第94話 螺旋
「跳ぶんだよ」
そう言うなり、セフィーラの体が風に包まれた。
「【疾風纏】!」
次の瞬間にはもう地面にいなかった。
見上げると、大人の背丈で五人分ほど上の軒――岩棚にセフィーラが立っている。荷を背負ったままだ。それから軽く膝を沈めて、また跳ぶ。今度は右上の岩棚へ。さらに跳んで左へ。まるで階段でも上がるような気軽さで、みるみる小さくなっていき――何事もなかったかのように上空から降りてくる。
「まずはアリアからやってごらん」
「は、はい!」
緊張した面持ちのアリアが、【聖翼纏】を纏って跳ぶ。荷物を背負った状態ではギリギリ届かないようで、一度翼を羽ばたかせてから岩棚に着地。セフィーラと同じように降りてくる。
「こ、怖いですね……」
「下は見ないこったね。じゃあ次はソラ」
俺も【天翔纏】を纏って跳ぶ……が、届かない。
「えっ!? ソラでも届かないの!?」
ネイが驚く中、俺は体内で魔力を高速で巡らせ、【天翔纏】の出力を上げてもう一度跳ぶ――今度は岩棚の上に乗れた。同じように俺も飛び降りて、三人がいるところに着地する。
すると、アリアが俺の外套の袖を捲る。現れたのは訓練用の鉛の塊だ。
それを見たネイが驚く中、アリアがいつになく真剣な表情で、俺に訴えかけてくる。
「ソラ、さすがにこれは捨てていって」
「いや、上でも訓練を――」
「お願い。もうソラの身体はあなただけのものじゃないの」
「……分かった」
上では別のものを代用すればいいだけだ。意地を張ることでもない。
両手両足、胴に巻き付けた重りを脱ぎ捨てると、アリアが「ありがと」と微笑む。微笑むたびに心臓が跳ねるのが悔しい。
次はネイの番。ただ、ネイは纏系を使えないというのは、誰もが知っているところだ。
「セフィーラ様、アタイは纏系を使えないのですが、どうすれば?」
「ああ、風魔法使いには特別な登り方があるんだよ」
人差し指を立てるセフィーラ。
すると、猛烈な風が下から上に吹き上げる。
アリアの目が見開かれる。
「上昇気流!?」
「そうだよ。ランダールは一定の間を置いて、下から上へ吹き上がる風が通るんだ。それも真っ直ぐじゃない。壁に沿って、螺旋を描くみたいに巻き上がっていくのさ」
言われて俺も見上げてみると、岩肌を舐めるようにねじれながら、風が流れていた。それが渦を巻いて、壁を伝って昇っていく。あれが風の道か。
「風魔法使いなら魔力で風を制御して、それに乗れる。合わせて跳べば、体を持ち上げてくれるんだよ。ただ、風魔法が使えない奴が乗るとそのまま吹っ飛ばされる。宙に放り出されて死んじまうのさ」
アリアが頷く。
「セフィーラ様の部隊で有角馬を操っているのは、百名ほどと聞くわ。皆が皆、纏系魔法を使えるなんて、ありえないもの……」
「そうだねぇ。うちの部隊で纏系を使えるのは、星柱の二人と騎柱一人。他には掴みかけているのが三人ってところだよ……さぁ、ネイ。あたしが下で見守っててやるから、跳んでみな」
「はい!」
しかし、そうは甘くなかった。
風が巻き上がるのに合わせて跳んだが、踏み切りが早すぎた。体が持ち上がりきる前に気流が抜けて、岩壁に背中から当たり、そのままずり落ち――俺が落ちてくるネイの下で腕を広げ、受け止める。
「こりゃあ、かなり時間がかかるかもね」
そうは言うが、ネイの瞳は沈んでいない。こいつはこういう奴だ。何度でも何度でも立ち上がる。こういう奴は嫌いじゃない。
二度目は遅すぎた。風が通り過ぎた後に跳んだので、ただ普通に跳んだだけになる。壁の三分の一も上がらずに落ちた。
