第78話 霧の主
重りを外し、地面へ落として走り出す。
「【天翔纏】!」
金を纏い、身体を限界まで引き上げ、国境へ向かって一直線に駆ける。
夜明け前の街道はまだ暗い。だが、地面は覚えている。この数日、足で叩き込んだ。ここは緩い上り。ここで右に折れる。目を閉じても走れる。
「ソラ! 速い、速すぎるって!」
背後から声がした。ネイだ。馬に乗って、なんとか食らいついてくる。
「傭兵団は!?」
「後ろから来てる! 騎士たちはまだ編隊を組んでいる! あんたが先行しすぎなんだよ!」
構わない。狼煙は緊急信号を意味する――霧が出ているならあいつしかいない。
一歩でも早く。
国境に近づくにつれ、空気が湿ってくる。前方に白い壁が見えてきた――霧だ。
朝もやとは違う。不自然なほど濃く、そこだけ切り取ったように立ち込めている。輪郭がはっきりしすぎている。あんな霧は自然には出ない。
外からは何も見えない。何も聞こえない。だが、俺には分かる。
あの中で殺し合いが起きている。
俺は速度を緩めない。金の尾を引いて白い壁へ突っ込んだ。
霧の中は数歩先も見えなかった。
視界が白く塗り潰される。音も妙にくぐもって聞こえる。距離が掴めず、方角も曖昧になる。
これだ――この感覚を俺は知っている。
封魔の森と同じだ。
悲鳴が聞こえた。近い。左手。
金の光を頼りに目を凝らすと、霧の向こうに影が見えた。騎乗した騎士だ。その周りを黒い影がいくつも取り囲んでいる。
黒装束――間違いない。あいつらだ。騎士が馬上から剣を振るっているが、当たらない。相手が見えていないのだ。霧の中から差し込まれる刃を鎧で受けるので精一杯。すでに地面には事切れた騎士が何人も倒れている。馬もろとも斬られた者もいる。一方的だった。
黒装束たちは霧の中を自在に動く。見えない敵に騎士たちは成す術がない。
だったら――霧を晴らす。
「【天喰霧】!」
腹の底から魔力を解き放つ。金色の霧が爆ぜるように広がった。俺を中心に白い霧を押しのけ、貪るように喰らっていく。
視界が開けた。俺を中心に十歩から二十歩ほど霧が晴れ、黒装束の姿が晒される。数は十。黒装束たちが一斉にこちらを向き、霧を晴らされて動揺している。奇襲が身上の連中だ。姿を晒されるのは想定の外らしい。
なら、好都合――その隙を見逃さず、地を蹴った。
一番近い黒装束へ一息で間合いを詰める。相手が反応するより早く、鉄の剣を振り抜いた。骨を断つ手応え。崩れ落ちる影を置き去りに次へ。
霧があってこそだ。視界を奪い、気配を消し、一人ずつ仕留める。それがこいつらのやり方。だが、晴れてしまえばその戦法は通じない。
剣を振るうたびに金を撒く。金が霧を喰い、霧が晴れた場所で斬る。斬っては晴らし、晴らしては斬る。
一人、また一人と黒装束が地に伏していく。
「な……なんだ、こいつ……」
助けた騎士の一人が呆然と呟いた。
構っている暇はない。まだ終わっていない。
その時、空気が変わった。
振り下ろした俺の刃がふいに横へ逸らされた。
――受け流された?
霧の奥――いや、中心から一つの影が歩み出てくる。
黒装束。だが、他とは違う。纏う気配がまるで違う。
背筋がざわりと粟立った。
この感覚を忘れるものか。
――あいつだ。
封魔の森で俺とアリアの二人がかりでも倒せなかった、あの男。
男の剣が霧を裂いて伸びてきた。細く反った刃。俺は咄嗟に鉄の剣で受けた。刃と刃が噛み合い、甲高い音が弾ける。
重い。いや、重いんじゃない。速い。速すぎて受けるので精一杯だ。
「【天衝脚】!」
金の足場を蹴って跳ぶ。上から斬り下ろす。
だが、届かない。男は最小限の動きでかわし、返す刀で斬り上げてきた。【天翔纏】を纏っている俺の肌へ、その刃はやすやすと届く。
肩が裂け、鮮血が散る。
くそっ――!
