第95話 奈落落とし
目を覚ますと、天幕の布が霜で白くなっていた。
昨日のうちに目標の二百回まで跳んでいる。岩壁の窪みに天幕を張って一晩を明かしたが、夜のうちに気温が落ちたらしい。麓が初夏だというのが嘘のようだ。
「うぅ……頭が痛いよ……」
ネイが両手でこめかみを押さえて座り込んでいる。顔色がよくない。
「高いところに長くいると、そうなる者がいるのさ」
セフィーラが乾し肉を齧りながら言う。
「空気が薄いんだよ。慣れない奴は頭が痛くなったり、吐いたりする。無理をすると動けなくなるからね。慣れるまではここで休むしかないよ」
しかし、アリアが動く。ネイの頭に手をかざすと、白い光が滲んで、こめかみのあたりを撫でていく。
「……え? 消え……た。一瞬で消えたよっ!?」
「よかった」
微笑むアリア。
「信じられないっ! いろいろな聖属性魔法使いに治療を受けてきたけど、頭痛を治すなんて初めてだよっ!」
俺もそれは、【天瞰眼】の件で痛感している。
「アリア、お前の【聖光癒】は他の奴とは違うのか?」
「……違うみたい。私も長いこと気づかなかったのだけど、同じ聖属性でも効き方がずいぶん違うようなの」
「どのくらい違う?」
「シャーレ様が仰るには、私より上の聖属性使いは見たことがないと」
つまりこいつは世界一の聖属性魔法使いの可能性があるということか。
それを毎日、俺の頭に当てているわけだ。
「今更だが、贅沢な話だな」
「ふふ。分かっているならよろしい」
♢
「今日は奈落落としを越えるよ」
荷を背負い直しながら、セフィーラが上を指した。
「ここからさらに二百回。休みながら行くよ」
そこからはまた跳び続ける。昨日と違うのは雲の中に入ったことだった。視界が白く濁って、酷い所では上も下も見えない。次の岩棚が見えないまま跳ぶことになるので、セフィーラが先に上がって、声で位置を知らせる。
足場は濡れていた。岩が湿って、苔が張っていて、爪先が乗った瞬間に滑る。先に跳ぶセフィーラが逐一足場の状況を俺たちに伝えてくれる。それだけでも大助かりだ。セフィーラがいなければ俺たちは登ることはできなかっただろう。
道はない。あるのは岩から突き出したわずかな棚だけで、それを跳んで繋いでいく。空中に道を引いているようなものだった。
百回ほど跳んだところで、比較的広い岩棚に出て休む。
「ゆっくり休むよ。ここが剣ヶ峰。諦めてここに戻ってこられるくらいには、体力と気力は回復させておきな」
「気力を回復?」
「そうさ。奈落落としの絶望で、そのまま自ら落ちる奴も少なくない。無理だと思ったら戻って来られる体力と気力を、回復させなきゃならないのさ」
話を聞いた時、ネイは膝を抱えて震えていた。
その様子を見て、アリアがネイを抱きしめる。先ほどは頭痛を癒やしていたが、今度は心を癒やしているようだった。ネイもそれを受け入れ、アリアの背中に手を回すと、次第に強張っていた顔が解れていく。
「ありがとね、アリア。もう大丈夫さ。行こう!」
そして、百回ほど跳び続けると――それは現れた。
壁が上へ行くほど手前へ張り出している。真上ではなく、庇のようにこちらへせり出しているのだ。下から見上げると、灰色の岩が空を塞いでいる。まっすぐ跳んでもあの縁には届かない。岩が邪魔をして、途中で天井にぶつかる。
越えるにはいったん壁から離れて外へ飛び出し、それから上へ跳ばなければならない……ねずみ返しだ。穀物の倉に取り付けるあれと同じ形で、這い上がってくるものをその一点で止めるための構造をしている。
「これが奈落落とし」
セフィーラが荷を背負い直した。
「文字通り、霊峰ランダールを登ろうとする不届き者を地獄へ落とすってわけだよ。この上に有角馬がいる。この山はまだまだ上まで続くけど、あいつらが群れているのはこの上だ……つまり、ここが最後の関門ってことだね」
最後の関門。言い方を変えれば、ここを越えられなければ何も手に入らないということだ。
最初に跳んだのはネイだった。風が来て、螺旋が壁を舐めて巻き上がっていく。ネイが膝を沈め、風が体に触れると同時に跳んだ。
「【風脈】!」
体が浮き上がる。だが今度は真上ではない。螺旋に乗ったネイの体が、壁から外へ大きく膨らみながら回り、庇の外側をぐるりと回り込んで、上へ抜けていく。
やがて、頭上から声が降ってきた。
「上がったよ! こっちは平らだ!」
風の道は、この庇の外側を回っている。だから風魔法使いは越えられる。逆に言えば、風に乗れない者は自力であの空を渡らなければならない。
「次はアリアが行きな」
「……はい!」
アリアが息を吸って、岩棚の縁に立つ。顔は白いが、目は据わっていた。
「【聖翼纏】!」
淡い光が全身を包み、背に翼の形が広がって、アリアが跳んだ。
壁から外へ大きく弧を描いて、空へ出る。翼が一度、強く輝いた。体が押し上げられて、庇の外側を回り込んでいく。
あと少しだった。二度目の輝きで加速して、上へ。
だが――届かない。庇の縁まで大人の背丈で二人分ほど、そこで勢いが尽きた。アリアの体が失速して止まり――落ちた。
気づけば、俺は跳んでいた。
岩棚を蹴って空へ出た。落ちてくるアリアの下へ回り込みながら空中に金を敷き、それを蹴って、さらに敷いて位置を合わせる。腕を伸ばして、こいつの体を受け止めた。金の足場を三枚使って、元の岩棚へ戻す。俺は一段下の足場へ。
