第63話 鉱脈
ベルモント子爵家からは、支度が整い次第人を遣わす、と追って報せがあった。到着まではまだ数日かかるらしい。
その間、ヴィクターは宣言どおりに動く。
翌朝、俺とアリアが屋敷の玄関へ下りると、ヴィクターはもう身支度を終えて待っていた。当主の正装ではない。使い込まれて味の出た丈夫な革の上着。腰には年季の入った剣。山へ入るための装いだ。
「行くぞ」
それだけ言って先に歩き出す。
街を抜ける道すがら、人々が足を止めた。残っていたわずかな鉱夫たちが目を見開いてヴィクターを見ている。
「御領主様……まさか、山に入られるおつもりか!?」
「おやめなせぇ! 死んじまいますぞ!」
声が飛ぶ。ヴィクターは足を止めない。
「私の山だ。私が入って何が悪い」
それだけ返して、麓の坂を登っていく。坂の半ばで息が上がり、足取りは目に見えて重くなる。額に汗が浮き、革の上着の背が濡れていく。
それでも、弱音はひとつも吐かなかった。
歯を食いしばり、ゆっくりでも、一歩一歩、確かに前へ足を踏み出していく。
アリアは黙って歩幅を合わせている。手は貸さない。貸そうともしない。ただ、隣を歩く。この親あってのアリアだ。この背中を見ていれば分かる。
坑道に入っても、同じだった。俺とアリアの魔力の光を頼りに、ヴィクターは自分の足で歩き、自分の目で坑内を検め、日が傾く前に自分の足で出てくる。
それを毎日続けた。
日を追うごとに見送る人影が増えていく。遠巻きに領主が山へ入り、無事に出てくるのを見ている。誰も近づいては来ない。だが、誰も目を離せずにいた。
♢
変化は数日目の朝に訪れる。
坑口の前に一人の老人が立っていた。
白髪まじりの髪を短く刈り、節くれ立った手に使い込まれた鶴嘴を提げている。
「……御領主様。わしも入らせてくだせぇ」
老人は深々と頭を下げた。
「エルツと申しやす。ここで四十年、石を割ってきた鉱夫でごぜえます」
ヴィクターが老人を見据える。
「山は呪われていると聞いたが」
「へえ。わしもずっとそう思っておりやした」
エルツと名乗った老人は頭を下げたまま続けた。
「あの日……仲間が帰ってこなかった日でさ。わしは生まれて初めて熱を出して、仕事を休みやした。四十年でたった一度の休みで……その一度でわしだけが残っちまった」
節くれ立った手が鶴嘴の柄を強く握る。
「何が起きたのか知りてえと、ずっと思っておりやした。けど、怖くて足が動かなかった……御領主様が毎日山へ入りなさるのを見て、目が覚めたんでさ。わしだけ、いつまでも逃げてるわけにはいかねえ」
顔を上げたエルツの目には覚悟が宿っていた。
「閉山の直前までどこを掘っていたか。この頭に全部入っておりやす」
ヴィクターは短く頷いた。
「……頼む」
♢
エルツの案内には迷いがなかった。
枝分かれする坑道を淀みなく折れていく。俺たちが何日もかけて坑内図に書き込んだその先へ。やがて坑道の突き当たり――切羽と呼ぶらしい――に着いた。
「ここでさ。あの日、わしらが掘っていたのは」
岩肌には鶴嘴の跡が生々しく残っている。あの日のまま時が止まったみたいに。
エルツが岩の目を指でなぞり、拳で叩き、耳を当てる。
「……掘るなら、ここと、ここだ。上は支保を足さねぇと崩れる」
「しほ?」
「天井や壁が崩れねぇように支える仮設の木組みでっさ。そっちの筋には触んね。ガスが抜けてくる。あっちも地下水脈に繋がってるかもしんねぇ」
どこを掘っていいか、どこが危ないか。判断は全部エルツがやる。アリアの言っていた、素人が掘る危うさ。そこはこの爺さんが埋めてくれる。
ならあとは力仕事だ。
「振り方を教えてくれ」
「……兄ちゃんがやるのかい」
エルツが鶴嘴の握りと、腰の入れ方と、岩の目に当てる刃の角度を教えてくれた。頭で覚えるのは苦手だ。だが、体で覚えるのは得意だ。何度か振るうちに腕が形を覚えた。
