第96話 順応
「まずは歩きながら、この環境に慣れること。そして地形を覚えな」
セフィーラはそう言って歩き出した。
「いきなり走るなんて自殺行為だよ。ここは地上より空気が薄い。纏系を解除した今であれば分かると思うが、じっとしているだけでも心臓がバクバクするだろう? 最低でも三日間、走るのは禁止だよ。その間、少しずつ歩いて地形を覚えておきな。空中庭園はとんでもなく広いからね、散策するにも近くにしときな。間違っても際を歩くことはダメだ。突然の突風で、真っ逆さまになるからね」
確かに、心臓がいつもよりバクバクしている。これはさっきアリアに抱きつかれたからだと思っていたが、それだけじゃないようだ。
セフィーラは歩きながら続ける。
「麒麟を知ることよりも先に、この庭の形を頭に入れな。それと、自分の体がどこまで適応できているかもね」
俺たちは黙ってついていく……が、アリアとネイが自らの身体を抱くようにして、震え始めた。
「おや、寒いかい? ここら辺は地上より二十五度くらい低いというからね。だいたい今は五度くらいかもしれないねぇ……防寒着持ってきただろう? 風邪をひく前に纏っちまいな」
二人は天翼の外套を脱ぎ、鞄から取り出した毛皮の外衣を羽織って、そこからまた天翼の外套を着る。
「やっぱり、天聖隊である以上、この外套は見えるようにしたいわよね」
「さっすがアリア! アタイもそう思っていたんだ!」
対する俺は、確かに寒いが着るほどではないのでそのままだ。
目的地に着いたのか、セフィーラが荷を下ろす。
着いたのは小さな池の近くで、何度かここで天幕を張った跡があった。
「ここに天幕を張るよ。ソラは池から水を汲んできておくれ」
天幕が張ってあった跡の付近から、大きな木樽を投げる。
「二十往復くらいして、そこの岩の窪みに水を張ってくれ。アリアとネイは二人で天幕を張っておくれ。あたしは火を熾すよ」
セフィーラの指示に従い、各自が行動する。
俺は水を汲みに池へ向かう。透けるほど綺麗な水で、池の底の小石もはっきりと見えるほどだ。
ただ、ここで異変が起きる。
疲れる。
水を汲んで天幕に持って帰るだけなのにだ。樽を担いで戻る頃には息が上がっていて、荷を降ろすと膝に手をつきたくなる。重りをつけて走っていた頃より、よほど堪えた。
それは俺だけではなかった。
天幕を張っている二人も、いつもより動きが鈍い。
やはり高所ということもあって、こいつらも苦戦しているのか。
ただ、空中庭園の中心を見れば、斜面を駆けまわっている麒麟の成れの果ての姿。
一頭、また一頭と、離れた場所に白い体が見える。互いに寄ることはない。それぞれが自分の斜面を持っているかのように、悠々と駆けている。
「あいつらはこっちに向かってこないのか?」
火を熾し終えたセフィーラに問うと、にやりと笑う。
「あいつらが襲ってくるのは、二パターンだ。あたしたちが攻撃するか、縄張りに入るかだ」
「縄張り?」
「そう、あいつらは縄張り意識が高い。誰であっても自分のテリトリーに入ってくると、襲ってくる。それが同じ麒麟であってもね。だからあいつらは群れない。戦闘が起こっても、加勢してこないんだよ」
「じゃあ、タコ殴りにすればいいってことか?」
「そうさねぇ……教えるには教えるんだが、今のあんたに教えたら、すぐにでも戦いに行きそうだからねぇ……三日後に教えてやるよ。それより早く水を汲んできな。湯浴びができないじゃないかい」
水を張る理由は、湯浴びのためか。
水をぱんぱんに張る頃には、アリアとネイが二つの天幕を張り終えていた。
「じゃ、あたしたちからいただこうかね。ソラ、覗くんじゃないよ?」
「分かってる」
「ま、どうしてもあたしのぴっちぴちの肌が見たければ、素直に言ってくれれば、見せてやらんでもないけどね」
老婆の姿でセフィーラが言うのを聞き流して、天幕の中に戻った。
♢
翌朝――
夜、素振りをしようと思っていたのだが、湯浴びをしてから飯を食ったら爆睡していた。そして、それは俺だけではなかったらしい。
「ソラ? 昨日、夜に起きて素振りした?」
「いや、朝までぐっすりだ。アリアは?」
「私も……この環境、どうやらかなりキツイみたいね」
そこにセフィーラが起きてくる。
「お前たち、何をしているんだい?」
「朝練だ」
「朝練です」
アリアと同時に返事をすると、セフィーラが呆れた顔をする。
「三日間は慣らせと言ったはずだが?」
「走るなとは言われたが、慣らせとは言われていない」
