第82話 僥倖
雨の膜の向こうから、幾重にも連なった白装束がじりじりと輪を縮めてくる。数百どころじゃない。振り返ってもどこを向いても白。逃げ場がない。
「ソラ! 後ろは任せな!」
ヴァーグナーの怒声。傭兵団が円陣を組んで背中合わせに剣を構える。
だが、この数は無理だ。俺たちは五十人とちょっと。相手は下手すれば千。
その先頭にはキリト。いつの間にか、黒装束ではなく白装束を率いていた。
「目標は小僧――ソラ一人! ソラさえ討ち取れば、烏合の衆! かかれ!」
キリトは一瞬、視線を俺から切って後方を見る。呼応するかのように、一人の白装束が飛びかかってきた。濡れた頭巾を深く被り、口には布あて。目しか窺うことはできない。何を考えているのか分からない、虚ろな目。
こいつも剣を片手に、乾いた石畳を蹴るように泥の中を軽やかに迫ってくる。この足捌きは手練れ!? ただ、あまりにも無防備――矛盾を孕んだ接近に戸惑いながらも、金を纏った剣を振り抜く。
――手応えが……ない。
確かに斬った。だが、あまりにも手応えがない。感触というより、生に対する執着が感じられない。斬られた白装束は血を流すことなく、崩れ落ちながら、輪郭からほどけていく。
……なんだ……これは?
それから次々と白装束が飛び込んでくる。俺だけにじゃない。傭兵団全体にだ。
「方円の陣を取るよ! 中心はプリシラ! 怪我したらプリシラに癒やしてもらいな!」
豪雨の中でもヴァーグナーの声はよく通った。幸い、数こそ白装束の方が多いが、腕は傭兵団の方が立つ。そこにプリシラがいるのだから、多少は持ちこたえられる。俺は傭兵団が潰れる前にキリトを斬る。呪将を倒せば戦いは終わる。
そう思って一人キリトに迫る――が、行く手を阻む無数の白装束。
こいつら、足捌きだけはいいが、剣術に関しては素人同然。でも、死を恐れることなく俺の前に立ちはだかる。
ん? 死を恐れない?
確か、戦前にセフィーラが言っていた。
『あいつが創った兵に恐れはない。死を厭わないんだよ』
突然、頭の中が目まぐるしく働く。こんなこと、生まれて一度もなかった。
剣を振りながら考えている。自分でも何が起きているのか分からない。だが、さっき白装束を斬った俺の手が、体が、答えを寄越せと急かしてくる。
白装束は血も出ず、その場に解けるように崩れ落ちた。
もしかして……ほどけたのではなく、喰ったのか? 俺の金が?
だとしたら、この白装束の正体は――
一つの仮説を立てて、体内の魔力を高速で巡らせ、勢いよく放出――
「【天喰霧】!」
刹那――金色の霧が爆ぜるように広がり、雨ごと白装束を呑み込んだ。触れたそばから輪郭が崩れ、ほどけて霧散する。悲鳴一つ上がらない。声も出さずにただ消える。白い波が金に呑まれて凪いでいく。
予想は的中した。白装束は魔法だ! 魔法だから俺の金が喰ったのだ!
「い、一体何が起きているんだいっ!?」
「溶けた……金に触れると溶けていくぞ!?」
「ソラよ! ソラが倒してくれているのよ!」
ヴァーグナー、バルト、プリシラたちも驚く。
「ヴァーグナー! なるべくこの霧の中にいろ!」
「言われなくてもね!」
ヴァーグナーが即座に指示を飛ばす。
「全員下がりな! ソラの金の霧から、なるべく出るんじゃないよ! 弱ったところを叩きな! 怪我をしたら真ん中に寄りな! プリシラ!」
「はいっ! 怪我人は私が癒やします!」
これで後顧の憂いは断った!
目の前に集中できる!
その正面、キリトは現状を把握できていなかった。
「なっ――ユウゲン様の魔法をっ!?」
周囲の白装束が喰われていくのを見て、表情に焦りが浮かぶ。
ユウゲン……やはり、セフィーラの言っていた妖霊呪将の魔法か。こいつらは俺の魔力が相手の魔力を撥ね退けると勘違いしていた。だからこの結果は予想できていなかったのだ。
動揺しているキリトを見逃す俺ではない。それに、いずれ俺の魔力にも限界が来る。これだけの出力で魔法を展開しているから、四半刻が限度だろう。それまでに決着をつける!
目の前にはキリト。先ほどまで白装束が群れていた周囲を黒装束が固める。白とは違って、こいつらは実体。金が触れても消えはしない。
迷わずキリトの間合いに踏み込む。刃が噛み合い、弾かれ、また噛み合う。泥に足を取られているのは向こうも同じだ。視界は【天翔纏】を纏っている俺の方が有利!
黒装束の男たちが加勢に入ってくる。俺は足を止めず、金を撒きながら、群がってきた奴から順に斬り伏せていった。確かな手応えと、骨を断つ重さが手に伝わる。
キリトには視界がない。だからこそ思うように刀を振れない。下手すれば黒装束を斬ってしまうから――いや、俺がそういう軌道で動いているからだ。
こいつらには、俺とアリアの間にあるような呼吸の合わせ方なんてない。だったら、その隙に付け込むまでだ! 迫り来る刃をいなし、返す刀で横から飛び込んできた黒装束を薙ぎ払う。徐々に敵陣へと切り込み、周囲の包囲を切り崩していく。
その時、視界の端に妙なものが映った。
妙に姿勢のいい老人。首からは少し角の尖った大きな珠が連なった数珠をかけている。杖をついているが背筋は伸びている。どこかセフィーラのような爺さん。
……なんで爺さんが戦場に?
