第75話 疾風星将セフィーラ・カグラ
「――というわけだ」
木杯の水を飲み干して、俺は話を終えた。連れてこられたのは街の酒場だ。昼下がりのせいか客はまばらで、奥の卓に俺とネイの二人だけが向かい合っている。
「……嘘でしょ? 学校の授業――護衛任務中に、それが出たっての?」
「ああ。アリアと二人がかりでも、届かなかった」
言葉にすると、あの時の感触、悔しさを思い出す。俺とアリアが連携しても、倒すことはできなかった。
「星将様が三人も出張って、手練れはいなかったって話だよね?」
「取り逃がしただけだろ」
「……あんた、平気でとんでもないこと言うね」
ネイが息を吐いて、果実の絞り汁を一口飲む。それから杯を置いて、卓に頬杖をついた。
「まあ、聞けてよかったよ。上に報告させてもらう。その時はソラ、あんたも呼ばれると思うから頼んだよ」
「任せろ」
「いいねぇ、あんたは。いつも自信があって。アタイなんてこの部隊に入ってから、自信がなくなったよ……」
ネイがため息をつきながら、指先で杯の縁をなぞる。
「ソラも見たろ? うちは馬に乗って、走りながら射る。あれができて一人前。アタイは元々弓士じゃない。疾風星将様の部隊に行くからって、学校で弓の指導を受けていたんだ。でも、実戦を積んできた連中と並べられるとね……弓の実力だけで言えば、元からいた疾風星将部隊の騎士見習いと同じ……いや、それ以下だよ。そりゃあ当然さ。騎士見習いと言っても、二十代、三十代ばかり。十年やってきた連中に、二、三年で追いつけるわけがない」
「…………」
黙って聞く。女のこういう話は、相槌を打ちながら聞くのが一番と、シスターエレナが言っていた。
「霧が出たら、アタイは何の役にも立たない。弓は下から数えたほうが早い。索敵は通じない……分かる? 位と給金だけは高いけど、役に立っていないんだよ。別に泣き言じゃないよ。事実を言っているだけさ」
「でも霧が出て役に立たないのは、お前だけじゃないんだろ?」
「なんだい、慰めてくれるのかい?」
そう言いながら、ネイはおどけて見せる。
「……やっぱりステラ星煌学校を出たからには、期待はされてるんだよ。だからその期待に応えたいとは思ってるんだけどねぇ……ま、アタイもこのままで終わるつもりはないからね」
目は死んでいない。瞳には決意が宿っている。
こいつは大丈夫だ。少なくとも、俺に弟子入りを志願して来た奴らとは違う。
その時だった。
「あれ? ソラじゃんか? どうしてここに……って、おめぇ! やることやってんじゃんかよ!」
バルトが近づいてきて、ネイを見た途端に大声を上げる。
「しかも、こんなに綺麗な――くぅーっ! 羨ましいぜ!」
その背後から、プリシラまでも駆け寄ってきた。
「ソラ、この人誰?」
声はいつもどおりなのに、目だけが笑っていない。
「こいつは――」と、紹介しようとした俺を、ネイが手で制した。
「あー、待って待って。勘違いされても困るからさ。先に言っておく。アタイは疾風星将様の第三軍に所属しているネイ。位は騎士。ソラとはステラ星煌学校時代に、少しの間だけ共闘した仲だよ……ってか、あんたらアリアを見たことないのかい?」
バルトとプリシラが顔を見合わせる。
「アリア?」
「知らないわ」
ネイが俺をじろりと睨む。
「まぁソラは余計なことを喋らないからねぇ。アリアってのは同じ学校にいた女。ソラの学年の首席で、今は閃光星将の部隊にいる。入って一年で、聖騎士だってさ」
「聖騎士って……上位騎士だよな?」
「そう。一年で。最速に並んだって話題になってる」
バルトが口を半開きにしたまま止まった。
「それだけじゃない。頭も切れて、閃光星将様の側近を務めて、さらにはステラ星煌学校の教師も任されているんだよ」
「化けもんじゃねえか」
「それだけならまだいいさ」
ネイが指を一本立てた。
「別嬪なんだよ。とんでもなく――男を狂わせるくらいに」
「男を狂わせるくらいの別嬪? いくらなんでも大げさな――」
「いや、本当だよ。セフィーラ様の推薦した男が、アリアに見惚れて襲ったって話を聞いている。そいつは結局部隊から追放され、呪国に逃げて行ったって話さ」
「ま、マジかよ……」
そういえば、エイガーはセフィーラの名前を出していたな。
「それにね、うちの部隊で王都へ用事があると、志願する奴がたくさんいる。そのほとんどが、アリアを一目見たいからって話だよ。声をかけてるのは騎士たちだけじゃない。貴族も、学校の生徒も、こぞって言い寄ってるって話さ。でも騎士も貴族も生徒も全部だめ。浮いた話が一つも出てこない――」
プリシラがそっと訊く。
「……なんで?」
「そりゃあ、ソラと結ばれるためじゃないかい?」
ネイが顎で俺を示した。
「ま、そういうわけだからさ。アタイがこいつを振り向かせるなんて、逆立ちしても無理だよ。それにアタイにも想い人は別にいるからね。安心してくれていいよ」
ネイが真っすぐにプリシラを見据えると、プリシラは「分かりました」と小さく返事をするにとどまった。
♢
「――ここにいたのかい」
入り口から声がした。ヴァーグナーだ。外套の肩が少し湿っている。詰め所と商人組合を回ってきたらしい。
「団長! 聞いてくださいよ、ソラの奴が――」
「後にしな」
ヴァーグナーがバルトを片手で押しのけて、ネイの前に立つ。
