第77話 狼煙
「――というわけで、ソラがセフィーラ様に取り入りまして」
島から岸へ戻ると、ネイが早口で説明を始めた。
「取り入ってない」
「言葉のあやだよ。とにかく、傭兵団を雇ってくれるって話に――」
「その説明はいらないよ」
ヴァーグナーが手を振った。
「全部見てたからね。最初から最後まで、ばっちりとさ」
岸にいたのは、傭兵団の連中だけじゃなかった。疾風星将の部隊の兵が、いつの間にかずらりと並んでいる。みんな泉の中央を見ていた。俺とセフィーラが跳ね回っていた、あの島を。
「お前さあ」
バルトが近づいてきた。いつもの調子とは、少し違う。
「星将様に追いついたのか」
「追いついてない。触れただけだ」
「触れただけって……」
バルトが泉を振り返る。
「相手は星将だぞ。星国に七人――今は六人しかいない武の頂点だ。うちみたいな傭兵が本来なら口をきくのも畏れ多い、雲の上の御方だぜ。それをお前、追い回した挙句に触ったってのか」
「俺は傭兵じゃない。騎士だ」
「でもよぉ……大したもんだよ、ほんとに」
茶化してこなかった。それが、少しだけ調子を狂わせる。
そんなやり取りをしていると、セフィーラが泉の向こうから声を張った。
「ヴァーグナーの団長さん! 話は決まりだ!」
「へえ。ずいぶんと気前がいいじゃないか」
「あんたんとこの小僧が気に入った。金は弾むよ。その代わり、あの霧をどうにかしとくれ」
ヴァーグナーが口の端を上げた。商人の顔だ。
「よくやったねえ、ソラ」
ヴァーグナーが俺の肩を叩いた。
「あんたのおかげで大商いになりそうだ。金額は明日、詰める。ふふ、うまくいきゃあ、当分は左うちわだよ。今日からあたしの身体を好きにしていいよ」
「いらない」
「即答するんじゃないよ。傷つくじゃないか」
ヴァーグナーは豪快に笑って、俺の背中を叩く。
そういうやり取りにも、もう慣れた。
♢
傷の手当てはその場で終わった。セフィーラが部隊の魔法使いを呼んだのだ。聖属性の俺より少し年上の男だった。
「動かないでくださいね」
男が手をかざすと、白い光が腕の傷を撫でていく。プリシラの光よりいくらか濃い。傷の縁がみるみる寄って、痛みも熱も引いていった。
「はい、終わりです。頬のほうも……ええ、綺麗に塞がりました」
「助かった」
「いえ。セフィーラ様のご命令ですから」
男が一礼して下がっていく。
その入れ替わりにプリシラが来た。何やら頬をふくらませている。
「……ソラ」
「なんだ?」
「傷、まだ残ってるかもしれないでしょ」
「もう治った」
「見せて」
治ったと言っているのに、プリシラは俺の腕を取った。さっき男が撫でたあたりを指先でなぞる。
「……残ってないわね」
「言っただろう」
「わかってるわよ」
なのに、プリシラは手を離さない。俺の腕に手のひらをかざして、白い光をぽうっと灯す。もう塞がった肌の上をその光がただ滑っていく。
何も治すものがないのに、何をしているんだ。
「これくらい、私にだってできるんだから」
小さな声だった。プリシラの指が腕から肩へ移る。傷を探しているらしい。だが、傷はない。さっきの男が全部消していった。それでも指は動く。肩の線をなぞって、胸元のあたりで止まった。
「……ソラって」
「なんだ」
「硬いのに、柔らかいのね」
何を言っているのか、分からなかった。
「……いや、なんでもない。うん、なんでもないの」
プリシラの顔がなぜか赤い。慌てたように手を引っ込めて後ろを向いてしまった。
「もう治ってるから! 私が治したんだから! いいわね!」
治したのは、あの男だ。
そう言おうとして口をつぐむ。なんとなく言わないほうがいい気がした。
♢
その夜、酒場は騒がしかった。
団の連中は浮かれて、エールを次から次へと空にしている。疾風星将に名指しで雇われたのだ。しかも報酬は破格になりそうだという。ヴァーグナーの笑い声が通りにまで漏れていた。
だが、俺はそこに留まらなかった。街の外を走る。夜だ。月は出ているが、暗い。街を離れると、道はすぐに闇へ沈む。足元も見えない。
だから、金の魔力を撒く。
体から金の粒をこぼしていく。それが地面に散って、ほのかに光る。アストレアの坑道でやったことだ。あの時の経験が今になって活きている。
走りながら、地面の形を覚えていく。
ここは緩い上り。ここで道が右に折れる。左手は森が深くなる。この岩は膝の高さ。目でじゃない、足で覚える。踏んだ感触、傾き、石の位置。それを、体の奥へ沈めていく。これもコンラートの部隊にいた時に会得したことだ。
学校での学びが、こうして活かされていく。
同じことを翌日も、その次の日も繰り返した。
昼は街の外周を走り、夜は闇の中を走る。重りは着けたままだ。眠る時以外はずっと動いている。
疾風星将の部隊の兵がそんな俺を遠巻きに見ていた。
「おい、あいつ、また走ってるぞ」
「いつ寝てるんだ?」
「馬より走ってるんじゃないか、あれ」
声が聞こえてくる。気にはしない。
馬に乗った騎士たちが、訓練で街道を駆けていく。俺はその横を地面を蹴って抜いていく。何度か競うような形になった。馬の脚にも負けはしない。
だが――時折、馬場の向こうにあれが見えた。
有角馬だ。巨躯が柵の中を悠々と歩いている。時おり気が向いたように駆け出すと、その速さは俺が抜いてきた軍馬とはまるで別物だった。地を蹴る回数が違う。一歩が遠い。あっという間に馬場の端から端へ届いてしまう。
速い。
俺は足を止めて、それを見ていた。
あれに乗れたら。
そんな考えが浮かぶ。傭兵団と行動を共にするまで、俺はずっと一歩遅かった。噂を聞いても、駆けつけた頃には片がついている。理由は情報だけじゃない。着くのが遅いからだ。俺の脚では間に合わない場所がある。
だが、あれなら。あの脚なら間に合うかもしれない。
セフィーラは言っていた。有角馬は部隊の者しか乗れない、と。自力で霊峰を登って懐かせたなら承認する、が、そこまで辿り着ける者はいない、と。
霊峰ランダール。北の帝国と東の呪国の間にそびえる山。
――いつか。
その考えを頭の隅へ押し込んだ。今は目の前の霧が先だ。
俺はまた走り出す。
それが、数日続いた日のことだった。
早起きして。俺はいつものように街の東の郊外を走っていた。国境に近い側だ。だから念入りに足で確かめながら進んでいた。
空が白み始めている。
その、東の空の際に。
赤い光が昇った。
狼煙だ。
足が止まる。
一本。それから、少し遅れて、もう一本。
そして――濃い霧が狼煙を隠した。




