第97話 麒麟
空中庭園到着から十日後――
ネイはようやく、日常の動作に支障が出ない程度まで戻っている。水を汲んで歩く。それくらいなら息も切らさない。ただ、戦えるかと言われれば話は別だ。素振りを続けていると、数分で腕が止まる。
アリアは全力疾走こそしないが、素振りも軽い走り込みもこなせるようになった。纏系を纏えば、全力疾走もできるほど。
俺はというと、素振りも全力疾走もできる。ただ、地上の時と同じようにやると、後で猛烈に疲れる。
「上出来だよ、ネイ。普通は二十日かかるところだからね」
セフィーラがそう言っても、ネイの顔は晴れない。
「でも、二人はもう戦えるんですよね」
「あの二人と比べるんじゃないよ。基準が壊れるからね」
「……分かってますけどねぇ」
そう言いながらも、ネイは槍を置かなかった。腕が上がらなくなるまで振って、休んでまた振る。順応が遅いのを認めた上で、遅いなりに詰めようとしている。
「今日から麒麟を狩るよ。麒麟は一対一で自分の角を折った者しか認めない。認められたところで手懐けられるとは限らないが、まずは狙い方を教えておこうかね」
俺たちは池のほとりに集まった。
「まず、あいつらは上に行くほど強くなる。この庭園のすぐ上にいるのが、一番弱い。それでも地上に降ろせば、どんな馬よりも速くて頑丈だけどね」
「一番弱いのでも、地上では十分ということか」
「そうさ。うちの部隊の連中が乗ってるのは、たいていその辺で狩った個体だよ」
セフィーラが上を指した。雲が斜面に絡みついていて、その先は見えない。
「今のところ一番高いところで狩れたのは、シャーレの馬だ。雲の切れ間からかろうじて姿が見える辺りだね。あれより上でやった奴はあたしが知る限りいない」
「なぜだ?」
「行かないし、行けないからさ。下で十分だからね」
もっともな話だ。だが、俺は上を見ていた。雲に隠れて何も見えないが、その向こうにも斜面は続いている。
「アリア。あんたはたぶん一番先に手に入れるよ」
セフィーラがアリアへ向き直る。
「あの穿つ魔法があるだろう。あれを同じ場所に当て続ければいい。角は硬いが、同じところを叩けば必ず削れる。あんたの魔法は精度がいいからね」
「ありがとうございます……何日くらいかかるものでしょうか?」
「普通なら数か月。あんたなら、ひと月かからないんじゃないかい」
アリアが頷いて、それから俺を見た。
「ソラは?」
「そこがねぇ。正直分からないよ。あたしが知る限り、正面から斬りかかろうとした馬鹿は一人もいないからね」
「一人もか」
「当たり前だろう。普通は走れないんだよ」
世界初。悪くない言葉だ。
「上へ行く」
「上って、どのあたりだい?」
「行けるところまで」
セフィーラが何か言いかけたが、俺はもう地面を蹴っていた。
【天翔纏】を纏い、【天衝脚】で空へ跳ぶ。
一枚目の金を敷いて蹴ると、庭園が下に遠のいた。二枚目で雲に入る。白く濁って何も見えない。三枚目で雲を抜けると、また斜面が現れた。草はもうなく、岩と雪だけだ。
斜面に白いものが見える。麒麟だ。
でも、まだまだ上がある。そこへ向かおうと、また金を敷こうとした時だった。
白の個体がまばらにいる中で、一頭だけ、他とは色が違った。
体毛は白い。だが、日を受けたその表面が、わずかに金色を帯びている。額から伸びた角も同じだ。根元から先端にかけて、淡い金が走っている。
斜面を歩くたび、光の当たり方でその金が濃くなったり薄くなったりする。周りの白い個体が、まるで別の生き物に見えた。
なんだ……あれは。
まだまだ上へ行ける。斜面は続いているし、あと数枚は【天衝脚】を出せる。でも、俺はここで止めた。
あいつがいい。
理由は説明できない。剣を選ぶ時と同じだ。何本も並べられた中から、手に取った瞬間に「これだ」と分かるものがある。それと同じだった。
俺は斜面に降りて、そちらへ歩き出す。
麒麟がこちらを向いて、目が合った。ここから先が縄張りらしい。少しでも近づいたら殺すと、麒麟の目が警告をしていた。
構わず歩く――すると、麒麟の角が光った。
白い光が空を裂いて走ってくる。真っ直ぐではなく、何度も折れ曲がり、枝分かれしながら食らいついてくる。雷に似ている……が、違う。形が似ているだけで、中身は純粋な魔力の塊だ。
――避けられない!