【天翔纏】を最大にする。全身に金を漲らせ、速度を極限まで上げた。それでも――足りない。
この男の剣は見えているのに追いつけない。振り下ろしたはずが、そこにいない。受けたはずが、別の角度から次の刃が来ている。
シャーレの時と同じ――いや、質が違う。あれは純粋な速さだけ。だがこいつは――技だ。剣技そのものが俺を圧倒している。
まだ俺は届かないのかっ!?
――だったら!
「【天瞰眼】!」
頭上に金色の眼が象られ、世界が開く。
男の全身が手に取るように視える。肩の筋肉の張り。踏み込む前のつま先の向き。剣を握る指のわずかな力み。息を吸うその一瞬。
次に何をするか――視える。
男の刃が右下から来る。
俺は半歩引いて、それをいなす。
返しの左も受け流す。
初めて男の動きが止まった。
視えている。
こいつが何をしてくるか全部。
肩が動く前に俺の身体はもう動いている。
今度は俺が踏み込んだ。男が守勢に回る。あの男が初めて後手に回った。
数合打ち合って、俺が優勢。いける! このままなら――
が、剣戟を結んでいるうちに、頭の奥に違和感を覚える。
まずい。【天翔纏】を纏ってなお痛みを感じるほどだ。相当頭に負荷がかかっている。斬られた肩は痛みもないのに、頭にだけ鈍痛が這い上がってくる。
こめかみが脈打つ。まだだ。まだ耐えられる。
俺は歯を食いしばって、男へ剣を叩き込み続けた。
「――そこまでだ、化けもん剣士!」
背後で怒声が響いた。
バルトだ。傭兵団が追いついた。霧の晴れた空間へ次々と駆け込んでくる。逃げ惑っていた騎士たちも態勢を立て直し、弓ではなく、腰から剣を抜いていた。
ネイも馬上から槍で黒装束を牽制する。
やはりネイも弓は使わない。すべての霧を晴らしているわけではない。
視界が効かない場所に射って、味方に中ることを考えてだ。
しかし、霧さえなければ黒装束の奇襲は通じない。
黒装束たちがじりじりと退き始める。
目の前の男も剣を引いた。俺の刃が空を切る。
「待て!」
俺は追おうとする。だが、男は殿を務めて追撃を許さない。
ここぞとばかりに、黒装束の背中を斬ろうと追いかける傭兵。
「やめろっ! お前じゃ無理だっ!」
俺の叫び声が虚しく響く。次の瞬間には傭兵の首が、俺と斬り結んでいた男に刎ねられていた。
しん、と静まる戦場。
他の黒装束たちが潮が引くように霧の奥へ退いていく。
「くそっ!」
もう一度、俺が男に向かおうとした、その時。
「――名を」
男が口を開いた。思ったよりもかなり若い声。
「名を聞いておこう」
俺は剣を構えたまま、答えた。
「ソラだ!」
男はしばらく俺を見ていた。霧の向こうからこちらを値踏みするように。
やがて、片手を顔にかけた。
霧を晴らして、顔を覆っていた黒い布をゆっくりと外す。
現れた素顔に俺は思わず目を見張った。
やはり若い――二十歳前後だ。
青みがかった黒髪に切れ長の目。だが、その目の奥は底が知れなかった。
「霧幻呪将――キリト・フォグミス」
男が名乗った。
「覚えておこう、ソラ……あの森で俺の刃を受けた小僧がこうも育つとはな」
やはり、覚えていた。
「師匠以外で俺とここまで打ち合える奴がいるとはな。次を楽しみにしておく」
言い残して、キリトの姿が霧に溶けた。
濃かった霧がみるみる薄れていく。使い手が退けば霧も消える。夜明けの光が白い名残を照らし出した。
♢
霧が晴れ切ると同時に、俺は【天翔纏】を解く。
その瞬間、頭が割れた。
抑え込んでいたものが一気に牙を剥く。【天瞰眼】の反動だ。纏っている間はまだ抑えられていた。だが解いた途端、こめかみの奥を灼けた釘で貫かれるような痛みが襲う。