「……ま、確かにそうだけど……二人は息が切れたりしないのかい?」
最初に答えたのはアリアだ。
「私はします」
「俺はしないが、疲れる感じはする」
「普通ならね」
俺たちの言葉を聞いたセフィーラが苦笑する。
「登攀した時の最初に寝た場所、あそこで数日は慣らすんだよ。そして、ここにきて、さらに二十日間くらい。そうしてようやく、この環境が馴染んでくる。普通であれば、今へばっているネイですら、かなり優秀な方なんだけど、お前たちときたら……」
剣を握る俺とアリアを、交互に見据えるセフィーラ。
「ま、明日までは走ることは禁止にしておく。その代わり、素振りはしてもいいよ。ただ、間違ってもネイは誘わないでおくれ。あれはあんたらと違って普通――いや、あれでもかなり才はあるほうだけどねえ」
そう言われて、俺とアリアは翌日まで、素振りだけの訓練にしておいた。
♢
その日から、環境に慣らすことに専念。二日目は、素振りだけを繰り返した。
三日目になると俺はだいぶ慣れてきて、地上の時と同じように素振りをすることができるようになった。
そして、走るのが解禁された四日目。
軽く走っても問題ないことを確認してからの、全力疾走。
しかし、これはまだダメなようで、数分も息が持たない。
ただ、セフィーラに言わせればそれは異常なことのようで、事実、アリアですら全力疾走は数秒でいいところだという。ネイに至っては、まだ素振りもできない。
「あんた、本当に化け物じみてるねぇ」
七日目に走っている時、セフィーラに声をかけられた。
「シャーレやヴォリトですら、この環境に適応するのに十日。それも走るなんてことはしなかったのに、あんたと来たら……」
シャーレは有角馬に跨っていたから、登っていたのは知っていた。しかし、ヴォリトは初耳だ。
「二人はどんな感じで登って来たんだ?」
「五、六年……いや、もっと前だったかねぇ……あんたらと同じペースで、ここまで登っては来たんだよ。特にシャーレは、ここまで登ることはまったく苦もなく。ヴォリトは奈落落としで苦労したが、それでも挑戦し続けて、登り切ったんだ。でも、二人ともこの環境に慣れるのに、十日はかかったよ。今のネイよりかは早く順応したけど、アリアの方が適応するのは早いね。もっとも、あの子は自身の聖属性魔法で癒やしているというのもあるんだろうけどね」
確かに、アリアは時折辛そうにしていて、何度か自身に【聖光癒】を唱えているのは見ている。ネイも天幕の中で何度も癒やしてもらっている、というのは聞いている。
「ただ、二人とも今のソラみたいに、走り込むなんてことはしなかったよ。いや、できなかった。あたしもそうだけどね。纏系魔法を纏っている時は走れるんだけど、素の状態で走る馬鹿は初めてだよ」
「でも走れないと、麒麟を斬ることはできないだろ」
「あんた、麒麟を斬ろうとしているのかい?」
「斬らないのか?」
すると、セフィーラは呆れたように笑う。
「確かに麒麟を手懐けるためには、力で示す必要がある。だけど、やり方があるんだよ」
「やり方?」
「そう、麒麟の角。それを折るんだよ」
山の斜面にいる麒麟を見る。遠目にも、額から伸びた角が白く光っている。あれを折るのか。
「あの角は、鉄より硬い。この世のどんな鉱物より硬いって言われてる。斬りつけたところで、刃のほうが欠けるだけさ。だから、同じところを何度も何度も叩いて、少しずつ削るしかないんだよ」
「やっぱり斬るんじゃないか」
「馬鹿だねぇ。あんな速さで駆ける麒麟に、どうやって追いつくんだい?」
「纏系を使えばいい」
「…………」
一瞬の沈黙。
「あんたが言えば、本当にできそうだから怖いよ。でも普通の奴は、走ることなんてできない。だから飛び道具を使うのさ。弓であったり、魔法であったり。同じところを何度も何度も狙い続けるんだよ。数か月かけてね」
数か月……それほどの強度ということか。
「角は加工すれば、なんにでもなるらしいよ。第三軍はこの角を陛下に納めて、代わりに褒美を貰っている。あたしが加工できる人物を知らないってもあるんだけどね。あんたが狩った角は好きにしていいよ。でも乱獲はしないでおくれ。手懐けたら、そこで終わりだ」
「分かった。もともと有角馬を手に入れることが目的だ。金はいらない」
セフィーラはニヤッと笑う。
「ま、そういうと思ったさ。だから連れてきたんだけどね。あと三日、三日後から麒麟を狩るよ。それまでは、まだ慣らしておきな」
そして、三日後。ここに来て十日が経った――




