第87話 空色
夜が明ける前に宿を出た。
王都の郊外はこの時間になると人がほとんどおらず、巡回の騎士ばかりで、走るにはちょうどいい。隣にはアリアがいる。学校の頃と同じように並んで走っていた。
あの頃と違うのは、体の中で金を回していることくらいだ。
「……ソラ」
半刻ほど走ったところで、アリアが声をかけてきた。
「あなた、さっきから魔力が零れているわよ」
「気づいたか」
「気づくわよ。金色の粒がずっと後ろに散ってるもの」
こいつは目がいい……同時に俺の氣がまだ未熟だということだ。
「【天翔纏】ではないでしょう。纏っているならもっと違う漏れ方をするはずだもの」
「ああ、違う」
「じゃあ、何をしているの?」
説明しろということか。
俺は少し考えてから口を開いた。
「魔力をな、外に出さないで中で回してる」
「中で?」
「体の中だ。血が流れてるだろ。あれに乗せる感じでぐるぐると」
アリアが眉根を寄せる。
「ぐるぐる?」
「そう。速く回すほどいい。ゆっくりだと意味がない。それで、こう……ぶわっと膨らませる」
「ぶわっと膨らませる……」
「体の内側が張るような感じになる。そうすると体が軽くなって力も出る」
自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。ネイに教えた時もこんなふうに首を傾げられたのを思い出す。
こういう時、俺はいつも困る。頭では分かっているのに、口にすると全部おかしくなる。
「……つまり」
ところが、アリアはしばらく黙ってから、こう口を開いた。
「纏うときって魔力を体の中で一度動かしてから、外に押し出すでしょう? その押し出す前の段階を外に出さずに保ち続けるということ?」
俺は思わず、足を止めそうになった。
「そう! それだ!」
「速く回すというのは、その動かす速度を上げるということね。ゆっくりだと、ただ体の中に魔力があるだけになってしまうから」
「そうだ!」
「膨らませるというのは……押し出す寸前まで圧を高めて、そのまま留めておく感じかしら。だから、体の内側が張る」
その通りだ。何もかもその通りだ。
セフィーラに何度も言葉を尽くして説明されて、それでも掴めなかったことを、こいつは俺の「ぐるぐる」と「ぶわっ」だけで組み立ててしまった。
「なんで分かる!?」
「なんでって……」
アリアが呆れた顔をする。
「あなたの言うことなんて、いつもそうじゃない。何年もこれを聞いていれば、そのうち翻訳できるようになるわよ」
翻訳……自分の言葉が翻訳を必要としていることは否定できないので、俺は黙った。
「呪国の技術らしい。氣を巡らす、と言うんだそうだ」
「氣……初めて聞くわ」
「セフィーラが教えてくれた」
「疾風星将様が?」
アリアが目を丸くする。
「直々に、あなたに稽古をつけてくださったの?」
「二か月ほどな。呪国の連中はこれを使う。だから俺の【天喰霧】が効かなかった。魔力を外に出していないから、喰えないんだ」
「なるほど。だから霧幻呪将には届かないのね」
そこまで言って、アリアが急に足を止めた。
俺も止まると、こいつは自分の胸のあたりに手を当てて、じっと動かなくなった。
「どうした?」
「……いえ。今、あなたの説明を聞いていて、私にもできないかなって」
♢
道の先に人影があった。
朝もやの中、深緑の外套を羽織った小さな背中が道端の草を眺めている。
その足取りに見覚えがあった。土の柔らかいところと、石の浮いているところを見もせずに避けて歩く。
「――婆さん」
「おや」
振り返ったのは老婆だ。昨日は祝賀会に姿を見せなかった。若い姿を保っていられなかったからだろう。氣を巡らせるのは消耗が激しい。二、三時間しか持たないと本人が言っていた。
「朝から精が出るねぇ」
アリアが俺の隣で戸惑っている。当然だ。こいつはこの老婆を知らない。
突然俺が声をかけた理由が分からないのだろう。
「アリア。こいつは疾風星将セフィーラ・カグラだ」
「えっ!? でも、昨日の論功行賞式典の時はっ――」
「あれは氣を巡らせた状態。こっちが本物だ」
「失礼な奴だねぇ。あっちが本物だよ」
アリアの動きが止まった。それから、慌てて姿勢を正して深く頭を下げる。
「し、失礼いたしました。閃光星将隊所属、上位騎士アリア・セレスティアと申します」
「ああ、いいさ。かしこまらなくていいよ」
セフィーラが手を振ってから、じろじろとアリアを眺め始めた。
上から下まで遠慮というものがない。
「へえぇ……」
顎に手を当てて、ぐるりと回り込む。
「噂は聞いていたけどねぇ。こりゃあ、想像以上じゃないか。うちの若いのが王都に行きたがるわけだ」