あとは振るだけだ。
掘って、掘って、掘りまくる。
剣の素振りに比べれば、鶴嘴はただ重いだけの得物だ。重いのには慣れている。三か月間、重りをつけて振ってきた腕だ。
岩の砕ける音が坑道に絶え間なく響く。アリアが砕けた石を運び出し、ヴィクターが選り分ける。エルツは俺の掘り筋を検めながら、何度も目を丸くしていた。
「休みなせぇ、兄ちゃん。潰れちまうよ」
「まだいける」
「……もう半日、振り通しだぞ」
「まだいける」
「一人でわしら何人分……何十人分働くつもりでぇ」
エルツが呆れたように首を振る。
「四十年やってきたが……こんな奴ぁ初めて見た」
ヴィクターも俺の後ろに立つ。
「ソラ、もう何時間も動きっぱなしだ。休憩しろ」
「必要ない」
「手が痺れるだろ。騎士が痺れて剣が握れなくなったら本末転倒」
「こんなので痺れない。アリアと打ち合っている方がよっぽど痺れる」
「……アリア、お前からも言ってやれ」
しかし、アリアは首を振りながら微笑む。
「父様、ここはソラを信じてください」
「このままでは壊れるぞ」
「ソラはそんなやわな鍛え方をしていません。それに何かあれば私が癒やすことも可能です。ここは彼の厚意に甘えましょう」
そして、その時が来た。
鶴嘴の先がこれまでと違う音を立てる。硬く、澄んだ、跳ね返るような音。
「待った!」
エルツが飛びついてくる。砕けた岩肌を照らせと言われて、金の魔力を近づける。エルツは指でなぞり、唾を飲んだ。
岩の中に鈍く光る筋が走っている。
「……鉱脈だ」
声が震えていた。
「しかも太え……こいつは太いぞ……! 生きてる……この山はまだ、生きてる!」
エルツが岩肌に額を押しつけた。節くれ立った肩が小さく震えている。ヴィクターは何も言わず、その光る筋をじっと見つめている。固く握られた拳だけがこの男の中身を語っていた。
♢
翌日、エルツは街を回る。
「鉱脈は生きてる! この目で見た! この手で触った! 騎士様たちもついていなさる! なあ、掘ろうじゃねぇか! わしらの山だ!」
四十年山に潜ったエルツの言葉と、毎日山へ入り続けた領主の姿。信じない者など、いなかった。集まったのは十人。
街に残っていた鉱夫の、ほとんど全員だ。
その日から、銀山に音が戻った。槌の音。掛け声。荷車の軋み。坑口を出入りする男たちの足音。何年も死んでいた山が息を吹き返していく。
アリアは坑口の脇に立って、その光景をずっと見ていた。何も言わない。ただ、その横顔はいつになく柔らかい。
――そして、数日後。
麓の道の先に土煙が上がった。
馬車と騎馬の列。掲げられた旗はベルモント子爵家のものだ。
先頭の馬車から恰幅のいい男が降り立つ。仕立てのいい上着。柔らかい笑み。ドレイク・ベルモント子爵だ。
「いやあ、遅くなった! 支度に手間取ってしまってね!」
朗らかな声が麓に響く。
「約束どおり人手を連れてきましたぞ……ほう? もう山が動いているではないか。さすがはセレスティア卿。いや、大したものだ」
子爵の後ろには騎士たちが整然と並んでいる。数は五十を超えるだろうか。
ヴィクターが進み出て、型どおりの礼を交わす。アリアも一歩下がって、ヴィクターの後ろで綺麗に頭を下げた。
その所作はいつもどおりの完璧な礼だ。
だが――隣に立つ俺には分かった。
アリアの纏う空気がほんのわずかに張り詰めたのが。
ふと、気づく。
子爵の斜め後ろにいつの間にか男が立っていた。
痩せた影の薄い男。灰がかった外套。ルパナルで会ったあの騎士団長――ヴェイル・カルマイン。
今回もいつからそこにいたのかまったく掴めなかった。
「賑やかで実に結構」
ドレイクが目を細めて槌音の響く山を見上げる。
銀山の音が一瞬だけ遠くに聞こえた気がした。
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