「ネイ、魔力で風を掴むのがコツだよ。氣のように体内に巡らせる必要はない。風を漂わせるだけでいいんだ。あたしの家に来るとき、風魔法を放って気流に乗ってくるだろう? 同じように、上昇気流に風魔法を混ぜるんだ」
セフィーラの助言に、ハッと目を見開くネイ。
すると――螺旋状の上昇気流が吹き上げた瞬間、ネイが魔法を唱える。
「【風脈】!」
上昇気流に自分の魔法を乗せ、そこに身を預けると――螺旋に乗って、ネイの体が壁沿いに持ち上がっていく。回りながら、上へ。そして【風脈】の軌道を岩棚に向けると、見事、岩棚に着地した。
「――やった! やったよ!」
岩棚の上ではしゃぐネイ。
ただ、足場はそこまで広くない。
瞬間――
「あっ」
跳ねた時、背負っていた鞄が岩肌にぶつかって押し出され、岩棚から落ちる格好に。あまりにも予想外のことに、本人は魔法を唱えることすら忘れていた。
素早く下に潜って受け止めると、ネイが頭を掻きながら、
「いやぁ~、あまりにも嬉しくて、アタイとしたことが油断しちゃったよ」
と、舌を出して笑う。
「ま、今のうちに何回か練習しときな。あたしが最後尾を跳ぶ。誰かが落ちても、あたしが岩棚まで誘導してやるから、よほど変なところまで飛ばされない限りは、死ぬことはないよ」
「ありがとうございます!」
半刻ほど、ネイが慣れるまでの間、俺とアリアはセフィーラに氣の訓練を受けていた。
♢
「さぁ、もうそろそろ行こうかね。今日の目標はここから二百回跳んだ場所だよ。だいたい百回跳ぶくらいで、岩棚が大きく出ていて山肌が窪んでいるところがあるから、まずはそこを目標とするよ。順番はネイ、アリア、ソラ、あたし。ネイは気流が来るのを待ってから出発だ」
そこからはひたすら跳んだ。岩棚から岩棚へ。岩棚から岩棚へ。ネイは風が来るのを待ち、俺とアリアは風の切れ間を狙う。セフィーラに関しては、どっちでもいいようで優雅に飛び回っている。
単調な作業だが、気を抜けば死ぬ。足場は狭く、荷が重い。少しずつ風が冷たくなってくる。それでも跳び続けて、三十回を超えたあたりで数えるのをやめた。
六十回を超えたあたりだったと思う。
先頭を跳ぶネイの足が滑った。
風に乗って上がったところで、着地する岩棚の端が湿っていて、滑りやすくなっていたのだ。爪先が乗った。だが、次の瞬間には踏み外している。
「――あっ」
ネイの体が後ろへ倒れ、荷の重みに引っ張られて、背中から落ちていく。
「【天衝脚】!」
気づいた時にはもう跳んでいた。
空中に金の足場を敷いて、蹴った。落ちていくネイの真横へ回り込んで、もう一枚敷く。それを蹴って、下から掬い上げるように腕を伸ばした。
背中に荷を背負っているので、抱え方が選べない。正面から胴に腕を回して、そのまま引き寄せる形になった。ネイの荷が邪魔で、俺の荷も邪魔で、荷物ごと抱え込む格好だ。顔が近く、息が首筋にかかる。
三枚目の足場を敷いて、方向を変えて、一番近い岩棚へネイを乗せて、俺自身はその一つ下の岩棚に降りた。金の足場が砕けて、光の粒が下へ散っていく。
「……あ、あー……」
岩棚の上でネイの膝が震え、動けなくなっている。
「無事か?」
「……無事。うん、無事だよ」
声が上ずっている。それから、こいつは自分の顔を両手で扇ぎ始めた。
「あー、びっくりした。死ぬかと思ったよ」
「気をつけろ。だいぶ滑りやすくなっている」
アリアからも声が飛ぶ。
「ネイ、滑りやすそうなところは私が言うから」
「ありがと。頼らせてもらうよ」
ちなみに、今の落下で先頭はアリア、その次がネイ、俺、セフィーラという順になっている。
アリアが跳んで、次の上昇気流ですぐに跳ぼうとするネイ。