「え……?」
「あんた、これでソラみたいなのがいいのかい。もったいないねぇ」
「余計なお世話だ」
「あたしはアリアに訊いてるんだよ」
アリアが困った顔で、俺とセフィーラを見比べる。
「……ソラがいいのです」
小さな声だったが、はっきりとそう言った。
凄く……凄く嬉しくて……今にも小躍りしそうな自分が――悔しい。
「ふぅん……で、あんたら、朝から何を話していたんだい」
「氣の話だ」
「ほう」
その一言でセフィーラの目つきが変わった。
さっきまでの好奇の色が消えて、獲物を見るような目になる。
「アリア、ちょっと手を貸しな」
「え?」
「握手だよ、握手」
差し出された手をアリアがおずおずと握る。
「そのまま、纏ってごらん」
「は、はい。【聖翼纏】!」
アリアの体から淡い光が噴き出した。
その瞬間、セフィーラの眉が跳ね上がる。
「……なんだい、これ」
握った手を離さない。むしろ力を込めている。
「あんたも外に出す前に体の中で巡らせているじゃないか」
「え……?」
「無意識かい? 誰かに習ったわけでもなく?」
「習ってはいません。ただ、その……纏う前に一度体の中で整えると、纏いが安定するのと、出力が高くなるので……」
考えてみれば当たり前の話だった。
俺は魔法を誰かに習ったわけじゃない。天属性なんて他に使い手がいないのだから、教われるはずもない。ずっと隣でこいつの魔法を見て、真似て、自分の中で組み立ててきた。
俺のやり方がこいつと同じなのは必然だ。
「ちょっと待ちな。もっとよく視るよ」
そう言うと、セフィーラはアリアの背後に回った。
そして、襟元から手を差し入れる。
「ひゃっ!? あ、あの、疾風星将様!?」
「動くんじゃないよ。魔力の流れを追ってるんだからね」
アリアが真っ赤になって固まった。
衣の中でセフィーラの手が動いている。胸のあたりまで滑っていくのが外からでも分かった。アリアは唇を引き結んで、必死に耐えているようだった。
……これは、どうしたものか。
俺は空を見上げた。朝日が眩しい。今日はいい天気だ。
「へえ、しっかり回ってるねぇ。よく練れてる……ん? あんた、さらしなんか巻いてるのかい」
「そ、それは……その……揺れたり、擦れたりと、気になるので……」
「勿体ないねぇ。こんな立派なもんがあるのに」
「そ、そこは……っ!?」
アリアの声が裏返った。
俺は空を見続けている。雲一つない。
「さて、次は下だ」
「し、下!?」
同時になぜか俺の視線も下がる。
反対の手が今度は腹のあたりへ滑っていく。
臍の下だ。氣を練る場所だとセフィーラが言っていた。丹田というらしい。微妙に手先がズボンの中に入って、見えてはいけない空色の生地が見えてしまう。
「ひぅっ……あ、あの、そこは……」
「動くなと言っただろう」
「だ、ダメ……」
アリアの腰がわずかに引けた。
膝が震えている。首から耳まで真っ赤で、目が完全に潤んでいる。
俺は視線をまた空に向ける。空……空色……さっきのアリアのも……逃げ場がない。くそっ、セフィーラでなければとっくに剣を抜いているが、こいつはアリアのためにやっている。そんな真似はできない。
やがて、セフィーラが満足そうな様子で手を引き抜いた。
「よし、分かった」
アリアが慌てて衣服を直す。息が上がっていた。
「アリア。あんた、魔力の量ならソラの方が上だ。こいつは化け物だからね」
「……はい」
「だが、制御は圧倒的にあんたの勝ちだよ。あんな乱暴な回し方をしてる小僧とは、比べ物にならない」
乱暴で悪かったな、と思ったが口には出さない。
「ソラは器がでかすぎて、どこかに穴が空くと一気に零れる。あんたは器こそソラに及ばないが、綺麗な器をしている。氣を巡らせるのに、これほど向いた素質もそうないよ。アリアはあたしにそっくりだ。顔も、体も、匂いも、魔力量も……」
セフィーラが俺の方を向いて、にやりと笑ってから、またアリアに視線を戻す。
「男の趣味もね」
「あ、ありがとうございます……」
「訓練すれば、ソラよりも早く使えるようになるんじゃないかい」
「……本当ですか?」
「あたしが言うんだから、間違いないさ」
アリアが衣の乱れを直しながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございます……その、色々と」
「なあに。若い娘の体を触らせてもらって、こっちも役得だったよ。熟れる前に早く摘んでもらいな」
「……っ」
アリアがまた赤くなる。
空はまだ――空色だった。
たまには、こういうのダメですか?
次話で4章最終話です!!!
夜に更新します!




