第71話 卒業
いつもの朝だった。
あれから俺は誰よりも早く校庭に出るようにしている。今日もまだ誰もいない。少し遅れて銀の髪が門をくぐってきた。朝日を弾いて揺れる、アリアだ。
素振りを終え、木剣を交える。硬い音が澄んだ空気に響いていく。この一年で数えきれないほど繰り返してきた俺たちだけの時間だ。
ひとしきり打ち合って、剣を下ろす。
「アリア」
俺はずっと訊けずにいたことを口にした。
「本当に閃光星将の部隊に行くのか」
「……ええ、そうよ」
その声に迷いはなかった。
「再来年、リオンが学校に入るかもしれないし」
リオン。アリアの弟か。
「私たち騎士科は優秀な成績を収めれば、本来十八からしかなれない騎士に十六でなれる……実力で二年早く一人前になれるでしょ? 対して貴族科はお金なの。多額のお金を納めれば、貴族の子は十六で元服できる……ただ、それこそ目の玉が飛び出るような額がいる。去年までなら考えることすらできなかった」
アリアが空を見上げる。
「でも、今は違う。銀山が生き返った。街も戻ってきた。頑張ればリオンを送り出せるかもしれない……そこまで、手が届くところに来たの」
声が少しだけ弾んでいる。
「ただ、入れたところで苦労するのは目に見えてる。軍閥貴族の子は他の子よりずっと風当たりが強いから。だから――」
アリアがまっすぐ俺を見る。
「私は閃光星将の部隊に入る。シャーレ様の側近としてお仕えしながら、教師として、リオンを傍で見守れる……そういう道を選んだの」
全部家のためだ。街のため、弟のため。
アリアはいつだって、自分のことだけはいちばん後回しにする。剣を振る理由も、選ぶ道も、全部、誰かのためだ。それを迷いもせず口にできるのがこいつだ。
「ソラはどうするの?」
今度はアリアが訊いてくる番だった。
「シャーレ様から第一軍にってお話があったでしょう? あなたの天属性をすごく買っていらしたわ。特に【天瞰眼】は陛下や要人の護衛にこの上なく役立つって」
俺は木剣を握り直す。
この一か月、ずっと胸の中にあった答えを初めて口にする。
「俺はどの部隊にも属さない」
アリアの目が大きく見開かれた。
「……え?」
「俺の夢は三大極星になることだ」
「だ、だったら、第一軍に入った方が――」
「いや」
俺は首を振る。
「この一年で嫌というほど思い知った。俺には座学とか統率とか、そういうのは無理だ。俺は戦場でしか力を出せない人間だ」
だから、どこかに属して命令で動くより、強い奴を求めて、どこへでも行く。そういう生き方しか俺にはできない。
「それじゃあ……」
アリアが言葉に詰まる。
その蒼い瞳にみるみる涙が盛り上がっていった。
なぜ泣く? そう訊こうとして――喉の奥が震えた。
おかしい。なぜか俺まで泣きそうになっている。剣を握る手に力が入らない。
もしかして、別れるのが辛いのか? この胸を内側から締めつけてくる感じは──そういうことなのか。名前のつかないその感情をこいつに見られたくなかった。今の自分の顔を見られたくなかった。
俺は答えを待たず、逃げるように自室へ引き返す。
♢
卒業式の朝――
式典の広間には卒業する者たちが並んでいる。皆それぞれ配属される部隊の外套を纏っていた。炎獄星将の深紅。金剛星将の鉄色。それぞれの覚悟を肩に掛けている。
その中で俺一人だけが何も纏っていなかった。
どこにも属さないのだから当然だ。当然のはずなのに両肩がやけに軽く感じた。
卒業生代表はアリアとワフェルだった。ワフェルは貴族科の首席。二年がいてもなお、この二人が壇上に立つ。もっとも貴族科は一年生で確実に卒業できるから二年はいない。アリアの声は広間の隅々まで凛と通っていた。真っ直ぐで、迷いがなくて、いつものこいつの声だ。
この声を明日からは隣で聞けない。
そう思った瞬間、胸の奥がまた鈍く痛んだ。
式が終わり、一人ずつ徽章を受け取る。
剣と盾。その周りに三つの星が輝いている。
この星が四つなら上位騎士。五つなら騎柱。六つなら星柱。そして七つ揃えば――七輝星将。
俺の胸で三つの星が鈍く光る。まだ三つ。ここからだ。
♢
荷物はとっくにまとめてあった。
鉄の剣に着替えが少しと、クロフォードの木剣。ヴォリトからもらった懐中時計に、アリアからお礼と言われてもらった白銀の鞘。これさえあれば生きていける。
星将の部隊へ向かう連中には迎えの馬車が来る。奴らはその馬車を待っている。
でも、俺はどこにも属さない。
だから、一人で歩いて学校を出て、王都を出る。
アリアと二人で潜ったあの門を――今日は一人で潜る。
もう二人で一人前じゃない。これからはなんでも一人でやる。そう決めたんだ。決めたはずだ。
