第8話 半年後の景色
ラッパの音で目が覚めると、体が勝手に動いている。
半年前は何をすればいいかわからなくて廊下に突っ立っていたのに、今は目が覚めた瞬間から手が動く。剣を手に取って砥石を構えて油の量を確かめる、その一連が息をするみたいに流れていく。厩舎に行けば馬が顔を向けてきて、最初に弾き飛ばされたあの馬も、今では俺が来ると耳を立てる。半年でここまで変わるものかと、自分でも少し驚く。
でもヴォリトの訓練では、まだ一本も取れていない。
毎朝全力でぶつかって、毎朝中庭に叩きつけられる。それでも確実に、昨日より長く持ちこたえられるようになっている。最初は三秒も持たなかったのに、今は十秒は戦える。上は遠い。でも確実に近づいている――その手応えが、毎朝の燃料になっている。
♢
文字の授業は、今日も中庭の隅で始まる。
アリアが木の板に文字を書いて、俺がそれを羊皮紙に写す。半年前から続けているのに、まだ全部は覚えきれていない。特にこの「翔」という字が覚えられなくて、今日も間違えた。
「また違う。この部分、六画目の払いが逆よ」
「どっちでも読めるだろ」
「読めません。文字というのは正確に書くから伝わるの」
「そんな細かいことを気にするのか」
「細かくない。基本よ」
アリアが俺の手元を覗き込んで、直す。近いな、と思ったが嫌ではない。
「これだけ剣の才能があって、なぜ文字がこんなに覚えられないの」
「剣と文字は違う」
「何が違うの」
「剣は体で覚える。文字は頭で覚える。俺は頭より体の方が早い」
「……それは認めるけど、だからといって諦める理由にはならないわ」
「諦めてない。ただ時間がかかるだけだ」
ため息をついてアリアがもう一度同じ字を書いてみせる。丁寧に、ゆっくりと。半年前から変わらない教え方で、こいつは一度も投げ出したことがない。
「見て。この画の流れを目で追って、手を動かす前に頭の中で一回書いてみて」
「……こうか」
「そう。それよ」
今度は合っている。アリアが小さく頷く。褒められた気がして少し嬉しいのと、同い年のアリアができていて、俺はできなくて悔しいのが半々で――黙って次の文字に移る。
♢
昼過ぎ、廊下を歩いていたらレオが声をかけてくる。
最初に絡んできた三人のうちの一人で、あの頃は目に刺々しさがあったのに、今は普通に話しかけてくるようになっている。
「ソラ、今日の訓練どうだった?」
「また叩きのめされた」
「それでも最近は粘れるようになってきたじゃないか。俺なんか五秒が限界だぞ」
「まだ全然足りない。いつかヴォリトをぎゃふんと言わせてやる」
そう言って歩き続けると、後ろでレオが苦笑いしているのが気配でわかる。半年前は殺気すら感じた連中が、今では普通に話しかけてくる。俺は何も変えていないのに、周りが変わっていく感じがして、少し不思議だ。
アリアが横に並んで歩きながら、小声で言う。
「少しは丸くなったわね」
「なってない」
「なってるわよ。最初の頃は廊下で会うたびに火花が散ってたじゃない」
「向こうが勝手に散らせてただけだ」
「……まあ、そうね」
珍しくアリアが笑って、俺も少しだけ口が緩む。
♢
夕方、屋敷の中がざわつき始める。
ヴォリトが従士と騎士見習いを中庭に集めて、近隣の村を荒らしているDランクの魔物の討伐任務を告げる。複数の目撃情報があり、規模からして群れの可能性がある――そこまで聞いた瞬間、俺は前に出ようとして、
「騎士見習い以上が参加条件だ」
ヴォリトの言葉が、俺の足を止めた。
中庭がしんと静まり返る。騎士見習い以上。俺はまだ従士だ。条件に当てはまらない。騎士見習いたちが出発の準備を始める中、俺は動けなくて拳を握りしめながら突っ立っていた。