「……ごめんなさい」
「気にするな」
「もう一度……やるわ」
二度目は一度目より届かなかった。三度目はそれよりさらに届かず、四度目に至っては、壁から外へ出た時点で翼が乱れ、庇に届く前に落ちてくる。その度に俺が拾って、岩棚へ戻した。
五度目の準備をしようとしたところで、俺はアリアのもとへ跳ぶ。
この足場は狭い。荷を背負った人間が一人立てば埋まる幅で、二人立つにはどちらかが半分外へ出るしかない。俺は片足を岩棚に残し、体を半分、空へ出した。
そして、アリアを抱き寄せる。
「待て、落ち着け」
一度落ちた者は次に跳ぶ時に体が勝手に縮こまる。踏み切る足に力が入らなくなる。落ちた瞬間の感覚を体が覚えてしまっているからで、頭では跳べると分かっていても、言うことを聞かない。アリアはそれを気合で押し切ろうとしているが、押し切れるものではない。
「……ソラ?」
アリアの頭が俺の胸に当たる。腕を回して、そのまま押さえた。荷が邪魔で体勢は不格好だ。片足は宙に浮いている。
「聞け」
「……え?」
「音だ」
風の音がする。それと、俺の心臓の音。走った後よりも速い。
アリアが落ちた瞬間から、ずっとこうだ。拾い上げて岩棚に戻して、また跳ばせて、また拾う。その度にこの音は速くなっている。
「……ソラ、これ」
「怖いのは、お前だけじゃない。俺だって怖い。お前が落ちるのが怖い。次に拾えなかったらどうするかと思っている」
言いながら自分でも驚いていた。こんなことを口に出したのは初めてかもしれない。だが、言わなければならないと思った。こいつが自分の弱さを恥じているのなら、俺の弱さも並べて置くしかない。
「だが、俺は跳べと言う。なぜならお前は跳べるからだ」
アリアの体から少しずつ力が抜けていくのが分かる。
しばらくしてアリアが顔を上げた。震えは止まっている。
「……分かったわ」
「一つ、やり方を変える」
俺は耳元で短く伝える。アリアの目が見開かれて、それから迷いもなく頷いた。
「……分かった。信じる」
それだけだ。俺の言葉をこいつは一度も疑わなかった。
アリアが岩棚の縁に立つ。もう震えていない。背筋が伸びて、視線が空の一点を捉えている。
「【聖翼纏】!」
光が広がり、翼が形を成して、アリアが跳んだ。
これまでで一番いい跳び方だった。踏み切りに迷いがなく、身体が弧を描いて空へ出る。
俺はその軌道を見ていた。荷を背負っているから、こいつの重心がいつもある場所とは違う。それでも敷く。
「【天衝脚】!」
金の魔力を空中に敷いた。
アリアは迷うことなく金に足を置き、力強く蹴り上げる。
ただの魔力の塊。強く蹴れば、消滅するかもしれないもの。
でも、アリアはそれを蹴った――岩棚から跳び上がるよりも、強く。
そして、金の板が砕けて光の粒が散り――その反動でアリアの体が跳ね上がる。
羽ばたくのは一度で良かった。庇の縁を越えて、白い外套の裾が翻り、岩の向こうへ消えた。
♢
俺が上がった瞬間、アリアは両手を広げて突っ込んできた。背の荷物のせいでバランスを崩し、背中から地面に倒れて、その上にアリアが乗っかってくる。
「ソラ! 越えたわ! 越えられた……」
アリアが俺の胸に顔を埋める。またも震えていた。
その震える身体の背に手を回す。
すると、上から声が降ってきた。
「生命の危機に陥ると、種を残そうとする本能が働くって言うが、ここではやめておくれよ」
「ほんっとう。見せつけてくれちゃって。アリアって自分から襲うんだねぇ……有角馬に乗る前に、ソラに乗るなんて……据え膳どころか自分から行くんだねぇ」
アリアがこれまでにないくらい顔を真っ赤にして、跳んだ。
これくらい跳べれば、一人で奈落落としを越えられただろう。
「そ、そんなことないです! 私は――」
二人に言い訳をするアリア。
ただ、セフィーラは頷いていた。
「分かってるよ。中には何度も跳んで、何度も落ちて、拾われて。そのうち跳べなくなる。足場からも動けなくなる……そうなると、下りることもできないんだよ」
セフィーラの声には抑揚がなかった。
「そういう時にね。楽になろうとする奴がいるのさ」
言葉の意味を理解するのに少しかかって、理解した時には腹の底が冷えていた。
「この山で死んだ連中の大半はあそこで落ちてる……ただ、その全部が事故ってわけじゃないってことさ。アリア、あんたは立派だったよ。ソラ、あんたもね。将の素質、十分あるんじゃないかね」
アリアと顔を見合わせてから、手を差し伸べた。
アリアの白い手が重なって、指を絡めて握る。
生きている。
「お二人さん? いつまでもイチャつくのもいいけど、見てごらんよ」
ネイの声に誘われ、やっとアリア以外の景色が目に映る。
そこにあったのは、庭園。
岩の上に草が生えている。それだけではない。少し先には低い木が並んでいて、その向こうに白い花のようなものが咲いていた。水の音がする。岩の間を細い流れが走って、いくつもの小さな池を作っている。
その中央には文字通り、天を衝くバカでかい山。
そして雪の残った斜面を駆ける、真っ白で角のある……馬?
気づいた俺へ、セフィーラが声をかける。
「ここが、ランダールの空中庭園。そして、あれが有角馬の元となる……魔物――古代種、『麒麟』の成れの果てさ」




