだろう。私が元気だったら、彼がこうも逞しく見えることはない。
彼の妖力で私の妖力を促し、回復も手伝ってくれた。一日二日で治るものでもないが、そうしてくれるというだけで、すぐに復帰できそうなほどに私の胸は熱かった。
「香織……手……」
「ん? あぁ」
不意に漏れたのはそんな言葉。どうしてこんなときに彼の手を握りたくなったのか。……こんなときだからこそなのか。理論的に答えを出すことはできなかった。
「雷玄……さん。これからどうしよう。追っ手が来ても……飛鳥がこんな状況じゃ……」
「狩連には始末しといたと伝えてある。嘘だとバレるのもすぐだろうが、しばしは平気だ」
「……バレたときどうするのさ」
「それも心配ない。俺がいれば誰も手は出せん」
雷玄さんの自信に満ちた力強い声。信用に値するだけの実力。彼がいればしばらくは問題ない。しばらくは……。
「でも……向こうが軍隊を動かしたら……どうするつもりで……。個人なら……問題ないでしょうが……」
「お前は寝とけ」
「ぶへ……」
話をしようと上半身を起こしたのに、すぐに倒された。脳が揺れたのか絶妙に気分が悪い。雷玄さんの言う通り、寝ていた方がいいのか……。
「それにこっちも三人分の戦力がある。そう簡単にゃやられねぇし、向こうも削ごうとはしねぇだろ。飛鳥も三次覚醒したみたいだしな」
「三次……?」
「寝てろっつったろ」
「うゎっ」
半ば強引に倒され……というよりもはや組み伏せられ、私は大人しく瞼を下ろした。もはや抗う気力もなければ、今はその必要もない。久しく心地の良い夢を見た気がする。