納得できない。Dランクの魔物なら、テトラボアと同程度。あれからかなり強くなっているはずの俺が、規則で足止めされている。でも規則だと言われたら、表向きは引き下がるしかない。
――表向きは。
夜、出発は夜明け前と聞いている。先行する部隊の後を単独でついていけば、誰にも気づかれないまま現場に辿り着ける。規則を破るのはわかっている。でもこんなところで燻っていたら、クロフォードとの差は開くばかりだ。
準備をしながら頭の中で算段を立てていると、横にアリアが来る。
「明日の装備、ちゃんと確認した?」
さらっと言って、アリアは自分の剣の手入れを始める。俺は一瞬固まった。
「……お前、気づいてるのか?」
「何が?」
アリアは俺を見ずに布を動かし続けている。気づいている。絶対に気づいている。でも何も言わない。止めるでも告げ口するでもなく、ただ淡々と自分の剣を磨き続けている。
俺も何も言わずに装備の確認を続ける。その沈黙が、なぜか背中を押してくる気がした。部屋に戻ろうとしたところでアリアを呼び止める。
「なあ、従士から騎士見習いになるにはどうすればいい?」
アリアが足を止めて振り返る。
「昇格試験があるわ。剣術、魔法、知識の三種目。全部で一定の基準を超えれば騎士見習いに上がれる」
「知識って何だ」
「文字の読み書き、歴史、魔物の生態――基礎的なことよ」
「……文字か」
「そう。だから言ったでしょう、文字は覚えなさいって」
アリアが少しだけ得意そうな顔をする。腹立たしいが、反論できない。
「いつ受けられる」
「半年に一度。次は三ヶ月後ね」
「三ヶ月か」
「あなたなら剣術は問題ないでしょうけど、魔法と知識は――」
「三ヶ月でなんとかする」
「……根拠は?」
「俺がそう決めたから」
アリアがため息をついて、でも口の端が少しだけ上がっている。
「じゃあこれから文字の授業、倍にするわ」
「倍か……」
「文句ある?」
「ない」
それだけ言って部屋に戻る。三ヶ月。長いようで短い。明日の討伐が終わったら、全部そこに向けて動く。
♢
夜中、全員が寝静まった頃に中庭に出て素振りを始めると、風だけが静かに動いている。
半年でここまで来た。文字もだいぶ読めるようになって、魔法の基礎も少しずつわかってきて、仕事も体に染み込んでいる。でも、まだ全然足りない。ヴォリトには歯が立たないし、魔法はまだ言葉にできていない。クロフォードが帝国でどれだけ積み上げているかを考えると、腹の底に火がつく。
――あいつは今、何をしているんだろう。
木剣を振りながら、その問いが頭の中を巡る。帝国の中で、あいつは今どこまで行っているんだろう。きっと魔法も使いこなして、剣も磨いて、一日一日をちゃんと積み上げているはずで、なのに俺は規則に引っかかって実戦から外されている。
こんなところで立ち止まってはいられない。
明日、ついていく。規則を破るのはわかっている。ヴォリトに怒られるのもわかっている。でも今の自分がどこまでやれるか確かめなければ、前に進めない気がする。一振り、また一振りと木剣を振り続けながら、決意が固まっていく。
魔力を込めると、金色の光が木剣を包んで夜の中庭をぼんやりと照らす。半年前より光が安定している。でもまだ形にできていない。言葉にできていない。この光をちゃんと魔法にできた時――俺はもう一段、上に行ける。
限界まで絞り出して魔力が尽きると、膝が石畳に落ちる。冷たさが膝から染み込んでくる中、夜明けの気配が空の端に滲み始めている。
――待ってろよ、クロフォード。必ず追いつく。
立ち上がって、部屋に戻る。夜明け前の出発まで、あと少しだ。