「あんた、第三軍の子だね」
「そうだけど」
「ヴァーグナー傭兵団の団長だ。ひとつ頼まれてくれないかい。疾風星将様に会わせてほしいのさ」
ネイの眉が動いた。
「セフィーラ様に?」
「詰め所じゃ埒が明かなくてね。書状を出しても、順番待ちが三十だとさ」
ヴァーグナーが卓に手をつく。
「霧のことだよ。あたしらは傭兵だ。仕事をくれるならこっちは受ける。その話をしたいだけさ」
「……できなくはないけど」
ネイが言いにくそうに口ごもる。
「条件がある」
「言ってごらん」
「星将様は街の真ん中の屋敷に住んでる。泉に囲まれた、あの大樹の下」
俺は窓の外へ目をやった。この街に入った時から見えている。街の中心にそびえる巨木。その根元を丸く泉が囲んでいる。
「あそこにはね、橋がないんだ。泉に入らずに自力で渡ってこられる奴としか会わない。それが星将様の決まりごと」
「泳ぐのは駄目なのかい」
「入った時点で追い返される。屋敷の連中もみんな、跳んで渡ってる」
ヴァーグナーが眉間に皺を寄せた。
「……ずいぶんな話だね」
「そういう人なんだよ。自分の足で来られない奴の話は聞かないって」
♢
泉の前に立って、バルトが呻いた。
「……無理だろ、これ」
目の前に広がる水面は、思っていたよりずっと広い。中央の島まで、ざっと二十歩先にある。島に立つ巨木は首が痛くなるほど高く、その根元に立派な石造りの屋敷が、寄り添うように建っていた。水は澄んでいて底が見える。深くはない。だが、入った時点で面会はできないという。
「団長、どうします」
「……どうもこうもないね」
ヴァーグナーが腕を組む。
「あたしは跳べない。あんたもだろ」
「無理っすね」
「私も……」
プリシラが小さくなる。三人の視線が、こっちに集まった。
「ソラ。あんた、跳べるかい」
「跳べる」
「即答かい」
俺は腰を落として、右足首の留め具に手をかけた。金具を外す。鉛の帯が、どすん、と地面に落ちて、土がわずかに凹んだ。
「……は?」
左足首。どすん。右手首、左手首。どす、どす。外すたびに、その分だけ体が浮いていく。最後に上衣をたくし上げて、腹に巻いた帯を外す。これが一番重い。どすん、と鈍い音がして、砂埃が上がった。
バルトが一歩下がった。
「……お前、それ、いつも着けてんのか」
「起きてから寝るまでは」
「頭おかしいだろ」
身体が軽い。軽すぎて、地面を踏んでいる感覚が薄い。息を吸うだけで、勝手に浮き上がりそうになる。いつものことだ。外した直後はこうなる。
「ソラ、いいかい。あんたは口が下手だ。星将様の前で、余計なことは言うんじゃないよ」
「分かった」
「本当に分かってるかい?」
「傭兵団を雇え、と言えばいいんだろう」
「言い方だよ! 言い方!」
ヴァーグナーが頭を抱える。
俺は水際まで歩いて、島を見た。助走は取れる。踏み切りは水際の石。着地は向こうの草地。行ける……余裕で。
――三歩で加速して、四歩目で踏み込んだ。
石が沈むほどの反発。地面が一気に遠ざかる。
視界が跳ね上がる。泉の水面が下を流れ、日の光が水底の石に散っているのが見えた。風が耳の横を裂いていく。
落下。膝を柔らかく使って草地に降りる。振り返ると、向こう岸でバルトが口を開けたまま固まっていた。プリシラが両手で口を押さえている。
「――嘘でしょ」
声がしたのは上からだった。ネイだ。自ら風魔法を放ち、その気流に乗って、島へ降りてくる。着地して俺の顔をまじまじと見た。
「あんた今、魔法使った?」
「使っていない」
ネイが自分の額に手を当てる。
「ここを魔法なしで渡った奴なんか、聞いたこともないよ」
「重りを外したからな」
「そういう問題じゃないって」
屋敷を見上げる――かなり大きな屋敷だ。ただ、装飾の類は何ひとつない。デカいだけで造りはひどく質素だった。二階の窓が開いていて、白い布が風に揺れている。
ネイが俺の前に立ち、咳払いをして、背筋を伸ばした。
「セフィーラ様! ネイであります! お目通りを願います!」
声が幹に反響して、水面へ落ちていく。しばらく返事はなかった。やがて扉が開く。
出てきたのは、若い女だった。
二十歳かそこら。プリシラと同じくらいだ。腰まである長い髪を無造作に流し、袖の広い薄手の衣を着ている。武具の類は何ひとつ身に着けていない。
これが疾風星将――女だったのか。
「ネイかい。どうしたんだい、こんな時間に」
声は若い女のものだ。ただ、少し古風な感じの喋り方。
「傭兵団の方が、星将様にお目通りをと」
「傭兵団ねえ」
セフィーラは裸足だった。草を踏んで、こっちへ歩いてくる。
その足取りに俺は見覚えがあった。
迷いがない。土の柔らかいところ、石の浮いているところを、見もせずに避けて歩く。
「…………」
「おや」
セフィーラが俺の前で足を止めて、顔を覗き込んできた。
「思ったより早かったねえ」
――思ったより。
「ソラ、と言ったね」
名乗っていない。俺はこの女に一度も名乗っていない。
セフィーラが笑う。その拍子に襟元が揺れる。
細い紐が首にかかっていた。
その先で揺れているのは、掌に収まるほどの小さな袋。
碧色の布地に色褪せた金の刺繍。
「――婆さん」
「セフィーラだよ」
女が守り袋を指先でつまんで、俺に見せた。
「疾風星将セフィーラ・カグラ。あの時は世話になったねえ」