それに、肩も熱い。
裂傷が思ったよりも深かった。
剣を握ることすらできず、膝が地面につく。
「ソラ!?」
プリシラの声だ。
傭兵団と一緒に後方から来ていたらしい。血相を変えて駆け寄ってくる。
「傷……いえ、これ、頭……!?」
プリシラが俺の頭に手をかざし、白い光が灯る。聖属性の癒しだ。
だが――効かない。
頭の痛みは引かない。光が頭の周りを撫でても内側の痛みには届かない。
「まずは肩の傷を頼む」
「わ、分かった」
肩の傷がみるみる引いていく。
次は腕、次は腹。浅く斬られた部分も、癒えていく。
が、頭痛だけは治らない。これは傷じゃない。聖属性が癒せるのは裂けた肌や折れた骨だ。頭の中で暴れているこれは傷とは違う。だから、プリシラには治せない。
あの部隊の男でも無理だろう。
治せる奴を俺は一人しか知らない。
――あいつしか。
封魔の森でも、学校でも、この頭痛が来るたび、あいつは何でもないことのように消してくれた。あの淡い光に触れられると嘘みたいに楽になったものだ。
今、あいつはここにいない。
だから、俺は耐えるしかない。歯を食いしばって痛みが引くのを待つ。
「……大丈夫だ」
「大丈夫じゃないでしょ!」
「お前は傷を癒やしてくれた。それでいい。助かった」
「でも、まだふらふらで……」
「放っておけば、治る」
立とうとするが、まだふらつく。
プリシラは泣きそうな顔でそれでも手を離さなかった。治せないと分かっていて、光を灯し続けている。
「おまえ……」
声がした。助けられた騎士たちだ。
いつの間にか俺の周りに集まっていた。さっきまで一方的に蹂躙されて、逃げ惑っていた男たちだ。鎧は傷だらけで何人かは血を流している。だが、生きている。
「おまえが来てくれなけりゃ……俺たちは全滅だった」
一人が掠れた声で言う。そして、膝をついた。
「助かった……本当に、助かった」
一人が頭を下げると、他の騎士たちも次々と倣った。傷だらけの騎士たちが、余所者の俺に頭を垂れている。
「よせ。礼はいらない。俺は武功が欲しくて勝手にやっただけだ」
「それでも、だ」
騎士は頭を上げなかった。
ネイが少し離れたところで、腕を組んでいる。得意げな顔だ。まるで自分のことのように胸を張っている。
「言ったろ。こいつは只者じゃないんだ」
バルトも続く。
「おう、なんたって、俺らヴァーグナー傭兵団のエースだからな!」
「俺は傭兵じゃない」
「照れんなって。おい、プリシラ。ソラのそっちの肩、持ってやれ。二人で連れて行くぞ」
「ち、ちょっと。命令しないでよっ!」
「嫌だったら別の女でもいいけど――」
「い、嫌なんて言ってないでしょ!」
俺は二人に肩を貸してもらって、街を目指して歩き始める。
前に立っていたのは、ヴァーグナーだった。
「すまない。一人、死んだ」
「ああ、見ていたさ」
「ぶん殴ってでも止めるべきだった」
「いや、あいつも覚悟の上だよ。ソラが気にすることじゃあない」
そう言って、ヴァーグナーは首を刎ねられた団員のもとへ歩く。
目に涙をためながら――団員のところに座り込むと、腰にぶら下げていた酒瓶の蓋を開け、豪快に煽る。
「死んだリッテはさ。酒が好きだったんだ」
「きっと、団長とリッテが最後の一杯を酌み交わしているのよ」
ヴァーグナーの背中は震えていた。
「バルト」
「なんだ?」
「夜、飲むぞ。付き合え」
「――っ!? おう! そうこなくっちゃ!」
「じゃあ、私も付き合ってあげる」
「あぁ!? おめぇは飲めねぇだろ!」
「少しは飲めるもん!」
その日の夜に酌み交わした酒は、昔飲んだときよりも深く、体に効いた。
傷跡に沁みたからかもしれない。