瞬時に悟り、俺は【天翔纏】の出力を上げて、正面から受けた。
金が魔力を削る。それでも突き抜けてきた分が体を打って、息が止まった。膝が地面につきかけて、なんとか堪える。全身が痺れて、指先が言うことを聞かない。
……なんだ、これは。纏を最大にして受けて、これか。
数年前、ヴォリトが【迅雷纏】を纏った時よりも、痺れている。もっとも、あの頃のヴォリトは相当加減をしていたようだが、それでも、こいつの方が重い。
「【天喰霧】!」
金の霧を撒く。これで魔力を喰えるから、次の一撃はさっきより弱まるはずだ。
次は俺の番!
駆けだして、斜面を蹴る――が、足が滑った。雪の表面が凍っていて、下は土が緩んでいる。踏み込んだ瞬間、足が持っていかれる。
そこへ麒麟が跳ねた。この悪路をものともせず。俺から離れるように斜面を横へ流れていく。ぬかるんだ雪の上を走っているのに、脚が取られる気配がない。
角が光る――二射目だ。金の霧が喰って威力は落ちたが、それでも肩に当たると、痺れを残して体ごと持っていかれそうになる。
斜面を登り、横へ回り込み、また滑る。距離が縮まらない。あいつは常に俺の踏み込みが決まらない位置へ移動している。
逃げているのではない。選んでいるのだ。
俺が走りやすい場所には絶対に行かない。
それに、悔しいことにこいつの方が速い。
日が傾き始めても、俺は一度も麒麟に触れられなかった。
♢
庭園に戻ると、焚火の周りにアリアたちが座っていた。
「おかえりなさい……どうだった?」
「触れられなかった」
「一度も?」
「一度もだ」
俺は焚火の前に座り込む。全身が痺れていて、特に最初に受けた一撃が抜けない。アリアが手をかざしてくれると、ようやく引いていった。
「アリアのほうはどうだ」
「私の方は順調よ。何度か当てることができた。でも、削れているのかどうかは分からないの。傷がついているのは見えるのだけど」
「相手はどうだ。何かしてきたか」
「してくるわ。雷のような形の魔力を飛ばしてくるの。でも、痺れる程度よ。纏を纏っていれば、ほとんど効かないくらい」
……痺れる程度、か。
「どのあたりの個体だ?」
「庭園からすぐ上よ。歩いて行ける場所」
なるほど。上にいくほど強いというのは、そういうことか。
そこでセフィーラが口を挟んだ。
「ソラ。あんた、どのへんまで行ったんだい」
「上だ」
「だから、どのへんだよ」
「雲を一つ抜けたところだ」
セフィーラの手が止まる。乾し肉を口に運びかけたまま、こちらを見ていた。
「……抜けた? 雲を……?」
「ああ」
しばらく誰も何も言わない。やがてセフィーラが乾し肉を下ろして、深く息を吐いた。
「どのくらい強かったんだい?」
「……【天翔纏】を使っても追いつけないし、【天喰霧】を使っても、奴の攻撃に体をもっていかれそうになる。ただ、消し飛ぶほどじゃなかった」
「なるほどねぇ……で、角は折れそうなのかい?」
「いや、触れることすら叶わない。それにここより空気が薄い。でも明日は捉える」
今度は俺が質問をする番。一つ気になっていたことがある。
「セフィーラ。麒麟は全部白いのか」
セフィーラが怪訝な顔をする。
「そりゃあ白いだろう。あたしが知ってる限り、全部白いよ。角も蹄も、みんな白い。角を折った後、徐々に馬のような栗毛色に変色していくんだよ」
「そうか」
「なんだい、藪から棒に」
「いや……確認しただけだ」
♢
それから十日が過ぎた。
ネイがようやく麒麟に挑めるようになり、庭園のすぐ上にいる個体へ通い始めている。まだ角に風魔法を当てるので精一杯らしいが、当てられるようになっただけで、大した進歩だ。
そしてアリアが角を折ったのは、同日の二十日目の夕方だった。庭園に戻ってきたアリアは、立派な白い角を手に持っている。根元から少し上のところで、綺麗に折れていた。
「折れたわ……同時に、私の剣も」
「剣も?」
「ええ、【聖尖穿】に耐えられなかったみたい」
そう言えば、剣に負担がかかると言っていたな。
「でも、ここからが本番だと言われたわ」
セフィーラが横で頷いている。
「角を折ったら、次は角を折ったところに魔力を注ぐ番だからね。アリアの魔力が受け入れられれば懐く。けど、気に入らなければ、次の個体だね」
アリアはそこまで進んだ。俺はというと、まだ一度も届いていない。
この十日で、金の霧の展開も、斜面の走り方も、多少はましになった。滑る場所と沈む場所の見分けもつく。麒麟の初動も以前より読めるようになった。
何より、体力がかなり上がった。それでも追いつけない。あと一歩というところで、必ず抜けられる。
アリアが心配そうな顔を見せるが、実のところ、俺は焦ってはいない。
麒麟を追いかけているだけで、とんでもない経験になっていることは確か。体力だけではない。氣もほんの少しずつだが、上達している感はある。
明日も、明後日も……ずっと俺は麒麟を追い続けて、
いつかきっと、あの角を折ってみせる!