門を跨ぐ――その時だった。
「ソラ……」
背後から声がした。
アリアの声だ。
震えている。
振り向くと、やっぱり泣くのをこらえていた。
唇を噛んで、それでも真っ直ぐ俺を見ている。
もう、四年近い付き合いになる。俺が十二の時からだ。孤児院を出て、剣しか知らなかった俺の隣にずっとこいつがいた。文字を教わり、魔法を教わり、飯の食い方まで教わって、こいつに直された。別れとなれば寂しいに決まっている。
それに――俺からも言わなきゃいけないことがあった。
この想いにけじめをつけなければ……剣が鈍らないように。前を向くために。
「アリア。今まで世話になった」
アリアが首を横に振る。
「……そんなことない。私の方がずっと世話になってる」
声が掠れていた。
「あなたがいなければ、私はここまで努力できなかった。あなたがいなければ、牙獣柱なんて倒せなかった。あなたがいなければ、セレスティアに光は差さなかった。あなたがいなければ、私は前を向けなかった。あなたがいなければ……こんな気持ちに……」
アリアの言葉がそこで詰まった。
俺にも言いたいことがある。前を向くために。この胸のつかえを下ろすために。
「アリア……」
俺の声も震えていた。喉の奥がひどく乾く。
あと一言。あと一言だけ、持ってくれ。
「……好きだった」
言ってしまえば意外なほど短い言葉だった。四年分がたった一言に収まってしまう。
アリアの頬を一筋の涙が伝う。
「達者でな」
分かっていた。こいつはこう言われるたびに、いつも困った顔をする。
ヴォリトの部隊を出る時、何人もの男がこいつに想いを告げた。そのたびにこいつは同じ顔をした。あの頃の俺はなんでわざわざ困らせることをするんだ、と思っていた。
でも、今なら分かる。伝えなければけじめがつかないのだ。はっきり気持ちを告げて、断ち切る。剣を鈍らせないために。だから、思いの丈をぶつける。ぶつけて、そのまま去る。
こいつの困った顔は見たくなかった。
顔を見ないように、俺はすぐに踵を返し、街へ出ようとする。
――が。
柔らかい感触が俺を包み込んだ。
「……私も」
何を言われたのか……分からなかった。
背中から腹部に回された腕。押しつけられた額。その体温が外套のない背中にじかに沁みてくる。アリアが俺を後ろから抱きしめている。
「私も……あなたのことが――ソラを愛してる」
アリアが……俺を?
こいつが嘘をつく人間じゃないことは誰より知っている。
でも、ずっと迷惑ばかりかけてきた俺を――愛してる?
一度くらい殴られるかと思っていた。だが、これは別の意味で心臓を殴られた気分だ。
「でも、お前……」
振り向くと、耳まで真っ赤にしたアリアがいた。
「でも、も何もないわよ」
涙で潤んだ目のまま、こいつは俺を睨む。
「好きでもない人と、一緒の部屋で寝たり、治療のためとはいえ膝枕をしたり、自分のベッドを使わせたりするわけ、ないでしょう」
一緒の部屋で寝たのは入学前――いや、ヴォリトの部隊で獣人と戦っていた頃からだ。あの頃からこいつは……いや、俺だってあの頃にはもう……。
もっと言えば、その前からだ。ヴォリトに「二人で一人前」と言われた、あの時くらいから。ずっとだ。
視線が交差した。
「ほ、本当に私のこと――」
「好きだ」
俺の言葉に狼狽えるアリア。
しばらくの沈黙。そして、俺を見据えて――
「じゃ、じゃあ……証明して……見せなさいよ」
そっと瞳を閉じる。
俺でもこれが何を意味しているかは分かる。
ゆっくり顔を近づけて――鼻と鼻がぶつかる。ぎこちなく角度を変え、潤んだ淡い薔薇色の唇へ、俺のそれを重ねた。
柔らかい。
愛おしい。
恥ずかしい。
離れたくない……。
ほんの一瞬のことだったのかもしれない。
でも、それが長く感じられた。
唇を離してもなお、俺の唇にはアリアの熱と、香りと、気持ちが残っている。
心臓がはち切れそうだった。数えきれない斬り合いをくぐってきた心臓がこんな一瞬にだ。アリアは顔を朱に染めている。きっと俺もそうなのだろう。
「ふふ……初めてでしょ」
「当然だ。お前は?」
「初めてに決まっているでしょ」
それきり、二人とも黙ってしまう。
何を言えばいいのか、分からない。
でも、気持ちが通じ合ったことだけははっきり分かった。
俺たちの道はもう別々だ。夢も、進む先も違う。
それでも――通じ合っていると分かれば、もしかしたら……。
だから、精一杯頭を働かせて、俺は一言だけ口にした。
「アリア。またな」
「……ええ。また」
そう言って、俺は王都セプテルムを後にした。
背中でこいつが泣き笑いしているのが、振り返らなくても分かった。
20時にもう一話上げて第3章完結となります。