爺さんは俺をずっと目で追っているように見えた。
「爺さん! ここは戦場だ! 離れろ!」
キリトと剣戟を結びながら、爺さんに向けて叫ぶ。
爺さんは一瞬、目を見開いたが、俺の言葉に従い、戦場を離れようとした。
意識をキリトに戻して剣を振るう。その刹那――今まで離れようとしていた爺さんが、俺を睨みつけながら猛進してくる。高出力の【天翔纏】が、その気配を捉え、視せてきた。
こいつ、呪国の奴だったのかっ!
振り向きざま一閃。白く光る刃が、俺の首があった場所を薙いでいく。ぎりぎりで届いていない。
そして、俺の剣は――届いていた。
老人の手には杖の中身が握られていた。細身の仕込み刀。抜き身の刃から雨が滴っている。
その体がゆっくりと傾いだ。
泥の上に老人が崩れ落ちる。
老人を斬りたくはなかったが、仕掛けてきたのだから仕方がない。
すぐに視線をキリトへ戻すと――周囲の空気が変わった。
白が……消えていく。
金の霧の外。輪をなしていた白装束の群れが、端から端まで一瞬で消え去った。声もない。剣を打ち合う音もない。あれだけ戦場を埋めていた白が最初からいなかったかのように消滅した。
白装束の部隊がいた先には有角馬に乗ったセフィーラの姿。セフィーラもまた、目の前にいたはずの白の大部分が消え、困惑した様子だった。
残ったのは泥と雨と黒装束だけだった。
そのうちの一人が、俺の足元の老人を見ながら絶叫する。
「ユウゲン様が――! ユウゲン様が討ち取られた!!!」
俺は足元を見る。泥に沈んでいる老人。杖の仕込み刀を握ったまま動かない。
こいつが……この爺さんが妖霊呪将?
一人で小国を潰したという、あの――視線を上げる。
キリトがこっちを見ていた。その顔から余裕が消えている。刀を構えたまま、目だけが泥の上の老人へ向いていた。
♢
「――退けッ!!」
キリトが叫ぶと、黒装束たちが一斉に動き出す。潮が引くように国境の向こうへ。
残った白装束は次々とセフィーラたちに討ち取られている。あいつらは魔法ではなく、人間のようだ。しかしこの雨の中、有角馬に騎乗した疾風星将の部隊から逃げ切るのは不可能だ。
千の軍勢は跡形もなく消えた。残りの白の残党も狩られている。残っているのは三十人前後の黒装束だけだ。
一方こちらは傭兵団も、疾風星将の部隊もまだ立っている。数が逆転した。
「逃がすか!」
俺は地を蹴った。【天翔纏】を最大にして、泥を蹴り、雨を裂いて、退いていくキリトの背へ。
キリトが振り向いて、刀を薙ぐ。
だが、視えている。【天瞰眼】を使わずとも、俺の金が捉えている。
俺の刃がその刀をかいくぐった。
肉を裂く手応え。キリトの脇腹から血が飛んだ。
「ぐっ――」
初めてこの男が呻いた。もう一撃――だが、そこに黒装束が割り込んできた。二人。俺とキリトの間に身を投げるように。
「呪将様、お退きください!」
「馬鹿が、退けと言ったのは――」
「お早く!」
殿だ。俺は構わず剣を振るった。割り込んできた黒装束を一人斬る。返す刀で二人。手応えがある。こいつらは生きている。斬れば死ぬ。
斬るたびに時間が食われる。その分だけキリトが遠ざかっていく。脇腹を押さえ、片膝をつきかけながら、それでもキリトは退いていた。部下に肩を借りて雨の中へ。
最後に一度だけこちらを振り返った。
その目が俺を捉える。
何か言おうとして――やめたらしい。
そのまま黒い影は雨の向こうへ消えていった。
俺は追わなかった。いや、追えなかった。足元には斬り伏せた黒装束。背後には傭兵団と、疾風星将の歩兵たち。ここで深追いすれば、また誰かが死ぬ。リッテの時と同じことになる。それに魔力も尽きかけているのもあった。
雨が少し弱まっていた。
振り返ると、泥の上に老人が横たわっている。
俺はそこへ歩いていく。
小柄な体だ。骨と皮ばかりの腕。深い皺の刻まれた顔。目は開いたままだった。こいつが妖霊呪将。セフィーラが長年睨み合ってきた男で、一人で小国を潰した男。千の兵を無から創り出した男。
その死体は――どこにでもいる、ただの老人にしか見えなかった。
そこに、セフィーラが駆け付けてくる。
「まさか呪将二人を相手にして無事……しかも一人を倒すなんてねぇ……」
「相性が良かった。天候にも助けられた」
「にしても、大将首を取ったんだ。論功行賞が楽しみだねぇ」
ヴァーグナーも寄ってくる。
「こりゃあ、とんでもない褒美が出るんじゃないか?」
「当然さね。陛下から思いっきりふんだくりな」
さらにはネイも。
「ソラ! やったじゃないかい! 大将首を討ち取って!」
「……まさか、こいつが妖霊呪将とは思わなかった」
「えっ!? 知らずに倒したの!?」
「ああ」
これにはセフィーラも大笑い。
「ユウゲンもたまったもんじゃないねぇ。雑兵扱いされて」
ヴァーグナーが続く。
「それだけじゃないよ。あたしは見ていたけど、ソラは一度こいつを見逃そうとしたんだよ。通りすがりの爺さんかと思ってね。こんな天候で、こんな場所に、通りすがりなんているわけがないのにさ」
女三人の笑い声が、雨音をかき消す。
空を仰げば、頭上の雲間から光が差していた。
まるで、俺の武功を祝うかのように。