「ネイ、焦るな。お前はちゃんとできている。落ち着いてから跳べ」
「わ、分かってるよ! ったく……はぁ……」
そう言って跳ぶ姿勢を解き、また何度も自分の顔を両手で扇ぎ始めた。
一連のやり取りを見ていた、一番下のセフィーラが声をかけてくる。
「速いねぇ。あたしが動くより先にネイを助けるために跳んだよ。こんな高所で怖くないのかい?」
「高所は得意だ。一番の感じがする」
「はっ、何とかと煙は、って言うけど……」
「悪かったな」
セフィーラが笑う。
「けなしてないさ。頭で考えてから動く奴と、考える前に動く奴がいる。あんたは後者だ。将としてはどうかと思うがね、隊の連中はそういう頭を信じるもんだよ」
どうもけなされている気もするが、誉め言葉として受け取っておいた。
♢
百を超えたあたりで、大きな岩棚に出た。
これまでの岩棚とは違う。人が四、五人並んで立てるほどの幅があり、奥が山の内側へ少しだけ抉れている。風が当たらない。
「ここで一息入れるよ」
セフィーラの言葉に全員が荷を降ろした。
俺は岩の壁に背中を預けて、腕を回してみる。肩がだいぶ張っていた。荷の紐が食い込んでいたらしい。
アリアが革袋から水を出して、順に回してくる。冷たい。喉を通ると、体の芯が冷えていくのが分かった。
ネイは大の字になって寝転がっている。
「もう無理……足が笑ってる……」
「まだ今日の目標の半分だよ」
「そんなこと言わないでくださいよ!」
悲鳴のような声を上げてから、ネイが上体を起こした。それから、こちらを見て、にやりと笑う。
「そうだ、ソラ。さっきは助かったよ」
「気にするな」
「気にするさ。あんな抱かれ方をしたのは初めてだからね」
ネイが自分の肩を抱いてみせる。
「これはもう、一回くらいあんたに抱かれてやらないと、借りが返せないんじゃないかい?」
「断る」
「即答かい!」
ネイが噴き出して、アリアが横で笑っている。冗談だというのは、こいつの言い方で分かった。
「まったく、つれない男だよ」
そう言いながら、ネイは荷の紐を結び直し始めた。まだ休んでいていいはずなのに、こいつは手を動かしている。何か考えているような顔で、紐の端を何度も引っ張っていた。
「にしても」
セフィーラが乾し肉を齧りながら口を開く。
「ランダールに登る時はね、必ずうちの星柱が付き添うことになってるのさ。さっきみたいなことが起きるからだよ」
「落ちるのか」
「落ちるさ。この山で何人死んでると思ってるんだい」
あっさりとした口調だ。
「纏系が使える者を一人つけておけば、落ちた奴を拾える。だからうちは、纏系が使える奴を必ず一人以上出す……もっとも、拾いきれないこともあるけどね」
セフィーラが乾し肉を飲み込んで、上を指した。
「さて、休んだら次だ。もう百回跳んだところで、今日は寝るよ。そこで体力を回復させて、明日が本番だよ」
「本番?」
「ここまでは前座さ。この上に、奈落落としってのがある」
聞き慣れない言葉だ。
「なんだ、それは」
「行けば分かるよ。その先が有角馬の……生息地さ」
セフィーラが立ち上がって、荷を背負い直す。
「言っておくけどね。この山で死んだ連中の大半は、あそこで落ちてる」
それだけ言って、こいつは上を見た。
俺も釣られて見上げる。岩と雲しか見えない。その向こうに何があるのかは、ここからでは分からなかった。
一間≒1.8mと思ってください。
百回跳んでいますが、岩棚(軒)の距離が違ったり、横にも跳んでいるので、百回跳んで1.000mくらいと思っていただければ。計200回跳んでいるから、初日の休憩は2.000m地点。




